チェス帝国ロシア 4 ~忘れえぬ女アレクサンドラ~
真田とロバートはそれぞれホテルに荷物を置き、大会会場へと足を運んだ。会場となるのは世界チャンピオンタイトルマッチの会場にもなったことがある、トレチャコフ美術館である。キリル文字で書かれたロシア語が一切読めない真田とロバートは、英語の地図を頼りに美術館に到着した。トレチャコフ美術館の正門はまるで城壁のようだった。壁は灰と白と赤茶のコントラストに照り輝き、壁から突き出した入り口玄関は三角屋根で覆われていて、正門の前には、美術館の創始者である資産家パーヴェル・トレチャコフの銅像が建っている。人工的に作られた物特有の「騒がしさ」が芸術と美に変貌するとは正にこのことである、と主張が込められているかのように感じさせる建物だった。ロシア代表対世界代表前日イベントを明日に控えた会場は、大会運営者と報道陣であふれている。ロバートは運営スタッフとの打ち合わせへ、真田は取材へと分かれた。
数々の名画が並ぶ下でスタッフたちはチェステーブルや演台などを運搬し、報道陣は会場の様子をくまなく撮影しようと躍起である。ロシア人のチェス棋士らしき初老の男性が何本ものマイクを向けられている場面にも出くわしたが、代表の選手たちは会場にはいないようだった。真田は会場の写真を撮りながら、名画に酔いしれていた。知性の象徴ともいえるチェスの頂上戦を、この壁に掛けられた「美」の下で行うというのはなんと画になるのだろうと考えていた。ロシアこそが知性と芸術の国であることを示す良い演出である。ロシアという国はチェスをただの「マインドスポーツ」としてではなく、一種の芸術、知性によって創造され彩られる「理性演劇」として捉えている。だからこそロシアは強いのだ。
真田は1枚のある女性の肖像画の前に立ち止まった。その絵は全身をビロードと毛皮で覆っていて上流階級だと思われる女性の肖像画で、雪景色を背負い馬車の上から、見る者を物憂げなまたは高慢な冷笑を浮かべ見下ろしている。その絵画はトレチャコフ美術館所蔵のロシアを代表する最も有名な、クラムスコイ作『忘れえぬ女』であった。ロシアのモナリザとも言われる、帝政ロシア末期の傑作である。
真田が絵を眺めていると、後ろから女性に英語で話しかけられた。
「あなた、日本人かしら? 」
振り返ると、長髪のブロンドを輝かせた、物憂げな表情に高慢さを乗せたような女性がいた。後ろにも忘れえぬ女がいたと真田は思った。真田はこの女性を知っている。
「ええ、よくわかりましたね。日本人ですよ」
「身なりを見ればわかりますわ。知ってました? ここでは将棋は扱いませんのよ。それとも観光客かしら、今日は関係者以外入れませんわよ」
女性は馬車には乗っていないが、少女のような意地悪な笑みを浮かべた。
「記者ですよ。アメリカでも似たようなイヤミを言われました。初めまして真田智史といいます。あなたはアレクサンドラ・カレーニナさんですね」
真田が差し出した手をアレクサンドラは快く受け取り、握手をした。
「あら、チェスに無関心な日本人が私を御存知なんて光栄ですわ。それともあなたは私のファンかしら? 」
アレクサンドラ・カレーニナは現女子チェス世界チャンピオンのロシア人女性である。彼女は19歳の時に女子世界チャンピオンとなり、23歳になる今までその座を守り続けている。
「アメリカで文化記者をしていますから、あなたのような美しいチェス棋士はリサーチ済みですよ。たった今あなたのファンになったところです」
アレクサンドラは口に手を当てて軽く笑った。
「こんな時に帝政末期の作品を眺めているなんて、チェス帝国ロシアの崩壊でも予見しているのかしら? 」
「他意はありませんよ、代表戦もきっとロシアが圧倒するでしょう。ただ、あなたと『忘れえぬ女』の魅力が重なりまして」
「『忘れえぬ女』に対しては、決して美人ではない、なんて評価する人もいるのよ」
「美のわからない人なんですよ」
「あら、御上手ね。日本人はもっと奥ゆかしく静謐だと思っていましたわ」
「アメリカに毒されたのかもしれません」
「あそこは悪い国ね。ダメよ伝統と文化は大事にしなきゃ」
トレチャコフ美術館は実在する美術館で、モスクワを代表する観光名所です。2012年にはチェス世界チャンピオンタイトルマッチの舞台にもなりました。
『忘れえぬ女(見知らぬ女)』も実在する作品です。是非、検索してどのような美術館か、作品かというのをお確かめください。




