千駄ヶ谷再び 3
午後になり、真田は岡部に連れられ、千駄ヶ谷の日本将棋連盟本部に来た。本部ビル内のいつもは道場として一般開放されている一室でイベントが開かれていた。そこでは、チェス日本チャンピオンの坂平誠が将棋愛好家たちに大盤を使ってチェスのルールをレクチャーしている。坂平は眼鏡をかけていて、目が細く、スーツを着ていた。彼の気取った話方から一瞬だけ尖ったエリートのような印象を受けるが、それは小太りの体型と、あふれる内面のやわらかさからすぐにその印象は取り下げられた。昨夜の酔いがまだ残っている真田は坂平に対して「刺さらない針」と心の中でネーミングした。
「坂平、知ってるか? 」
岡部が壁によりかかり、眠そうに言った。どうやら岡部も酒が残ってるらしい。
「知らないよ。日本の情報はできるだけ避けてたんだ。それに、日本のチェス界に興味はないよ」
真田はあくびをした。
道場内の後方のブースでは数少ない、和訳された海外のチェス本が積み上げられて売られていた。岡部は興味深々に本を物色し始めた。
「俺はお前みたいに英語ができるわけじゃないんだ。こういうのは貴重だな。どれがおすすめだ? 」
真田は棋譜集とタクティクス問題集の2冊を手に取り、
「将棋と同じさ、棋譜並べと詰め将棋に相当するものをやればいい。だからこれかな。タクティクスは手筋問題集だけども」
2人の酔っ払いが後方で話込んでいる時、チェスのレクチャーは終わり質疑応答の時間をとっていた。しかし、質問は少なく、困った坂平の目に真田が映った。
「あ、すいません。そちらで本を見ているのは『グローバルカルチャー』の真田智史さんではありませんか? 」
坂平はマイクで呼びかけたために、聴衆の目は真田に集まった。『グローバルカルチャー』とは真田が勤めるインターネットメディアのことである。
「真田さん。よければこちらにきてお話いただけませんか? あ、みなさんこちらインターネットのニュースでチェス関連の記事を連載してらっしゃる真田智史さんです」
了解もしていないのに、そこまで紹介され、依頼を断れない雰囲気を作った坂平に対し、少し腹が立った。しかし、「いいえ、私は真田智史ではありません」と言えるほど彼は酔ってはいなかった。「刺さらない針」に刺されて真田は仕方なく聴衆の前に出て、坂平からマイクを受け取った。
「どうも、ご紹介に預かりました『グローバルカルチャー』の真田です」
手順に聴衆の拍手が起きる。
「ありがとうございます。ささら......、いや坂平さんの紹介の通り、配信記事の中でチェス文化について連載を書いています」
坂平は女流棋士らしき運営スタッフからもう1つのマイクを受け取った。
「あの記事にチェス愛好家は喜んでいますよ。仲間が増えてくれそうですから。将棋、囲碁の方々にも人気ですからね。まだ、時間が余ってまして、取材の時の話等お願いします」
「そうですね...... 」
それから真田は、ワシントン公園やニューヨークチェスクラブの話をした。
岡部は急に仕事をふられた真田をニヤニヤして眺めている。
岡部は優しい男だ。挫折がトラウマとなっている友人の前に進む手助けをしている。これは岡部が、真田の将棋の実力を惜しんでのことでもあった。真田は奨励会3段までであったがプロ棋士の中に入っても中堅と言われる実力はあった。しかし、真田はここ一番で実力を発揮できないところがありプロの道が断たれた。
道場の入り口に1人の30代の男が立っている。その人は真田の兄弟子で現棋王タイトルを持つ、国実紀昭だった。国実は何の気なしに立ち寄っただけであるが、弟弟子の真田の姿を見つけてしまった。
真田の目にも国実の姿が映った。真田にとってプロ底辺の老いた棋士などは眼中になかったが、共に奨励会時代を過ごし、プロになった人間の姿は傷口を抉る凶器そのものだった。




