チェス帝国ロシア 8 〜アーロン・ガチンスキー〜
アレクサンドラは意外にも喜んでいるようだった。
「最近のグランドマスターたちのチェスを御存知かしら? 彼らはチェスをただの計算としてしか見てない気がするの。彼らの指し手はコンピュータの計算のコピーばかりで、全然美しくないのよ」
「最近の新手はコンピュータ由来が多いそうですね」
「そうよ。でも、そこには人間の歴史や情念が感じられないのよ。そんな対局よりも、私はファンと対局してる方が好き。だってみんなの指し手には、1手でも長く私と対局したいって愛が感じられるもの。棋譜をただの記号の羅列としてしか見れないのは、優れた文学作品を物語としてしか読めないのと同じくらいつまらないことよね」
「じゃぁ、ロバートとチェス学校の少年たちの対局には、お互い敵意に溢れてましたね」
真田の言葉にまたアレクサンドラが笑った。
「そうね、そして堪えきれない悔しさが爆発したのね。あの老講師は地雷を踏んだのよ」
2人が談笑していると、にわかに会場が騒がしくなった。記者だけでなく、観衆たちも1人の男の登場に湧いたのだ。その男はロシアランキング11位、世界ランキング16位のアーロン・ガチンスキーであった。年齢は真田とそう変わらない、とても背が高く、彼を囲う記者たちよりも頭ひとつ抜けている。黒髪をオールバックに固め、濃く鋭い眉毛と強い意志を感じさせる若々しい目、紺のスーツの艶を輝かせて歩く彼をひと目見れば、インテリのエリートか一流のスポーツ選手かと誰もが思うだろう。
アーロンは群がる記者たちに適当に相槌を打ちながら、辺りを見回していた。きっとここで多面指しをしていたロバートを探しているのだろう。アーロンはアレクサンドラに目を向け、眉を上げてこちらに手を振った。記者たちを手のひらで制止し、こちらに向かってきた。
「やぁ、アレクサンドラ。多面指しはもう終わったみたいだね。ロバート・フリッツはどうだった? 」
「ええ、全勝ですわ」
アレクサンドラは笑いながら答えた。2人はロシア語で話していて、真田には意味はわからないが、会話内容の察しはついた。
「そちらは? 」
アーロンが真田を手で差して聞いた。
「こちらはアメリカで記者をしてる真田智史よ。ロバートの付き添いでもあるわ。あ、この人、ロシア語はダメですわ」
アーロンがアレクサンドラの言葉に了解すると、真田に英語で話した。
「どうもアーロン・ガチンスキーと申します。今日はおたくのロバート坊やと手合わせさせて頂きます」
アーロンは真田に手を差し出し、握手した。
「ええ、グローバル・カルチャーで記者をしております真田智史です」
真田はアーロンに名刺を渡した。するとアレクサンドラが少し不機嫌に、
「真田さん、私にもその名刺くださる? 」
と言った。
「すみません、昨日渡すべきでしたね」
真田がアレクサンドラにも名刺を差し出すと、彼女は名刺を右手の人差し指と中指でつまみ、天井の照明に透かすようにそれを見た。名刺をチラと見た時の彼女はオモチャを与えられた少女のようなあどけなさを一瞬見せた。
「それじゃ、私は失礼しますよ。また対局会場で」
そう言うとアーロンはその場から去って行った。
アーロン・ガチンスキーは強さを表すレーティングの数値が2750台であり、ロバートは2650程である。マスター同士のレーティング差100というものは大きな差になる。アーロンは大人で洗練された手を指すのに対し、ロバートの指し手はダイナミックであったが、まだ荒かった。ロバートはきっと勝ちにいくつもりだろうが、真田はロバート勝ちの望みは薄いと考えた。




