第60話 エピローグ
外には月が輝き、地上を照らしている。ここはシーヴァラス帝国の帝都、貴族街にある一際大きな屋敷、その中の一室に彼女達は居た。
「はあ、憂鬱……」
そう言いながら女の子はテーブルに両手を投げ出して頬を付ける。年の頃は九歳くらい、つややかな黒髪のかわいらしい子だ。瞳は室内の明かりを反射して淡く金色に輝いている。今は広い自室で、背もたれのある品の良い椅子に座り、足をぷらぷらさせている最中だ。礼儀作法の師に見つかれば二時間は小言を言われそうな格好である。
着ている服は世にも珍しいドワーフの夫婦が作った服だ。堅苦しくなく、それなりに上品なので気に入っている。最近では女の子が着ているのを見た王族に流行しつつある。ちなみにこの服は、街に遊びに行った時に直接見て気に入ったので購入した。彼らと出会ったのは偶然だが、それ以来懇意にしている。
「「姫様、これから毎年の事になるはずなので、諦めると楽になると思います」」
ずれる事無く見事に二人同時に答えたのは、十五歳程度の少女達だ。黒髪黒目、尖った耳に、黒いフサフサの尻尾。左に赤のリボンと右に青のリボンをつけている事以外区別が付かない彼女達は、誰が見ても双子と分かる。彼女達は『姫様』付の侍女で、いつも『姫様』の傍に居て世話をしている。
「絶対に、嫌」
短くはっきりと『姫様』は答えてそっぽを向く。こうなると梃でも動かない事は良く理解している。双子はそろってため息をつくと、お茶の準備を始めた。
『姫様』が嫌がっているのは、明日行われる建国を祝う儀式で舞の奉納を行う事だ。朝から準備に追われ、舞が終わっても儀式が一日中続く為に自由な時間が一切取れない。そして街中で行われる祭りはその日しか行われない。つまり、そこに繰り出していって楽しむ事が出来ないのだ。
「絶対に私でなければいけない理由は無いじゃない。私は直系じゃないんだから、余っている直系の誰かがやれば良いのに……」
「「代役を務めたのが運の尽きでしたね。どうぞ」」
双子はテーブルにお茶を置く。『姫様』は起き上がり、椅子にきちんと座りなおしてからカップを持ち、熱いので息を吹きかけて冷ましながらチビチビと飲んでいる。
茶葉は金銭感覚が庶民と変わらない『姫様』が商業ギルドに安くて良い葉が無いかと相談した時に、将来有望な若手が勧めてきた品物だ。何でも有名ではないだけで、味自体は一級品と遜色ない物との事だった。実際おいしかったので入手出来た事には満足している。
ちなみに今では王族が好んで購入していると言う話が広がり、一気に一級品の仲間入りをしている。お礼として、それ以降は贈り物として納品されるようになった。その話を聞いた『姫様』は商人ってすごいと感心した出来事だった。
それはさておき、飲み終えた『姫様』はカップを置くと、両手で頭を押さえて首を振りながら、去年の自分に駄目出しを始める。
「うう、去年の私の馬鹿。こうなるなら絶対代役なんかやらなかったのに……」
それまでは、直系の姫が各地の代表的な都市に赴き、毎年舞の奉納を行ってきた。だから傍系の『姫様』には関係無い事だった。舞自体は作法として習っていたが、実際に舞うことは去年までは無かった。
ちなみに儀式の効能は神殿で舞を奉納することによって神殿に安置されている『神の欠片』に光が宿り、一年の無病息災と豊穣が約束されると言うものである。人口が多い主要都市で行うことによって、その恩恵を受ける人数を大きくしているのだ。地方の町で傍系が舞わないのは『ありがたみが薄いから』である。意外と庶民も身勝手だ。そのため地方の町では選ばれた町民が舞を奉納している。
『姫様』は去年、建国の祭の時は普段住んでいる帝都から離れて小さな街に来ていた。理由は祭を楽しむためである。地元では身元が簡単にばれるので、双子と共に普段は王族など居ない街にお忍びでやってきたのだ。親にはきちんと断っている。お付の双子も一緒に行くし、王族を傷つけられるのは王族のみなので、心配はあまりしない。
『姫様』が祭を堪能して休憩のため創世神殿の裏手に行くと、泣いている女性を発見した。初めはどうしようか迷ったが、好奇心に負けて事情を聞いてしまった。ちなみにどこの街の神殿でも裏手は休憩所になっている。
聞いた話を纏めると、女性はこれから舞を奉納することになっているのだが、三年舞っても今まで一度も『神の欠片』に光を宿すことが出来なかった。もうあの視線に耐えられないと泣いていたのだ。
力がある傍系王族でも光を宿せない者が居るのだから仕方が無いのだが、感情と言う物は理屈を言っても納得出来ないものだ。
ここで心優しい『姫様』は代役を買って出てしまった。自分から。つまり自業自得?である。とにかく変装をして、衣装を急遽あわせて舞うことになった。
自分は傍系なので全身全霊を込めなければ光は宿せないだろうと考え、想いを込めて舞の奉納を行った。その結果『神の欠片』は黄金の眩い輝きを放ち、天に向かう光の柱を出現させた。勢い余って近隣の町にある神殿に安置されていた『神の欠片』までその影響が波及して、同じ様に光の柱が立ち上がっていた。おかげでその地方の作物は大豊作となった。今でも帝都の欠片より強い光を放っている。
もちろんこの事はすぐに発覚して王族中で大騒ぎになった。何せ直系より何十倍も強い力を持つ傍系の姫が現れたのだから。もし父親が親馬鹿の武闘派で無ければ望まぬ結婚を強いられた事だろう。実際何件も申し出があったが、何とか次の年に帝都で舞う事になっただけで済んだ。
ちなみに何故今まで気づかれずに済んでいたかと言うと、『姫様』は幼い頃は力も弱く、六歳の時点で早々に自分の発散魔力を制御してしまったからである。魔力が小さいほど制御しやすいので、親ですら気が付いていなかった。当の本人もそれは知っていたので、その後に魔力が上昇しても自分は魔力が小さいと思い込んでいた。通常、制御出来る様になるのは平均十二歳位である。
魔法の練習は子供の時から行うと大抵制御に失敗して大惨事になるので、王族に関しては大人になるまで禁止されている。それに世話をしてくれる人が大勢いるので使う必要も全く無く、ここまで来てしまっていたのだ。
「せっかくの誕生日なのにあんまりだよ……。おいしいものが食べられないなんて」
『姫様』の誕生日は祭の当日である。大抵こう言う場合は誕生祝いがおざなりになるが、本人は毎年祭を楽しんでいたので気にしていない。物よりまだ食い気が優先である。
ちなみに護衛は三年前から双子が付いている。不用意に近づく馬鹿にはもれなく双子の教導が行われている。受けた者は真人間になったと周囲に評判だ。双子が街を歩くと直角にお辞儀する者達の列が出来るとまことしやかに言われている。もちろん事実誤認だ。列は出来ない。列は。
『姫様』と『双子』の出会いは実に変だったと当時のお付が語っていた。たまたま自分専属のお付を探している時にお忍びで街に出ていた『姫様』と、たまたま就職先を探していた『双子』が道端で引き寄せられるように偶然出会った。どちらも身動きせずに見つめ合っていたが、何かが通じたのか双方が同時に頷きあった。
「来る?」
「「はい」」
これで決まりである。今ではこれ以上は無い人物達と分かるが、この出会いを『変』以外で表現することは出来なかった。当人達に聞いても『何となく』としか言わない。類稀なる戦闘技能も誰かに習ったわけでは無いと言っている。
「「私達で色々買っておきますので我慢してください。余りわがままを言うとお父上が暴れに来ますよ?」」
「ううっ、それは……駄目。仕方が無いから我慢する。お店で直接食べるからおいしいのに……」
『姫様』が嫌と言えば、親馬鹿脳筋の父親は確実に皇帝に喧嘩を売る。そこに躊躇いは存在しない。
「ちょっと『黒の賢者』様みたいに困った人を救う役をやって見たいと思っただけだったのに……」
「「自業自得ですね」」
双子はすぱっと切り捨てる。それを聞いた『姫様』は頬を膨らませてテーブルにまた突っ伏した。
『黒の賢者』とは、長い歴史を持つシーヴァラス帝国の歴史の節目に現れる黒髪黒目の人間の事である。帝国に危機が迫ると何処からともなく現れて、乗り切るための道を示した。その傍らには奇妙な衣装を着た黒髪の小さな女の子と、二頭の黒狼が常に控えている。
名が知れ渡ってからの調査で、目立った行動以外にもさまざまな場所でその偉業が確認された。研究者は『黒の賢者』が居なければ帝国はもう崩壊していただろうと結論を出している。
物語は色々な人が執筆して出しているが、『姫様』のお気に入りは最近出版されたエルフのお姫様が執筆している作品である。その作者の作品では他の物と違い、賢者は絶対に名乗らないし、表だって動く事も無い。必ず裏側から手を回して解決に導いている。そこが良いのだ。王族に伝わる伝承でもそれが本当の事だと伝わっている。
「良いじゃない。私だって『自分の意思で生き、歩みを止めない者だからこそ助けたい』って一度で良いから言って見たかったんだから!」
もちろんこの台詞は物語の中の創作である。実際に言った言葉はもっと辛辣だったとか、もっと穏当だったとか評価が真っ二つに分かれている。しかし、そんな発言をしたとしても最終的には手を貸す。それが一般的に知られている『黒の賢者』である。
文句を言った『姫様』は良い事を思いついたのか身体を起こすと膨れた頬を元に戻し、微笑みを浮かべて双子を見る。双子は突然の変化に戸惑い、不思議そうに小首を傾げて見つめ返している。
「私、二人が街の人達に似たような事を言っているのを知っているんだよ?」
「「……」」
『姫様』は笑みを浮かべながら小首を傾げている。双子は無言だ。だが顔には汗が滲んでいる様に見える。今は春、まだ汗をかく季節ではない。しばらく無言の時間が流れた。その内『姫様』はしてやったりと明るく笑い、視線を外に向ける。外は暗く、月明かりが一帯を支配していた。
「そう言えば、どうして実家には帰らないの?」
祭りの当日、『姫様』は各種行事でがんじがらめになるので、双子は朝の支度が終われば夕方まで休んでも問題は無い。しかし二人とも休まずに仕事をする事にしていた。
双子の実家は帝都にある。そこでは両親が仲良く食堂を営んでいた。名物は丼物。これは『黒の賢者』が伝えたとされる物だ。丼物に欠かせない米は、温暖だが湖沼ばかりで目立った特産がなく、貧しかった地域の生活を変えた食物である。その時に一緒に伝えられた調味料は、今ではその土地の特産品として有名である。
その土地には『おいしいものがあれば、皆が笑顔になる』と言う言葉が残されていて、その地域では食べ物を粗末に扱う者は大成しないと言われている。稲作が軌道に乗った後は『黒の賢者』は忽然と姿を消した。この物語は子供の教本に使われたりしている。
丼物は帝都にあった貧しい食堂にふらりと現れた『黒の賢者』が、故郷の味を否定されてやる気を失っていた店主に対して、言葉では無く行為で丼物を伝えたと言われている。これを見た店主が『形に囚われない料理』と言うものを理解した時、伝え終えた『黒の賢者』はまたもや何も言わずに姿を消した。
店主は最後の時にテーブルに残されていた調味料を味見して、それが故郷で研究が行きづまっていた調味料の完成形と分かった。再びやる気が出た店主はその後に研究を重ねて遂に調味料と丼物を完成させ、それを用いて最終的には帝城の料理長まで上りつめる事ができた。この時故郷に帰って丼物と調味料の作り方を教えている。この物語は数ある物語の中でも人気があり、広く親しまれている。ちなみにその食堂が双子の実家である。今でもその時に『黒の賢者』が残した食器が飾られている。
「「……せっかくの祭りなので、久しぶりにいちゃいちゃしたいそうです」」
立ち直った双子は苦笑を浮かべて理由を簡単に説明した。尻尾は嬉しそうに揺れているので、悪く思っている訳では無いのは分かる。いつまでも仲の良い両親が居てくれる事に、双子はいつも感謝している。祭り中は兄夫婦が店を仕切る事になっていた。
「そう、なんだ……。それは仕方ないね」
双子の両親が中睦まじく祭りを楽しむ様子を想像して、『姫様』は微笑を浮かべた。会ったのは数えるほどしかないが、とても気持ちが良い人達だった事を思い出している。連想で自分の両親も思い出した。頼りになる父と優しい母。とても仲が良く『姫様』にとって自慢できる両親だ。
ただ、父がいつも微笑みを浮かべている優しい母に対して、たまにいたずらを見つけられた子供のようにぎこちない挙動をする理由が未だに分からない。そんな時の母はいつもと同じ様に父を見つめているだけなのだ。いつか母に聞いてみようと『姫様』はそれを心に留めた。
そんな現実逃避をしている『姫様』を双子は微笑みを浮かべて観察している。そして思考が一段落ついたところを見計らって、現実に引き戻すために言葉を紡ぐ。この辺りはもう慣れたものだ。
「「はい。ですので買い物はしっかりと行えます。明日は安心して奉納に集中してください」」
無情な双子の一撃で現実に帰って来た『姫様』は、あうあうと意味不明な声を上げながら頭を抱えてぐるぐる回し、嫌な事を忘れるために無駄な努力をする。目を回しても暫くそのまま頭を抱えていたが、やっと何をしても無駄だと諦めがつき、ため息をついて立ち上がった。
「来年は絶対にやらないから。絶対お祭に行くんだから。……もう寝るね」
『姫様』は寝巻きに着替えて寝台に潜り込む。それを確認した後で双子は着替えをテーブルに準備し、最後に明かりを消して静かに部屋を出て行く。
「……ねえ」
「「何でしょう」」
「……なんでもない。おやすみ」
「「おやすみなさいませ」」
双子は優雅に礼を行って退出し、扉が音も無く閉じた。静かになった部屋の中は、月の明かりに照らされている。
「来てくれるかな……」
『姫様』はそう呟いて目を閉じる。意識はすぐに闇の中に溶けていった。
いつの頃からか不思議な夢を見るようになった。最初の頃は飛び起きて泣き、両親に迷惑をかけた。夢の内容が変わったのは三年ほど前からだ。夢の中ではいつも大きくて温かい人が傍にいて、怖い何かから守ってくれていた。
夢の中ではおいしい食べ物がたくさん出てきた。作り方も夢の中で習ったので材料を集めて作ってみたが、材料が揃わなかったり代用品を使ったので完全再現とまではいかなかった。そんな料理を父様は泣きながら喜んで食べていた。
どうしても食べたくてから揚げとカキ氷だけは研究して無理矢理再現した。シロップも作った。食べ過ぎた父様と偉い人がお腹を壊して政務が滞った事件があったが、自己責任の範囲だと思う。
様々な事を学んだ。大切な事も教えてもらった。今の自分の中核を成していると言っても良い。教えてもらった事は全て憶えている。
つい先日夢は終わった。別れの夢を見た。その日は部屋に篭ってずっと泣いていた。夢は見なくなったけれど、約束は憶えている。
誰かの温かい手が頭を優しく撫でた。薄く目を開くと、お師匠様が微笑んでいた。まだ朝は来ない。温かい手の感触に安心して、再び目を瞑った。
いつもの鳥の鳴き声で意識が覚醒し目を開ける。まだ眠い目をこすりながら着替えるために寝台から出て、いつも着替えが用意されているテーブルを見ると、そこには服以外の物が置かれていた。
一瞬で目が覚め、急いで駆け寄ると、そこには小さなポーチと植物の種が入った袋とその育て方が書かれた本、夢で出てきた調味料の作り方のレシピ、そして自分専用の魔道具が置いてあった。
ゆっくりと魔道具を手に取り、魔力を込める。すぐに淡い金色の光を放ち始め、いつも通り空中で静止する。テーブルを良く見るとカードが置いてあったので手にとって読み上げる。そのカードにはこの国では使われていない文字で文章が書かれていた。
『天音、誕生日おめでとう。これからの永き旅路に幸あれ』
何故か涙が溢れた。書かれていた文章を読める事に疑問はない。勉強したのだから読めて当然だ。
私が起きた気配を感じて二人とも部屋に入ってくる。泣いているのを見て心配されたが大丈夫と答えてカードを渡す。ポーチを手に取り中を確かめると、夢の中で貰った大切な品々がきちんと収納されていた。嬉しくてまた涙が出てきそうになったが、堪えてテーブルの品物を一つ一つ丁寧に収納する。
「「お嬢様、これをご覧ください」」
渡されたカードの裏を見ると、文字が書いてあった。
『昼まで庭に桜を待機させています』
そっけない一文だが、意味は分かる。もう他の事なんてどうでも良くなった。
「行くよ!」
「「はい!」」
今までで一番早く着替えて、全力で走って庭まで行く。
「どいて!」
「「邪魔です!」」
途中迎えに来た人達に止められそうになったが、無視する。遠くで何か声が聞こえたが、気にしない。
庭に到着して周囲を見渡すと、突然目の前に巨大な黒狼が姿を現した。そしてすぐに背に乗りやすいように地面に伏せる。
「桜!」
挨拶を手短に済ませて背に上り、跨ってしっかりしがみ付く。全員乗ったのを確認すると桜は立ち上がり、風を切り裂いて空を駆け上がりながら彼方へと進んでいく。その行き先を見つめながら、再会の喜びに自然と笑みが浮かんだ。
「いや、うまく行って良かったな。途中で目を開けられた時は焦ったよ」
真也は今、帝都近郊の街道をのんびり楓に乗って進んでいる。昨日の夜は警戒厳重な城に潜入する作戦を見事に成功させ、見つからないうちに逃げ出したのだ。もちろん侵入時は森羅が全面的に魔法を使って真也は単に歩いていただけだが、いつもこうなので今更気にする事ではない。
「しかし、時の修正力はすごいな。立場は違っても、きちんとみんな生まれてくるのだから」
「天音は特に主様との因果が強いので、周囲はそれに巻き込まれたのではないかと思います」
珍しく肩の上ではなく真也の隣を飛んでいる森羅の推測に、そんなものかと頷く。
「これで約束は果したし、これからは山奥でのんびり過ごすか」
真也は背伸びをしながら、これからの事を考える。
あの後、力を使い果たして倒れた真也と一時的に本に戻った森羅を楓と桜が確保して、床の召喚陣を綺麗に破壊した。そして、突如発生した凄まじい力を察知した者が駆けつける前に隠れてこっそりと逃げ出したので、その後の騒ぎに巻き込まれずに済んだ。
そして真也と森羅が目覚めてから色々検証を行ったが、特別な変化を感じる事は無かった。検証を終えた後はする事も特に無いので、二千年もの間各地を放浪して過ごしてきた。強いて言えば色彩を変化させることが出来なくなった程度だ。森羅曰く、力が増したので存在情報を変更出来なくなったとの事だ。
召喚が行われなくなったのに消滅しない理由として、森羅は『何らかの力によって元の時間軸から切り離されたからではないか』と推測した。つまり、元の世界には一般人の真也が普通に暮らしているかもしれないし、そのまま存在が抹消されているかもしれない。検証のためには元の世界へ戻らねばならず、真也はたとえ戻る手段があっても戻るつもりは無いので『ま、良いか』で済ませた。
旅をして初めて目にしたものは『神の欠片』だ。森羅が解析した結果、本物と分かった時は神が存在していた事に真也は驚いた。ちなみに元の時間軸では魂魄練成器の核に使われていたので存在しなくなっていたものだ。
途中で帝国が倒れそうな兆しが現れた時は、後ろからこっそり手助けをしてきた。これは帝国のためではなく、戦乱になれば移動や生活が面倒になるからだと表向きは言っていたが、実際は神子として生まれる筈の天音や、何処に生まれるか分からないミリルとリシルのためである事は森羅達には分かっていた。真也は特に明言はしていないが、出来るだけ安定していて平和な世の中になるようにと考えて行動している。そして森羅達もそれに沿って動いていた。
もちろん全てが成功した訳では無く、その中には失敗した事もあった。
ある時真也は無性に米が食べたくなったので、目立たないように人口が少なく温暖で栽培しやすい土地を探して、こじんまりとした水田を作った。もうだいぶ長く生活していたのでこの世界にも愛着が湧き、昔の様に極端な隠匿をする事は無くなっていた。
作ったは良いがその水田にずっと居る訳にもいかないので、仕事を探していた黒毛の狼系獣人を雇って栽培をお願いしていた。この時はわざと口止めをしなかった。何故かと言うと、下手に隠すと余計な好奇心が働いてしまうからだ。単にこの地方では珍しい程度の認識ならば、わざわざ調べたりはしないと考えていたし、実際そうだった。
収穫時に興奮しながらうんちくを語り、ご飯の炊き方を教えたりしてしまったが、作っていたのは真也の分だけだったし、雇っていた獣人も変わらず真也に対して丁寧に応対していたので、これなら問題無いだろうと思い、麹を分けて米を作るついでに味噌と醤油作りもお願いした。
この時は、天然物を味わってみたいが自分で作るのも時間が掛かってしまうし、せっかく真面目な人を雇えたのだからと単純に考えていた。実際一から作れば何十年単位の試行錯誤になる可能性がある。さすがにそこまでの熱意は無かった。
だがしかし、雇った獣人には真也も気が付いていない秘密があった。それは、双子の先祖だったと言う事だ。この頃には既に魔眼を所持していて、双子と同じように食欲魔人の因子を持っていた。なので最初から真也の正体を見抜いて恐縮していたし、米のおいしさも、試しに味わった味噌と醤油の味わい深さも憶える事ができた。
米の方はその味に魅せられて、もっと食べたいと最初は真也の分とは別にこっそり栽培を始めた。しかし、嬉しい事は誰かに自慢したくなるものだし、共有したいと思うものだ。ここだけの話と、米の事や依頼された調味料作りの事を話していくうちに、少しずつ周囲に同好の士が増え、真也が数年間所用で訪れる事が出来なかった空白期間に爆発的に広まって、米がその地域一帯の主食となってしまった。
それを旅先で知った真也は、その地域の生活を変えてしまった事に頭を抱えたが、調子に乗って自ら教えた負い目もあり、もうどうしようもないのでこっそり手紙とまとまったお金を置いて契約を解除した。
その後は一方的に契約を解除した後ろめたさもあり、結局ほとぼりが冷めるまでその地域に近寄れなくなってしまった。おかげで暫く米が味わえなくなり、涙にぬれた出来事となった。
また、何十年か経過して、祭り開催中の帝都で食事をしようとした時に、偶然空席があった食堂を見つけて入った事があった。その食堂では帝都ではまだ珍しかったご飯を提供していて、当時はそこしか取り扱っていない食材だった。料理の味はいまいちだったが原産地にはまだ近寄れなかったので、偶然に感謝しながらそれ以来こっそり通っていた。
真也はいつもおかずとご飯を頼んでいたのだが、いまいちなおかずの味でご飯を最大限に堪能するために、いつも店の端の席に座るとこっそりと丼を取り出して、ご飯とおかずを入れて醤油と味噌で味を調え、丼物にして食べていた。こうするとご飯とおかずが一体となり、単体ではいまいちな味もそれなりの味になるような気がしていた。そのため『ご飯は偉大なり』と厳かに呟きながら、いつも大口を開けてかきこんでいた。もちろんこれは行儀が良くない行為のため、しっかりと幻影による偽装を行って見つからない様にしてから堪能していた。
ところがどっこい、その店には田舎から一旗あげるために帝都に出て来ていた双子の先祖が居た。もちろん魔眼を持っていて、真也の奇妙な食べ方をしっかりと目撃していた。
ある時、真也はきちんと偽装している筈なのに、じっと見つめる視線に気付いた。それで行儀の悪い行為をずっと目撃されていた事を知ってしまい、あまりの恥ずかしさのためテーブルに調味料と丼を置いたまま思わず飛び出し、数十年間辺境に逃げていた事もあった。代金が前払いで良かったと真剣に思った出来事だった。
こうして双子の先祖の見事な活躍?で、両方の出来事が『黒の賢者』のおかげと広まる事になったのだ。このように大部分の『黒の賢者』の逸話は、実は真也にとって失敗した事だったり意図していない事の結果だったりする。そのため物語ではとても格好良く描かれている事もあり、真也は『黒の賢者』を自分の事とは思っていない。
読み物は基本的に伝承が元になる。伝承の元を知っている真也にとっては殆どが笑い話にしかならない。だから一度集めた後は、その手の話を積極的には集めなかった。だから噂では聞いていても、詳しい内容に興味を持つ事がなかった。もちろん森羅はこっそりと収集している。特に『黒の賢者』は真也の活躍を描いた物なので、全種類揃えていた。
真也は自分の姿が知られているとは思っていない。街では幻影を被せて行動しているので、普通の人は誰も気が付かない。極一部に見られても大それた事をしていなかった時だった事と、今は黒髪黒目を見られても珍しいで済む程度なので、そのうち忘れると思っていた。
実は王族には魔眼持ちが比較的多く、結構最初のうちに姿は見られていた。しかし、真也は名乗ることはしなかったし、表舞台に立ちたいと思っているようには見えなかったので、王族の申し送り事項に『街で見かけても、見て見ぬ振りをするように』と言う項目が追加されていた。
ただ、感謝は伝えたかったので物語として『黒の賢者』を作り、世の中に静かに放っていた。まさか検証までされて、ここまで大きい物語になるとは最初に話を作った神子も思っていなかった。現在までに作られたものの中には作り話も多く存在している。これも真也が気付かない原因のひとつとなっていた。
真也は常にこっそりと干渉したので、実際は物語のように諭したり喧嘩を売ったりはしていない。ただ、媚びたりもしていないので、この辺りが願望と混じり合ってさまざまな物語が作られ、本人からすれば別人としか思えない現在の『黒の賢者』が出来上がっていた。
「ところで桜は何処へ行ったんだ? しばらく姿が見えないけれど」
「少し用事がありまして、もうすぐ戻ってきます」
「そうか、分かった」
真也は気にするのをやめて、のんびりと景色を楽しむ。森羅は近付いて来る桜の気配を捉えている。嘘は言っていない。
真也は憶えておいてと言っていた。まだ果されていない約束がある。真也は約束を破る事を嫌う。だから真也が忘れていても、交わした約束は必ず果されなければならない。戻ると天音に約束したのだから。
森羅には今の時間軸が完全に固定され、新しい大きな時間の流れに変化しようとしている様子が見えている。元の時間軸の形に戻ろうとする時の修正力に干渉しながら『不安定な支流』を導き続け、やっと出来上がった『新しい本流』だ。ここまで辿り着くために森羅は人知れず今まで頑張ってきた。そしてここまで来ればもう大丈夫と、その顔にほんの少しだけ笑みがこぼれた。
遠くから金色に輝く小さな流星が、真也目掛けて近付いて来る。その軌道は確実に真也を捉えていた。命中するまで後十秒。その後ろから桜が空中を駆けてくるのが見える。その背には三人の人影が見えた。森羅は楓に目配せをする。楓は尻尾を振って了解を伝えた。
真也は全く気が付いていない。約束を無事果たして緊張が解けたので、いつも以上にのんびりしている。春の陽気に誘われて、今にも眠りそうな顔だ。流星は徐々に速度を上げて近付いてくる。命中するまで後七秒。
真也は何か変だと首を傾げる。しかし、まだ振り向く事は無い。流星はよく見れば螺旋の輝きを放っている。実に素晴らしい光景だ。真也が見る事が出来たなら涙を流して感動しただろう。残念ながら今回は見る事が出来なかった。命中するまで後五秒。
やっと真也は後ろを振り向く。しかしもう遅い。流星は想いを力に変えながら更に神々しく輝いて、既に目の前に到着している。楓は既に体勢を整えているので安心安全だ。森羅の教育の賜物である。真也は予想もしていない出来事に目を大きく開け、口は半開きになっている。実に間抜けな顔だ。命中するまで後コンマ一秒。
もちろん森羅はいつも通り空気を読んだ。草原に春の暖かい風が吹きぬけ、冬の終わりと新たな季節の到来を優しく告げていった。
fin.
これにて終了となります。最後までお読み頂き、ありがとうございました。




