チェス帝国ロシア 2 ~少年の幻影~
『ロシア代表対世界代表』は世界チャンピオンタイトルマッチ、チェスオリンピアードに並ぶチェス界の大イベントである。
試合は10対10の団体戦で、2日日程で行われる。各々が1日に午前と午後で白黒入れ替えての2局を行い、それを2日、つまり4局勝負を行うのだ。勝ちを1点、引き分けを0,5点、負けを0点として4局終えた後のポイントで最終的な勝ち負けを決める。
2日日程で行われる本試合の前の日に、チェス愛好家達のためにイベントが開かれる。真田は取材のため、ロバートはこのイベントのゲストとして遥々モスクワに足を運ぶ。
ニューヨークからモスクワへはフライト10時間程、モスクワに向かう飛行機の中で、景色を見るのに飽きたロバートはつい寝てしまった。真田は隣の席でノートと睨めっこしていたが、寝ているロバートの顔を見て、グランドマスターで普段強気だが、やはり子供だなという並の年上らしい感想を持った。ロバートはまだ14歳だ。
ロバートはいつもの真白な空間にいた。チェス盤に向かい、さぁ、今日の夢の中では誰と対局しようかと考えていた。相変わらず、あの少年は横にいる。ロバートがいつものようにチェスの駒に触ろうとすると、横の少年がチェス盤上の中央を右手の人差し指で突ついた。すると1辺25センチ程のチェス盤が突然1辺5メートル程に大きくなった。
チェスの駒はロバートの体を透けて通り過ぎた。チェス盤の中央とロバートとの位置関係は変わらなかったのでロバートはチェス盤の上に座るかたちになっている。
チェス盤上の表面は水面のように波立っていた。ロバートの横で座っていた少年は立ち上がった。立ち上がるや少年は10歳の姿から15歳程の姿に変わった。ロバートが会ったことのある同年代のどの少女よりも、その少年は美しかった。
座っているロバートを見下ろして、少年は言った。
「先に行ってるね」
少年はチェス盤の中に潜って、消えてしまった。
「待て! 」
“Ladies and Gentlemen. We'll be arriving in Sheremetyevo International Airport , in about fifty minutes.”
「ご搭乗の皆様、当機は50分後にシェレメーチエヴォ国際空港に到着いたします」
3月のモスクワは、まだまだ冬である。通りには雪が残り、路面は凍りついている。凍りついた路面は、アスファルトの黒と雪の白がまじわり、灰色に輝いていた。雲は低くたちこめ、空は灰色の地面を反射している。
真田とロバートはモスクワ時間の午前中に到着した。2人は大きな公園前のバス停留所でホテル行きのバスを待っていた。バスはまだまだ来ない。今日は休日で公園には家族連れがたくさん歩いている。
停留所で待っている2人の後ろには、大きなチェス盤と駒があった。公園のタイルが白黒に塗られ、1辺が4メートル程のチェスボードになっていた。その上に石造りの大きな駒が配置されている。
「これは良いな」
真田がそう言って、鞄からカメラを取り出した。カメラを構えた時、1人の6歳か7歳くらいの子供がチェス盤の中に入り込んだ。
その子供は黒髪で目が青く、顔の下半分はマフラーで隠れ、フードをかぶっていたため男の子か女の子か見分けがつかなかった。石造りの、自分の身長の半分以上の大きさのあるポーンを動かそうとしていた。しかし、子供の力では石の駒は決して動かない。真田はカメラをしまい、その子供が動かそうとしているポーンを軽く持ち上げた。
「どこに置く? 」
ロシア語の不勉強な真田は英語で言った。
子供は首を傾げたが、すぐに、
「e4!(ポーンイーフォー! )」
と答えた。




