チェス帝国ロシア 5 ~女子世界チャンピオン~
真田は、遠くで長いテーブルにチェスセットを大量に並べるスタッフ達と打ち合わせをしているロバートを見た。
「明日、あなたとロバートは多面指しをするんですね」
「ええ、30人を相手にするわ」
多面指しとはマスター1人が一度に何人もの相手をするサービス対局である。
「私はただそれだけ。殿方のお相手をするだけよ。でも、ロバート・フリッツGMには特別対局が用意されてるのよね。羨ましいわ」
ロバートは多面指しの他に、ロシアランキング11位の代表に1つ足りなかった棋士とのエキシビジョンマッチが用意されていた。ロシア代表からはずれた国内11位の選手とはいえ、その世界ランキングは16位であった。世界代表の内何人かよりもランキングが上なのだ。
「やはりロシアは、アメリカのロバートを警戒しているということでしょうか」
「そうでしょうね。13歳でレーティング2600に到達しGMタイトルを得るなんて、まるで伝説的世界チャンピオンの輝かしい軌跡を聴かされているようですもの。ロシアのジュニアにはまだ彼と戦える棋士はいませんわ。これを機にジュニア達に発破をかける気ね」
「私が記者だということをお忘れですか? この会話は記事になりますよ」
「かまいませんわ。記事にするなら写真も必要じゃなくて? 」
「それでは御言葉に甘えます。『忘れえぬ女』と並んでください」
アレクサンドラは絵の横に並び、真田は2人の「忘れえぬ女」を撮影した。
スタッフとの打ち合わせを終えたロバートは、各国の記者に囲まれていた。記者の質問に曖昧に答えるロバートの目に、アレクサンドラと親しげに話す真田が映った。記者の1人としてこの会場に来ているくせに、自分に関心を持たない真田に、ロバートは少し腹を立てた。
ロバートが会場での用事と記者の相手を終えた時、真田がロバートの肩を叩いた。
「お仕事は済んだようだな。さぁホテルに帰ろう。それとも館内を見て回って行くか? 」
ロバートは肩に置かれた手を払った。
「保護者気取りか。それとも独占インタビューか? 」
「そんなこと言って、1人じゃ戻れないだろ。さ、行くぞ」
ロバートは「ふんっ」と鼻を鳴らし歩き出した。真田がロバートの前に出て先導しようとすると、それを嫌ってロバートは真田に追い越させず少し前の位置を維持した。
「どうしてロシア人なんかと楽しそうに話してたんだ。あいつはアレクサンドラ・カレーニナだろ。俺の情報を流してないだろうな」
「ははは、何を言ってるんだ、俺はお前の味方さ。学校で習っただろ、我々日本とアメリカは同盟国なんだ」
「頼りない味方だ」
ロバートは精一杯の皮肉を口にした。真田は保護者という立場の余裕からか、ロバートが子供だからか、この皮肉を寛大に笑顔で受け止めた。
ホテルに戻ると、ロバートは明日のエキシビジョンマッチに向けてタクティクス問題集をめくっていた。
真田もチェスのトレーニングをしたい所だが、記者として遥々ロシアまで取材に来たのだ。仕事をしないわけにはいかない。ロシア取材記事の第1段に『2人の忘れえぬ女』と題を付けた。
『ロシア代表対世界代表マッチを2日後に控え、前日祭の準備に忙しい会場となるモスクワのトレチャコフ美術館。モスクワを観光するのであれば是非訪れておきたい名所である。そして訪れた際にあなたは、ある女性に心を奪われることになるでしょう。その女性は馬車の上から物憂げな、もしくは高慢な表情であなたを見下ろしています。そう、彼女はロシアのモナリザ、トレチャコフ美術館所蔵のクラムスコイ作『忘れえぬ女』です。しかも私は幸運なことに、もう1人の忘れえぬ女に出会うことが出来ました。彼女こそは世界中のチェス愛好家を魅了してやまない、女子世界チャンピオン、アレクサンドラ・カレーニナです。彼女は......』
真田のコラムには『忘れえぬ女』と並ぶアレクサンドラの写真が添えられた。
コラムは会場の様子と2人の女性の話題で終わっているが、真田にとって本当に忘れられないのは、公園のチェス少年ニキータである。父親の預かり知らぬ所でチェスのルールだけをどこかで覚えることはあるにしても、あの年齢の子供の間だけで定跡を学ぶ段階まで発展するだろうか。もし、ワシントン公園での真田がそうであったように、あのニキータという少年もその場で自ら考え創造した手が、過去のマスター達の何百年にもおける研究と一致していたとすれば......。その才能の先天性は、将棋で素養のあった真田を遥かに凌ぐものだ。ましてあの子はまだ字の読み書きもままならない6歳か7歳だ。
真田は忘れえぬ女ことアレクサンドラとの出会いよりも、ニキータに対し運命めいた何かを感じずにはいられなかった。




