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ロバート&ニキータ 6 最終回

 アメリカは一日中お祭り騒ぎだった。今までチェスに触れたこともない連中が通りで星条旗を振り回して練り歩いた。取材に歩くテレビカメラに人々は「アイラビューロバート! アイラビューアメリカ!」と叫んだ。

 しかし、かつてのようにロバートはチェスにナショナリズムを持ち込んではいなかった。相手がロシアだろうがどうでも良かった。


 第四局、戦型はついにシシリアンディフェンスになった。白番を持ったロバートが圧倒的に攻め潰すかと思われたが、ニキータが柔軟に受け潰し、強制的にドローに持ち込んだ。そして第五局、第六局とドローが続いた。モニター越しに見る観衆達は検討用のチェス盤で二人の指し手をどれだけ当てられるかなどと面白がっていた。

 ロバートも、ニキータも既に勝敗などは気にしていなかった。目の前の相手を信じて本気の研究と読みをぶつけ合った。彼ら二人きりの時にだけ、かつての幼き日に感じたチェスの純粋な楽しみを感じることができた。


 第七局を見守りながら。真田はいつも通りヴィクトールとラモスでテーブルを囲っていた。彼は対局を見守りながら、パソコンを開きある原稿を書いていた。ファイル名『ロバート&ニキータ』とされる原稿だった。

 アレクサンドラが彼らのテーブルに近付いて来て、真田のパソコン画面を覗いた。

「勤め人は大変ね。こんな所でも会社の仕事だなんて」

 そう言って彼女は微笑んで、会場を出た。

「真田君」とヴィクトールが言った。「コーヒーを持って来てくれないか?」

 そう言うヴィクトールのカップにはまだコーヒーが残っていた。ヴィクトールはわざとらしく目を逸らした。

「ええ、いいですよ」

 そう言って、真田も会場を出た。彼は廊下に出て、冷んやりとした空気に顔を撫でられるのを感じた。

『ああ、涼しい』と彼は思った。狭まっていた視界のぼやけた端が次第に広がり、ピントを合わせていくのが見えた。『熱中し過ぎてたんだな』と彼は微笑した。

 真田はアレクサンドラの姿を探した。彼女は窓際のベンチに腰掛けてミルクティーを飲んでいた。真田はベンチの前に立ち、

「隣、いいですか?」

 と言った。

「ええ、どうぞ。あなたも休憩かしら?」

「はい」と真田は答えて彼女の隣に腰を下ろした。「熱中し過ぎちゃって、頭が熱くて」

「さっきの原稿......」と言ってアレクサンドラは膝に頬杖をついて真田に微笑を向けた。「あれ、本当に記事かしら?」

 真田はこの言葉にフフっと笑った。

「あなたには本当に敵わないなあ。言うとおり、あれは記事じゃありません」

「やっぱり? 記事の文章って紋切り型に常套句をはめ込んだような構成が多いでしょ? でもさっきのは違ったわね。ノンフィクションドキュメントって感じかしら?」

「正解ですよ。記事なんてほとんど定型文ですから、慣れればちょっとの時間で書けちゃいます。あれは会社とは関係のない文書です。実はですね......」そう言って真田は頬杖をつくアレクサンドラを見た。二人の笑顔がかち合った。「実は私、会社辞めるんです。もう記者じゃなくなるんですよ」

「あら」とアレクサンドラは言って、体を起こした。「これからはプロチェスプレーヤーかしら?」

「ええ、本業はね。ですが副業でチェス作家でもやろうと思ってまして、あの原稿はロバートとニキータについて綴ったものです」

「それは素晴らしいわ。でも本業で十分やっていけるんじゃないかしら?」

「チェスは......」と言って、真田は首を傾げた。「チェスは苦手なんです」

 アレクサンドラは笑って、

「ヴィクトールに勝ったあなたがチェス以上に出来るものってなによ?」

「そうだなあ......、将棋は得意なんです」

「冗談がうまいのね。じゃあ私もチェスは苦手ってこれから言うわ」

 アレクサンドラはそう言って、ミルクティーを口につけた。真田が手持ち無沙汰に上着のポケットに手を入れると、指が金属に触れた。

『あ、忘れてたな』

 それはニキータからもらった指輪の知恵の輪だった。ポケットの中で指先でなんとなくいじっていると、金属同士がはまる感触がした。ポケットから取り出すと半分出来上がっていた。

「こうすればよかったんだ」

 と真田はつい声を漏らした。

「それはなにかしら?」

「ニキータからもらったんです。完成すると指輪になる知恵の輪です......。ああ、やっとできた」

 真田はしばらく完成した指輪を手のひらに転がして眺めていた。そして「ちょっと失礼しますよ」と言ってアレクサンドラの手を取り、指輪を彼女の指にはめた。「あげますよ。俺にはその指輪似合いませんから」

 そう言って、真田はベンチから立ち上がり会場に向かって歩いた。

「待って」と真田の背中に向かって、アレクサンドラが言った。「私はチェスが苦手......、でも、ボルシチは得意なのよ」

 真田は振り返って、

「それは魅力的ですね。ボルシチ好きなんですよ」

 と言った。

「ええ、今度ご馳走しますわ。私の家にいらしてね」

 真田は微笑んで「ええ」と答えた。アレクサンドラは真田の横に並び、彼の袖を掴んだ。「私、両親と一緒に住んでるの。ちゃんと挨拶しなさいよ」そう言って足早に会場に戻って行った。真田は、ブロンドの長髪を左右に揺らして歩く彼女の後ろ姿を見送って立っていた。彼は髪をかきあげて、

「やっぱり敵わないな」

 とひとり言を言った。





 タイトルマッチの後、『ロバート&ニキータ』著真田智史が出版された。それは単なる棋譜解説集ではなく、ロバートとニキータの生い立ちを彼らの手記を添えて語っていた。

 以下は『ロバート&ニキータ』の序文からの抜粋である。



 昨今AIの発展がめざましい。チェスコンピュータソフトがチャンピオンを破ってから久しく、現在では将棋だけではなく囲碁でさえもコンピュータソフトが人間のプロを凌駕した。

 今でもソフト開発者達はより強いソフトを開発しようと努力している。しかし、チェスの完全解析つまり『完全なチェス』の実現にあたりこれ以上のソフト開発に既に価値はなく、優れたハードの登場によって『完全なチェス』がもたらされるものと著者は考える。現在研究中の量子コンピュータがそうだろう。

 量子コンピュータによる解析結果が真理の一手とされる時代が遠からず確実に来るのである。つまり、盤上にコンピュータという神が降りてくる日が来るということである。

 神の到来を前に二人の天才が『完全なチェス』の一端でも明かそうとこの世に現れた。それがロバート・フリッツとニキータ・コトフである。彼らの研究と対局が最後の人間の手によるチェスの深化になるだろう。我々は今、チェスの歴史における最後の人間の輝きを見ることができるのだ。







 2017年春『チェス盤上の夢』完

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