千駄ヶ谷再び 2
岡部は賢い男である。将棋というゲームに魅了されながらも、人生を割り切って考えられる男だった。奨励会に入ってから彼は才能の限界を感じ、17歳の頃には既に4段プロデビューは諦めて、受験勉強に精を出していた。それでも大学3年次まで奨励会に残っていたのは、文化人の世界に行けば、元奨励会員という箔を自慢出来ると算段したためである。ある意味においては、岡部は真田よりも正確に手を読んでいたのかもしれない。しかし、真田にとって岡部は、遅かれ早かれ同じく挫折した仲間である。仲間と一緒なら真田は自身の傷口をさらけ出すことが出来た。
「真田の記事を読んでから、俺もちょっとチェスの勉強したんだよ。将棋と感覚が違って中々慣れないな」
岡部はグラスを片手に持ちながら言った。
「そうなんだよ、どうしても取った駒を使いたくなる」
「それはチェス、いや将棋あるあるってやつか? 」
丸谷は既に顔が赤い。
岡部は丸谷に構わず続けた。
「この前、千駄ヶ谷でチェスの日本チャンピオンに会ったぜ。将棋しに来てたんだよ。でもかわいそうに、俺以外誰も気が付かないんだ」
千駄ヶ谷というのは日本将棋連盟の本部ビルのある地のことである。
「いくら将棋の国とはいえ、もうちょっとチェス界も認知されてほしいよな」
その後も3人は取り留めもない話しをした。さすがの真田も酔いが回ってきたところで、丸谷が酔っ払いらしくだらしない調子で言った。
「岡部が真田に頼みがあるそうだぞ 」
岡部の眠そうな目は見開かれた。
「お前! もうちょっと酔わせてから言おうと思ってたんだよ! 」
「ははは、すまん」
真田はテーブルにもたれかかっていた体を起こした。
「頼みってなんだ? 言ってもいいぞ」
岡部はフッと息を吐いてから言った。
「明日、一緒に千駄ヶ谷に行こう」
真田はため息をついて、また机にもたれかかった。千駄ヶ谷、つまり日本将棋連盟に顔を出すということは自ら嫌な思い出に向き合うことだ。さっきまで仲間と一緒ならと傷口をさらけ出していたが、連盟に顔を出し、将棋に直接触れるということは、挫折を乗り越え前に進むために必要かもしれないが、それは彼にとっては焼きごてを傷口に当てて消毒するも同然のことだった。
30秒ほどの沈黙ののち、真田は口を開いた。
「連盟に何しに行くんだ? 」
さっきまで申し訳なさそうな顔をしていた岡部の顔が輝いた。
「チェスのイベントをちょっと見るだけでいい。世界の将棋というイベントでチェスのコーナーがあるんだ」
「わかった。でもまだ師匠には会いたくないぞ」
真田は了解した。
夜の東京ににじむ様々な色の光を感じ、彼は自分が前に進めている気がした。




