チェス帝国ロシア 3 ~少年ニキータ~ (ルイロペス)
真田は感心した。この子供は6歳か7歳にして盤上の座標を理解しているのだ。本来ではもっと驚愕すべき知的能力であるが、真田は、さすがチェスの帝国ロシアだと感心するにとどまった。
将棋のプロ棋士にも、平仮名・漢字など文字を覚えるより先に、将棋の手を理解し棋譜を読めるようになった者は少なくない。
真田はこの子供は将来のグランドマスター候補だなと思った。
子供は盤の周りを真田を見つめながらうろうろと歩き回っている。真田は次の黒の手も子供が好きに動かすものと思っていたが、どうやら次の手を待っているように見えた。
真田が黒のポーンをe5と突くと、子供は満面の笑みを浮かべた。
子供は白のキングサイドのナイトを抱きしめて、
「Nf3(ナイトエフスリー) 」
と言った。
真田がナイトの駒を持ち上げて動かした。これはナイトで黒のe5ポーンを攻撃する手である。
またも子供はじっと真田を見つめている。真田はNc6と指した。攻撃されたポーンをナイトで守る手だ。
子供は嬉々として次の手を言った。
「Bb5(ビショップビーファイブ) 」
ビショップを繰り出し、黒のナイトに引っ掛ける手だ。
中央にポーンを据え、ナイト、ビショップの順に駒を展開し、キャスリングの権利を得る。最も基本的な序盤の指し方である。この白の手までの指し方が『ルイロペス』と呼ばれるオープニングの基本形である。
真田は元々子供はそんなに好きではないが、将棋やチェスが絡むと話は別だ。現にロバートと言う14歳の少年と毎週チェスを指し、今日に至っては2人で遥々ロシアまで飛行機に乗ってきた。
そんなロバートは、楽しそうに大きな石の駒を動かす真田を冷めた目で見ていた。
真田はa6と指した。これは白がビショップをナイトと交換するか、退いて力を貯めるか態度をハッキリさせるよう迫る手である。
「Ba4(ビショップエーフォー) 」
子供はビショップを退いた。ここまですべてルイロペスの定跡通りである。真田は、この子は最近ルイロペスを覚えたのだろうと思った。
ルイロペス定跡は初心者がルールを覚えた後に、最初に学ぶ定跡である。しかもビショップを退いたということは、ルイロペスの中でも「チゴリンヴァリエーション」になるだろう。チゴリンヴァリエーションとはチゴリンという昔のロシア棋士が創造した戦法である。
丁度いい、ロシア棋士チゴリンに敬意を表し、この未来のグランドマスターと歴史を辿ることにしようと真田は考え、Nf6と指した。
「◯ー◯(ショートキャスリング) 」
白はキャスリングし守りを固めた。
黒の真田もキャスリングを目指し、Be6とビショップを守りの位置につかせた。
「Re1(ルークイーワン) 」
ルークでe4ポーンに紐を付けた。
真田はb5とポーンを突いた所で、子供が、
「красивый! (クラスィーヴィー!) 」
と跳びはねながら大きな声で言った。
ロシア語で美しいと言ったが、真田には何と言ったのかわからなかった。
その時、子供の声を聞きつけた父親らしき30代後半の男が走りよってきた。
「ニキータ! 」
この子供はニキータという名前らしい。ニキータは男の方をニコニコしながら見ていた。
「この子の父親ですか? 」
真田は英語で言った。男は一瞬間を置いて、
「ええ、看ててくださったんですね。ありがとうございます。ちょっと目を離した隙に居なくなってまして」
と英語でかえした。
「この歳でチェスができるなんて、さすがロシアですね」
「チェス? この子が? 家では教えてませんが......どこで覚えたんでしょう」
父親がニキータにロシア語で何か聞くと、ニキータは、
「фея!(フェーヤ!) 」
と言ってロバートを指差した。父親はロシア語で何か注意しながらその指を下げさせた。おそらく「人を指差してはいけない」と言ったのだろう。
「その子は何て? 」
「妖精が教えてくれたと言っています」
父親は笑っていた。фея(フェーヤ)とは妖精という意味だ。ロバートは怪訝そうな顔で真田と親子を見た。ニキータはロバートに向かって手を振っている。
それから親子は礼を言って去って行った。
「ねえパパ」
ニキータはフードを脱ぎ、マフラーを下げて口を出した。黒髪の少女のような少年だった。
「なんだい? ニキータ」
「どうしてチェス盤は平面なのに、奥行きが見えるの?時々、盤の中に潜るんだ」
「へぇ、潜って何が見えたんだい? 」
父親は妖精のときと同じくメルヘンな想像だと思って聴いている。
「とっても美しくて......いっぱい血が見えた! 」




