ロシアのあとがき 1
真田とロバートはアメリカに戻った。ロバートはアーロンに負けてからというもの、今まで以上にチェスにのめり込んだ。起きている時、常に頭の中でチェス盤をいじっていた。食事をしている時も、学校での授業中も、そして学校を終えるとチェスクラブに毎日顔を出すようになった。寝ている時も夢の中でいつも通り、頭の中にコピーされた様々なマスターを相手に対局をする。その中にはアーロン・ガチンスキーも含まれていた。
真田はロシア取材の記事執筆に追われていた。大会期間中の出来事、代表選手達の紹介や簡単な棋譜解説など、世界のチェス事情に無知な日本人向けの記事なので、書き方には工夫が求められる。しかし、将棋や囲碁愛好家向けにチェス通ぶれる記事も要求された。それにチェス関連記事以外にも、彼はたくさんの取材を抱えていた。
あれから、名刺を渡したアレクサンドラから1通のメールが来ていた。メールは英語で書かれていた。
『あなたはただの記者じゃないとは思っていたけれど、まさかFIDEマスターの資格保持者だとは驚きでした。ロバートの保護者代りをしていたのも納得ですわ。レーティングが2400に乗っているのなら、すぐにIMになれるわね。今度、私もアメリカ開催の大会にでも出てみようかしら。また、ロシアにいらして下さいね。
忘れえぬ女アレクサンドラより』
これに真田は、
『アメリカにいらっしゃる際は是非ご連絡下さい。改めて取材を申し込ませていただきます。ロシアには取材などでこれからも何度か伺う機会があると思います』
とだけ返事をした。
真田は自室でもずっとパソコンに向かい、記事を書いていた。アレクサンドラからのメールに気が付き、返事をしたところで、机から離れベッドに横になった。
たちまち真田は夢に堕ちた。見渡す限り真っ白な世界、ここにいるときはいつも満ち足りた気持ちになれる。それは脳と身体は休まっているからだと真田は考えている。
ここでチェスをしようと思えばチェス盤が現れる。対局相手がほしければ作り出すことも出来る。真田もロバート同様、ここで今まで対局したことのあるマスター達を自分の意識内にコピーすることができた。これにおいて真田も相手は本当のコピーではなく、自分の意識下で相手の指し手の癖や傾向を理解しているがために作られた棋譜に過ぎないと考えていた。
時々遠くにロバートらしき少年が見えるのも、自分がロバート・フリッツという1人の天才棋士に注目しているからだとも思っている。
『昔からずっとそうだった。ここは将棋をするにもチェスをするにも、とても都合がいい空間だ。この夢は俺の才能なんだ』
ふと、遠くにロバートが見えた。
あの日の夢と同じ位置。日本チャンピオンの坂平誠と対局した日の夢と同じ距離だ。
地べたに座り込んでチェスをしているロバートの横に、あの日同様、見知らぬ14〜15歳程の少年が立っている。少年は相変わらず、一見すると美しい少女のようだった。ボーイッシュな女性のようにも見えた。着ている服が、男性用のスーツだったため判別がつく。あの時、「早くここまでおいでよ」などと言っていた。
『この少年は誰だろう? 会った覚えがない』
真田はそう思った。
真田は2人のいる方向に歩き出した。「ここまでおいでよ」と言うのだから、行こうと思ったのだ。
少し歩いた所で真田は見えない壁にぶつかった。ガラスの壁がそこにあるようだった。するとさっきまで遠くにいた少年がガラスの壁越しに、すぐ目の前にいた。ガラスの壁に両手をつき、紅く小さな口を半開きにして青い瞳でこちらを見ている。




