チェス帝国ロシア 6 ~初手h4~
前日祭を迎えたトレチャコフ美術館は大賑わいであった。チェスマスターによるレベル別のレクチャーには多数の親子連れ、女性マスターによる指導対局やサインに押し寄せる男性達、ロシア人マスターのチェス書籍の販売会、そしてチェスには目もくれず名画を鑑賞する人々など。チェス学校の生徒達と思われる団体を見つけた。彼らはきっと30人でもってアメリカの神童ロバートに立ち向かうのだろう。
やがて、30枚のチェス盤が並べられた 長テーブルの前にアレクサンドラ・カレーニナが現れ、観衆に拍手で迎えられた。そして、椅子が2脚用意されアレクサンドラとスーツ姿の白人の男性が座った。対局の前にちょっとしたトークショーがあるらしい。大きなテレビ用の撮影カメラとガンマイクが2人に向けられた。
「女子世界チャンピオンタイトルマッチを来月に控えていますが、挑戦者決定戦を戦っている選手達をどう思いますか? 」
スーツ姿の男性がアレクサンドラに聞いた。話し方やインタビューの姿勢から、この男性はロシアのテレビ局のアナウンサーではないかと思われた。インタビューはロシア語で話されたが、話者に遅れて通訳が英語で観衆に向けて話した。
「皆さんとてもお強いです。誰が挑戦者に決まっても、きっと防衛するのは簡単じゃありません。何か一言とおっしゃるのなら......私もチェス帝国と言われるロシアの一員ですもの。決定戦ではロシア人選手を応援してしまいますわ」
観衆は笑った。英訳された後もう一度笑い声が聞こえた。
「アレクサンドラさんは女子世界チャンピオンとして世界中の国際大会を転戦しながらも、このようなチェスの普及イベントに精力的に顔を出してくださってますよね。試合に支障はでませんか? 」
アレクサンドラはマイクを持っていない左手で髪を書き上げ、左の耳の上に流した。その顔には意地悪な少女の冷笑が浮かんでいた。
「女子チャンピオンという地位は、女性であることを理由に特別に与えられた地位ですわ。実力では本当の世界チャンピオンには遠く及びません。女子チャンピオンはチェス普及のための広告塔としての役割を全うしなきゃならないの......でも、私がチェスをプレイしているのは、男性に勝ちたいからよ。女性が男性に勝つことのできる競技なんて他に想像できないわ。もし、私に興味を持つ男性がいたなら、その人はきっとチェスにも興味をもつはず」
アレクサンドラが言い終わると、男性達の拍手と指笛が響いた。英訳はかき消されそうになったが、真田はなんとかすべて聴き取ることができた。その後、多面指しが始まり、アレクサンドラは長テーブルの前に並ぶ男性達に次々とポーンを突いて行った。真田はその様子を写真に撮ると、ロバートの多面指しの会場へ足を運んだ。
運よく、まだロバートの多面指しは始まってなかった。しかし、そこはアレクサンドラと彼女のファン達との和やかな雰囲気とは隔絶している。ロバートの前にいる10代前半の30人の少年達は、やはりチェス学校の精鋭だった。多面指しに参加する選手はマスター資格を持たない者に限られていたが、みんなレーティング2000オーバーの強豪揃いである。30人の少年達は、狼の子供の群れのように見え、その視線は今にもロバートの首筋に噛み付こうとしているようだった。
それに対し、ロバートは怪物らしく振舞った。背筋は真っ直ぐ伸ばされ、インタビューにも明朗に答えた。彼は黒のスラックスに灰色のワイシャツを着ていた。彼の堀の深い目と尖った耳により、ロバートはハロウィンの仮装のようにも見えた。対局は始まり、白を持つロバートはテーブルの端から順に第1手を着手する。ここで驚きの1手を指した。会場はどよめき、着手されたロシアの子狼は次々にロバートを睨んだ。彼は初手h4と指したのだ!
この手が驚かれる理由は、3つだ。
1つ目は、白番を持っているにも関わらず制圧すべき中央に力を及ぼしていないこと。1手パスしたも同然である!
2つ目は、防御の面でまずい、キングサイドにキャスリングしたならば、それは崩れた城に王様を招き入れることである!逆サイドにキャスリングするにしても、相手は最初からそこに戦力を集中させる戦略をとることもできる。ロバートは防御面でのアドバンテージをすべて捨てた!
3つ目に、すでに正当な定跡からは外れているため、30人を相手に最初からすべての手を自力で考えなくてはいけない!
ロバートがこの手を指した理由、それは彼の目を見ればわかる。決して戯れに指したわけではない。自らハンデの上にハンデを課した上で全員に勝つつもりである。ロバートはチェス帝国の未来を担う30人の子狼達の心を砕く算段をしたのだ!




