ロバート&ニキータ 5
第三局が始まった。白ニキータ・コトフ、黒ロバート・フリッツである。
観衆の考えはこうである。「第一局はチャンピオンが見せつけた! 第二局は挑戦者が喰い下がってドローに持ち込んだ! 史上最強のチャンピオンと史上最強の挑戦者。さあ今回はどうか!?」
モニターから見守る真田はただ一人、異なる思いで「さあ今回はどうか!?」と観衆達と同じ見方に至っていた。
『ロバートは本来の実力通り指す』と真田は思った。『だからと言ってあいつが簡単にポイントを取れるとは思わない......。ただ、ニキータの求める完全なチェスを完成させる相手にはなる』
対局場にて、テーブルについたニキータは遅れて現れたロバートの姿を見た。握手の手を差し出すロバートにニキータは座ったまま応えた。握手をしてからロバートが席に着くまで、彼をカメラのフラッシュが絶え間なく照らし続けた。その時ニキータは見ていた。フラッシュに照らされて輝くロバートの微笑する半分の顔を、光に当たらない半分の顔の暗く窪んだ目の奥にギラつく男の眼差しを。
『この顔のどちらかなら、僕は光の当たらない方の顔がほしいなあ。見られるために、見せるためにあつらえた微笑なんかいらない。僕にだけ見られている、見せているその顔が好きだ......。さあ、行くよ』
ニキータはカメラのフラッシュが焚きつける中、初手d4と指した。ロバートはNf6とキングサイドのナイトを繰り出した。手が進み、戦型はベノニディフェンスとなった。
「まったく......」とヴィクトールが言った。彼はまた真田とラモスと同じテーブルを囲ってモニターを見ていた。「中々シシリアンを見せてくれないな。クイーンズオープニング(d4から始まるオープニング)になるとは......。真田君。昨日はスクールに行ってたそうだね。何か......セコンドとして助言をしたのかい?」
「ええ」と真田はコーヒーを飲んで言った。ニキータが着手したので彼は検討用のチェス盤上の駒を動かした。「今回はちゃんと指すそうです」
これを聞いて、ヴィクトールはクックと笑った。
「やはりねえ......。ようやく我々は頂上戦を拝めるのだね? ニキータとロバート......前回のキャンディデイトからずっと焦らされていたからね」
『......そうだ、ニキータはずっと待っていたんだ』とロバートは思った。いままでどれだけの退屈な試合をこなしてきたのだろうか? どれほど退屈な日々を過ごしてきたのだろうか? ロバートは目の前の平凡な局面を見た。まだ序盤の駒組み段階の中級者でも再現できる局面を。彼の目にはチェス盤の上を光速で走る色とりどりの軌跡が見える。以前までは真田や他のプレーヤーと同じように駒の幽体のようなものが盤上を走っていたが、それがいつからか光だけが走るようになった。
『ニキータ......。お前の退屈も今日で終わりだ。だから......』ロバートは一瞬自分を省みた。そんな資格があるだろうかと思った。しかし目の前の華奢な、少女のような、死体のような肌色をした、美しい少年に願わずにはいられなかった。『......だから、どうか、俺についてこい!』
ロバートは十一手目、Nh5と指した。
そんなバカな! これが観衆の総意だった。そしてこうも思った。『ロバートは持ち前の不安定な荒々しい指し方をこんなところで出してしまった。ロバートの負けだ』
あるカフェで中継を見ながらコーヒーを飲んでるロシア人は知った風にこう言った。
「ロバートがミスをした。チャンピオンの二勝目だ」
早朝のアメリカの酒場でチェス通のオヤジが言った。
「素人のやるミスさ。やっぱりロバートは不安定なんだ」
ワシントン公園のチェステーブルにタイトル戦の対局を並べるホームレスの集団も半分ほどがため息をついて、その場を去ってしまった。
日本の自宅でインターネット中継を見ている国実は、セコンドについている弟弟子のことを思った。
『ダメな手......だよな。俺にはロバートのことがわからない。智史、お前はわかるのか?』
「いや、わからないな」と真田が言った。ラモスがこの手はなんだと聞いてきたのである。真田は当然の手順で検討用の盤面を進行させて、「俺もこの先が何も見えません。ヴィクトールさんはどうですか?」と言った。
「これが最善手だというのなら......、我々の築いてきた歴史が覆るぞ」
とヴィクトールは中継モニターに見入ったまま言った。
真田は『この先の手が何も......』と内心で独言しながら検討用の盤面をいじっていた。『何も......』とまた思ったところで彼は理解した。
『まさか! こんなやり方が......』
ロバートがNh5と指した瞬間、ニキータはつい即指しで返してしまいそうになった。盤上に投げられた手は駒に触れる直前に硬直した。
『来た。これだ』と思った。ニキータは手を引っ込めた。下腹部から走る寒気に身悶えした。『三回目......。やっと感じた。これだ。初めて君と対局した時に思ったんだ。僕は対局の度にこの一局を思い出して快楽に酔うんだって、目の前の相手を見ないでロバートを思い出して楽しみに溺れるんだって......。そんな不貞で不埒な快楽主義者になれれば良かったけど、僕は純情だった。何も感じられなかった! ああ! やっぱり君しかいないんだ、ロバート! 僕には幻想と明晰の酩酊しかない。世界は素晴らしくて、僕と君だけ、誰もいなくて静寂だ』
ニキータはBxh5と誰もが考える当然の一手を返した。ロバートが抱えるのは崩れた防御の陣形、端の邪魔なダブルポーン、誰もが考えるやってはいけない形。ロバートの手は早かった。まるでもう既に全てを見通しているかのように!
『そうだこの先だ』とニキータは恍惚と思った。『この先、僕の選びうる有効な指し手が消える......』
「なんだって? 手がなくなる?」
とヴィクトールが言った。真田が検討用の盤面を動かしながら説明するのを聞いていたのだ。
「ええ」と真田が答えた。「ダブルポーンはこうやって攻撃に活きる......あ、ほら今ロバートが俺と同じように指しましたね。こう進んでニキータには有効な指し手がなくなるんです。ロバート優勢です」
「本当だ」とヴィクトールが言った。「こんなの......コンピューター同士でも見られない」
彼は興奮していた。ようやく頂上対決が見られるという期待もあったが、想像以上に卓越した手を見せられて、自分が今この時代に生きているという幸運に感謝した。そして世界王者になるほどチェスに打ち込んでいたのは、彼らの指し手を少しでも理解するためだったとさえも思った。彼はのどの渇きをおぼえ、カップを手にとって口に傾けたが、カップは空だった。彼は空のカップを見て、気付かずに口につけた自分を笑った。真田とラモスはそんなヴィクトールを見てにやけた。ラモスは「コーヒーをもらってくるよ」と言って席を立った。
ニキータは手詰まりに追い込まれ、ルークを上下に動かしてやり過ごしていた。その間にロバートは理想的なポジションを悠々と作り上げた。
『こんな展開初めてだ』とニキータは思った。『僕が攻められるなんて初めてだ! さあ、攻めて! 新しい世界を見せて! 僕はここまで最善手でついてきた。僕こそが、君と僕こそが完全なチェスを作り上げる最後の人間だ。そうだろう!』
ロバートのあの一手は、誰も見えなかったあの一手は、戦場に響く最後の銃声だった。その銃声のこだまが鳴り終わった時、どこかで誰かの膝がくずおれる音が聞こえるだろう。『それが僕だ』とニキータは思った。
モニター越しに観衆がどよめくなか、対局場ではロバートがニキータの指し手を待っていた。彼はニキータの後ろの照明がひとつ消えかかっていたのを見た。回転の勢いの無くなった独楽が倒れかけては持ち直すように、照明はついたり消えたりを不規則なリズムを打っていた。照明が最後に一瞬強い光を発した時、光はロバートの目を刺し、その白けた光景の中に彼は夢か現実かあいまいな景色を見た。そこから聞こえる聞き覚えのある言葉、
「ずっと一緒にいた......やっと会えたね。僕はとても嬉しい」
モスクワチェススクールで初めて対局した、幼き日の唇を鮮血に染めたニキータがいた。
尽きかけていた照明が消えた。ロバートの目を一瞬焼いた光が消えると同時に、彼の目の前から白けたあいまいな光景と声は消え去った。
彼が気がつくとニキータは盤上に手を差し出していた。ロバートは自分に差し出された手から腕をたどってニキータの顔を見た。小さな赤い唇は口角を上げている。眼差しは女のように潤み、垂れている。ロバートと目が合うと微笑して首を傾けたので、ひと束の前髪が額をすべって地面に垂直に垂れた。ロバートはその手を強く握った。
真田は風船から空気が抜けるように息をついて椅子の背もたれに崩れた。言葉が出なかった。ラモスは立ち上がって会場で一人喜びの奇声を発していた。ヴィクトールは高らかにハッハと笑い拍手していた。「ブラボー!」と前世界王者は言った。これに呼応して、さっきまで驚きでぼーっとしていたロシア側のスタッフ達も拍手を打った。真田は拍手に満たされた会場を見回して、ようやく息を吹き返した。




