日本チャンピオン 4
真田は白番をとったとはいえ、日本チャンピオンを降した。横で観戦していた国実も岡部も驚いていた。
「いやあ、やっぱり将棋指しは流石ですね。序盤定跡だけじゃなく、もう終盤まで指しこなせるなんて」
坂平はにこやかに言った。
「ありがとうございました」
真田はテーブルに手をついて言った。
岡部がメニューを開いて、
「さ、注文しましょう。積もる話は、待ちながら、飲み食いしながらってことで」
と明るい調子を作った。
「そうだな。いや、まさか真田が勝っちゃうなんて思わなかったな。俺もチェス本格的に始めちゃおうかな? 」
国実が言った。
「これ以上、私をいじめないでくださいよ」
坂平が笑いながら言った。
真田も会話をにこやかに聴いていたが、心の内では、対局中に自分自身に対して湧いた疑問、そして自らが導き出した答えを反芻していた。
目の前にチェスがあるから......愛してるから......もっと思考は巡っていた気がする。
とにかく、俺はもう元奨励会員の将棋指しなんかじゃない、チェスプレーヤーなのだ。そう、結論付けた。
やがて、料理と酒が運ばれてきた。乾杯の後、岡部が口を開いた。
「日本でもっとチェスが流行ればいいですね」
「ええ、奨励会に行く才能の内、1割でもチェスに流れてくれれば、日本も世界の強豪国と肩を並べられるでしょう」
坂平が答えた。
「じゃぁ、将棋の棋王タイトルを持つ俺なら、世界チャンピオンなれちゃったかな? 」
国実は半杯の酒で既に気分を良くしているらしい。
「だとしても、チェスをやる環境がないですね。強豪を育てるには7歳から9歳の頃にはもうやり始めないと。ネット対局って言っても日本語対応のサイトは見かけないですね」
真田も今日は饒舌だ。
「道場にいる意地悪な爺さんが必要だな。子供相手に勝っていい気になるオヤジさ。才能のある子供は1年でそいつらを踏み倒していくのさ。国実さんも、岡部も覚えがあるはずだよ」
国実と岡部は笑いながら頷き、坂平も、
「じゃあ私が意地悪爺さんにならなきゃ」
と言って笑った。
それからも将棋とチェスの話しが続いた。
どうすれば日本のチェスが盛り上がるのかという話題が出る。日本チェス界に全く興味のない真田もこういう場では意見をつい言ってしまう。
「まず、入門書以外の書籍が極端に少ないのが問題だ。書店に入門書以外売ってないんだ」
「そうなんです。今日のイベント会場後方のブースで売っていたみたいに、イベントか、クラブ単位か、ネットでしか日本語の参考書や問題集が手に入らないんです」
坂平が大きな声で言った。もう酔いがまわりはじめたらしい。
「坂平さん書いてくださいよ」
岡部が言った。
「書きたいんですけどね、売れる見込みがなくて出版社が相手にしてくれませんよ! むしろ日本チャンピオンが書くより、元奨励会員のチェスマスターの書いた本の方が売れそうですよ真田さん! 」
「じゃあ、グランドマスターになったら書きますよ......英語でね」
4人が笑った。
この1日は真田にとって充実したものとなった。
自分の挫折とトラウマに向き合い、それでも笑顔でいられた。
その夜、夢を見た。いつもの真白な空間だ。相変わらずチェス盤があり、そのチェス盤は今日は遠くにある。盤に向かっているのはアメリカ人の少年、きっとロバートだろう。そのロバートの盤を横から覗き込んでいる少女がいる。膝をついて座っている少女は10歳くらいかと思われた。髪は黒いが日本人ではなさそうだ、そして雪のように白く透明な肌、青く澄んだ瞳からヨーロッパ系に見えた。ロバートの動かす駒を興味を持って見つめている。少女は立ち上がった。立ち上がると同時に少女の姿は、15,6歳程の少年の姿に変わった。女性のように見えるがよく見ると少年である。その少年が真田に向かってはっきりと言った。
「早くここまでおいでよ」




