ワシントン公園 1
真田智史はワシントン公園のベンチで目を覚ました。26歳になり日本を離れた彼は、インターネットメディアのライターを食い扶持としていた。秋の陽射しは黄葉を透過し、公園のアスファルトを黄色く染めていた。
隣のベンチに足を組んで座っている黒人の青年が真田に話しかけた。
「ここで寝るには、あんたの格好はキレイすぎる」
青年は所々擦り切れたジーンズに、シミのついた灰色のパーカーを着ていた。その手には真田のポケットに入っていたくしゃくしゃの5ドル札3枚があった。彼はその手を真田に差し出した。
「俺、ここで寝てるあんたをずっと見てたんだぜ」
彼の言わんとしていることはわかった。いつもポケットには最低限の紙幣だけを入れていた。真田は笑みを浮かべ言った。
「やるよ」
「あんた太っ腹だな」
黒人の青年は真田の背中を叩いて、去って行った。小走りする先ほどの黒人青年の背中がまだ見えた。パーカーの背中とジーンズのお尻が土で汚れていた。
『えらいとこに来てしまったもんだ』
真田は改めてそう思った。
真田が顔を上げると、テーブルのある場所に人だかりができている。真田は人だかりに近づき彼らの興味の対象を探った。人だかりを構成する人々はまず、皆男性であった。服装は清潔とは言いがたい。中には先ほどの「ボディーガード」のような人も含まれるだろう。プラスチックを石に打ち当てる音、そして聞き覚えのある音――対局時計のボタンを押す音。人だかりの中心にはチェスがあった。
真田は、テーブルに向かいあって座っている男性がチェスに興じるのを見ていた。ワシントン公園のテーブルには、チェスボードとなる8×8の白黒交互に塗られたマスが印してある。駒さえ持っていれば、ここでチェスをすることができる。
真田はオヤジたちが駒を動かすのを見ていた。真田はチェスのルールを知っていた。子供の頃に本屋で立ち読みしたのを憶えていたのだ。
オヤジはプラスチックの駒をテーブルに打ちつける。
『今の手......、ダメなんじゃないか?』
真田はそう思った。彼の目には、透明な駒が、駒の幽体とも言えるものが高速で盤の上を動くのがはっきりと見えた。その軌跡はオレンジの電流のように輝いてさえいた。彼の思った通り、さっきのオヤジは頭を抱えだした。
真田がそんな「目」を持っているのは、彼がアメリカに来るまで、日本で将棋の奨励会員としてプロ棋士を目指していたからだった。しかし、その目標は実ることがなかった。
彼は将棋に触れることを避けたいがために、大手新聞社の子会社であるインターネットメディアの海外派遣記者への誘いに乗り、日本を離れたのだった。
やがて目の前の対局は終わり、人だかりは崩れた。対局に勝利しほくそ笑んでいる白人の中年男性が真田に目を向けた。
「あんた、見ない顔だな」
この中年男性も見なりは汚く、「ボディーガード」の青年と同類と思われた。
「でしょうね。初めて来ましたから」
「チェスできるのかい? 」
「ルールは知ってますが、対局したことはないですね」
「キャスリングとかもわかるかい? 」
「ええ、わかりますよ」
「なら、話は早い。にいちゃん、そこに座りな。俺が対局してやるよ」
真田は断ろうと手を振って「ノー」のジェスチャーをしようとしたが、横にいるホームレスに肩を掴まれ強引に座らされた。仕方なく渡された駒をボードに並べる。初心者だからということか、真田は白の先手番を持たされた。並べ終わり真田が盤面を見つめていると、男は真田の顔を下から覗き込んで言った。
「にいちゃん、出すもの出してくれないと」
そういうことか、半ば強引に座らせたのもこうやって指導料をせびるためだったか。さっきの人だかりの対局はきっと金を賭けていたんだろう。真田はポケットの中身を裏返して、スッカラカンという身振りをした。ホームレス達が真田を笑った。
「そんなキレイな格好して、どうした、盗まれでもしたか? いいさ、初回無料ってやつだ。指しな!持ち時間は15分だ、十分だろ! 」
男は自分の右手側に対局時計を乱暴に置いた。チェスの対局経験も定跡の知識もない真田は初手から考え込んだ。
チェスは将棋と違い、取った駒を使うことが出来ない。とすると、中央を支配することが重要では? ここでキングとクイーン、どちらかの前のポーンを突いて中央に据えるのが良いだろう。
彼は、キングの前のポーンを2マス進めた。初手e4と表される。
『ポーンの壁をこじ開けよ! ピース(駒)の力を解放するのだ! 』
2017/2/12(日)
元の『ワシントン公園1、2』をくっつけ『本稿』一つにしました。その際に説明的に過ぎる余計な文章を削ぎ落とし、他の表現に書き換えました。