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千駄ヶ谷再び 1

 真田は年末年始の休みをクリスマスから取ることができた。ニューヨークの狭い安アパートとはしばらくお別れである。彼は小さな本棚からあふれたチェス書籍のうち棋譜集とタクティクス問題集を1冊ずつ、トランクケースの服の間に入れ部屋を出た。クリスマスに湧く都市を尻目に彼は日本へと帰郷した。


 東京郊外の実家に着くと、母が出迎えてくれた。帰るなりゆっくり息をつかせる間もなく息子は母に世話をやかせてあげるのだ。彼の書いた記事をすべてプリントアウトしてスクラップブックに保存している母は、記事についてあれこれと息子の仕事ぶりを褒め続ける。これを聞いてあげるのが帰郷した息子の辛い務めである。


 奨励会を年齢制限で退会した時は、ひと時でも早く離れたかった日本に帰り、彼も人並みに安心していた。ゴミと排ガスにまみれ、あれだけ不潔だと思っていた東京が、きれいに見えた。これは彼にとっては嬉しい発見だった。大きな挫折を迎えたあの時、彼の目から鮮やかな色は失われていた。日の光はただモノクロの風景のコントラストを浮かび上がらせる役割しかなく、彼自身もこれは精神の病ではないかと考えた。しかし、遠いアメリカの地で仕事をし、チェスという(おもむき)に触れることで彼の目は色を取り戻すことができた。


 やがて大学時代の友人、丸谷から電話が来た。久しぶりに会って話そうとのことだ。丸谷は真田と大学の同期であり、現在商社に務めている。真田は一言、

「静かな店で頼むよ」

 とだけ伝えた。にも関わらず、丸谷が指定した待ち合わせ場所は歓楽街の入り口だった。


 真田は指定された場所に着き、歓楽街の通りを眺めていた。真田はいわゆる飲み屋街や歓楽街があまり好きではない。不要に輝く光は決して理性的ではなく、人間を虫扱いしているように見えた。もちろん、歓楽街に照らされる酔っ払いの赤顔は彼にとっては非文化的な「虫」そのものだった。


 待ち合わせ場所に現れたのは丸谷だけではなかった。丸谷と同じく大学の同期の岡部も一緒だった。岡部も元奨励会員で大学3年次に奨励会1級の年齢制限によって退会している。

「丸谷だけじゃなかったのか」

「少ないよりは多い方がいいだろ。でも真田と共通の友人って岡部しかいなくて」

 丸谷と直接会うのは大学を卒業して以来だった。学生時代の長い茶髪はサラリーマンらしく黒髪の短髪に変わっている。しかし、見た目は真面目を装っていても、丸谷の軽い浮ついた精神は顔から透けて見えていた。真田がアメリカで記者をしていて、帰国したことは岡部が知らせたらしい。


 丸谷の先導に従い、3人が入ったのは平凡な居酒屋だった。

「俺は、あいつに静かな店でと言ったんだけどな」

 店員と並んで案内される丸谷の後ろで、真田は岡部に囁いた。

「あいつにとっては静かなんだろう」

 岡部は皮肉ったように笑いながら答えた。


 3人は周りのテーブルからは仕切られた、掘り炬燵(ごたつ)の席に案内され、真田の前に2人が向かい合うかたちで座った。丸谷は店員に予想通り、

「とりあえず、生3つで」

 と注文した。


 3人は周囲の酔っ払いの喚き声と下品な笑い声の中、乾杯を済ませた。


「アメリカはどうだ、真田? しかもニューヨークってかっこいいな」

 口火を切ったのはやはり丸谷だ。乾杯のひと口で彼のジョッキは半分になっていた。

「いや、オフィスか自宅にこもってずっと記事書いてるだけだよ」

「チェスはどうした? 」

 岡部が横槍を入れた。

「丸谷は読んでなくても、俺は真田の記事を毎回読んでるんだぜ」

 真田はチェスの話になると将棋の話がでてくるため敢えて触れなかったが、チェスの話題を提示したのが元奨励会員の岡部だったため真田の抵抗はやわらいだ。挫折し、色を失ってから初めて将棋の話にこちらから触れてもいいと思えた。


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