ワシントン公園 2 (キングズギャンビット)
※チェスの局面についての説明が多いですが、読み飛ばしても物語の把握に影響はありません。
将棋は大多数が7六歩と角道を開ける。
そしてチェスは初手e4と始まるのだ。
真田は初手に最善手を指した。安物のプラスチック製の駒が石造りのテーブルに当たり、乾いた音が響く。真田と公園のチェス講師の対局を男たちが囲んでみている。真田の初手をみて男たちは、まるで赤ん坊の歩みを見守るように微笑み頷いた。「講師」はすぐさま黒キングの前のポーンを突き返した。e5だ。
真田は2手目を考える。おそらくここで戦型がある程度決まるのだろう。先ほど考えた、中央の位を取るという考えに従えばナイトかビショップを繰り出すのだろう。しかし18年磨かれた将棋指しの魂は工夫を呼びかけた。ポーンを2つe4とd4に並べるのが好形なんだろう。それにはe5の黒ポーンが邪魔だ。真田は2手目f4と指した。
これで黒がe5の黒ポーンでf4の白ポーンを取れば、白は悠々とd4と指し中央を支配することができる。しかし「講師」はビショップをc5に持ってきた。真田は知らないで指しているが、これは「キングズ・ギャンビット」といわれる定跡である。黒のBc5と表される2手目は、白の狙いを拒否する手段だ。
このビショップ、厄介だ。中央を支配しつつ、白キングのキャスリングの道を塞いでいる。この「講師」は経験豊かなのだろう、この2手に1秒もかけていない。将棋ならそれは真田も同じことだ。いや、この目の前の「講師」がチェスを指せる以上に、はるか高い水準で真田は将棋ができる。こちらだけ1手1秒の縛りをつけられたって、大抵のアマチュアの将棋指しには9割9分負けることはない。真田は中央に戦力を集中させるという、自らの仮説に基づいてクイーン側のナイトをc3と指した。
黒も3手目はクイーン側のナイトを展開したNc6と表される。真田は4手目にNf3とキング側のナイトを展開した。真田は気付いているのかいないのか、ビショップよりも先にナイトを展開している。彼はどんなに拒絶しようと18年培われた棋士の魂は見事だった。彼はチェスというゲームの特性を見抜き、有利に戦うための仮説――中央を支配する――を立て見事に実行する。その仮説は正解だった。そして彼はビショップよりも先に自然とナイトを手にし展開している。チェスの基本である「ビショップよりも先にナイトを展開せよ! 」に合致していた。真田は第6感的霊感に従い手を進めてるのではない。将棋士の魂の声に従ったのだ!
目の前のみすぼらしい「講師」はお腹が空いていたのだろうか。許されない手を指した。黒のe5ポーンで白のf4ポーンを取ってしまった、4...exf4と表される。駒を単純に取ることに喜びを得るのは素人である。重要なことはそれによって得た駒の形が、その駒損に比べてどうか、ということである。真田はチェスの素人だ。しかし、将棋士の魂が彼を好形に導いた。彼はこの対局で初めて1秒も考えることなく次の手を指した。d4、クイーンの前のポーンを2マス進め中央を支配した。
真田は早くも優位を築いた。ホコリにまみれたギャラリーは、顔を見合わせ笑っている。太陽は傾き始め、黄葉に照らされた光は遮られた。落ち葉が風に引きずられる音が響いた。