第02話 知らない世界
暗く何もない所。時折流星のように光る何かが見えるのみで、全てが静止しているかのような場所。それを識る者からは『世界の狭間』と呼ばれるその空間に、突然普段見える光の何十倍もの輝きが生まれる。
生まれた巨大な光球はまるで何かに引かれているかのように直線を描いて移動する。その途中、光球から小さな光が零れ落ち、一瞬輝いて見えなくなる。光球の方は止まる気配も見せず直進し、何かに飲み込まれるかのように端から消えていった。
巨大な光球が過ぎた後には、目を凝らさなければ分からない程に小さく光る小球が一つ。先ほど飛び出た光の残滓……。当初纏っていた物質は狭間に飛び出した時に消滅し、今あるのはちっぽけな意識体のみ。はじき出された場所で、ただ漂っていた。
本来であれば、そのまま何も残さずに消えていたはずの意識体は、巨大な光球が残した『存在の残滓』によって消えることなく存在を保っていた。
偶然は続く。そのわずかに確保された時間が意識体の持つ強い『願い』を周囲に拡散させ、狭間の中にわずかに漂う『方向性を持たない力』を呼び寄せる。取り込まれた『力』は意識体の記憶に触れその方向性を決定し、『力』をさらに呼び込み意識体をより大きく成長させていく。
その間にも何度か巨大な光球が通過していったが、意識体のようにそこから飛び出してくるものはいなかった。
やがて意識体は、引力に捕まったかのように少しずつ己の位置を動かし、速度を増して一定方向に移動していく。そして巨大な光球が飲み込まれた場所に近い所で、同じように消失する。
後に残ったものは無く、いつもと変わらない光景が広がっていた。
遠くに雪を頂く山、その麓には緑濃い森が広がっている。森の終わりには大人の膝程度の草が生い茂る平原。高所から見ることができれば風が過ぎる光景を目の当りにすることができるだろう。
時刻は早朝。まだ外で眠るには寒く、それなりの準備が必要である。本来であれば、昔から変わらない光景がいつも通り繰り返されたであろうその草原に、何の前触れもなく異変が生じた。
突然、何かが爆発したかのように草がなぎ倒され、土と共に周囲に飛び散る。不思議なことに同時に生じるはずの爆音は聞こえない。異変の中心を見ると直径十mほどの光輝く繭のような何かがあり、ゆっくりと明滅している。やがて光は徐々に薄れ、景色の中に溶け込むようにその繭は消えていった。
消えたところには黒髪の人間が一人、うつ伏せに倒れていた。
時間が過ぎ、太陽が頭上からその光を投げかけ、その光は倒れている者にも分け隔てなく恩恵を与え続けている。うつ伏せとはいえ、直射日光を顔に浴びている状態で眠り続けることができる者はどれだけいるだろうか。ようやく今まで身動き一つしなかったその身体がゆっくりと動き始めた。寝ぼけまなこのまま上半身を起こし、正座をする。しばらく前を見つめていたが、やがて確認するかのように呟いた。
「どこ、ここ」
……誰もが一度は言ってみたいが、実際に言うことはない台詞を言うはめになった彼であった。
見渡せばどこまでも続く大自然。当然見たことがない景色である。そのことが頭で理解できるようになると次に来るのは混乱だ。起きがけの頭では思考が働かず受け入れていた異常も、いったん思考が働き始めると止まらなくなる。いや、あまりのことに思考が停止しているといっても良いかも知れない。
「……、……、どう、なっているんだ? 何が、どうなっているんだ? ……」
思考は同じ所をループして先に進まない。
仕方がないことではないだろうか。いくら異世界に憧れを持ち、ごっこ遊びをしてしまう程だとしても、実際にそうなると思っているわけではない。理解を超える出来事に会えば混乱するのは当たり前のことだろう。第三者から見れば『何故できない?』と言われるような状態に当事者はなってしまうものだ。
思わず叫びたくなるほど混乱が高まったその時、胸元のポケットから柔らかな光が溢れ、全身を包んでいく。
「……あ」
あれほど混乱していた心が静まっていく不思議な感覚に、緊張していた身体が弛緩し全身の力が良い具合に抜けていく。光が収まった時には先ほどまでの混乱が嘘のように収まっていた。
「今のは何だ? ……このポケットには何を入れていたっけ」
そう言いながら胸元を探り、中身を取り出し手に持って確認する。入っていたのは何の飾りも、文字も書かれていない黒表紙の手帳が一冊。
「忘れていた! これがあった!」
過去に、万が一異世界に行った時に確認しなければならない事柄をまとめた物だ。今回は完全装備を目指して準備を行っていたので、使わないだろうが一応記念に持ってきたものだった。書いたのはかなり昔なので内容はよく憶えていない。準備のときにポケットに入れたことも、家を出るときには忘れていた。
「全く、準備をしていても忘れていたら意味がないだろうが。……これが光ったのか?」
首を傾げつつ、表と裏、それと中身をさっと確認し特に変化がないのを見て、今度は首を反対方向に傾げる。
「変わっていないよな。これじゃないのか? ……まあいいか、原因究明をしている時間が惜しい、さっそく始めよう」
いつも通り呟きながら、表紙をめくり最初のページに目を止める。そこには見覚えがある自分の筆跡でこう書かれていた。
*****
『まだ見ぬ世界に旅立つ者に、導きの詩を与えん。心は強く、冷静であれ。永き旅路に幸あれ』
*****
パタン。無言で手帳を閉じ、目を瞑って身を震わせる。静かに時間が経過していく。
「……すっかり忘れていた。危ない危ない。この妙に冷静な状態でなければ、もだえ死んでいたかもしれない。……黒歴史の不意打ちは危険すぎる。気を付けよう」
背中に嫌な汗をかきながら決意を新たにする。
「……よし、大丈夫だ。次に行こう。なになに……」
改めて表紙をめくり、内容を読んでいく。一つ一つ理由も書かれているが、要約すれば次のようになる。
*****
初期確認事項
・深呼吸を3回行い、冷静であることを確認。
・夢を見ているか確認。
・身体に痛むところがあるか確認。
・周囲に危険が迫っていないか確認。落ち着いてその場にいることができる所か確認。
・自分の名前、基本構成、その日の記憶を声に出して確認。
・荷物、所持品を確認する。有無、破損や変異をチェック。
・身体能力、特殊技能、魔法の確認。
・確認終了後、食料と水がない場合は、体力があるうちに人里を探す。動ける猶予は一日。
ある場合は木の上などの安全な寝床を速やかに確保すること。
*****
「……ふむ、最初は飛ばして構わないな。今は落ち着いているし。次、夢と身体の確認か……」
そう言ってその場に立ち上がり、手帳をポケットにしまってから手足を軽く動かして痛むところがないか確認する。ついでに身体についた土も落としておく。
「特に痛むところはないな、問題なし。はっきり身体を認識できるし、感覚もある。明晰夢を見たことがないから分からないが、通常の夢ならば『夢』という発想自体が出てこないから現実と思ってかまわないだろうな。よし次に行こう。」
手帳を取り出し、次の作業に移る。身体を回して周囲を見渡す。山と森、周囲は草原。動くものは草木のみ。現在位置のみ土が直径十m程度円形にむき出しになっているが、それ以外は特に変わったものは見受けられない。三回同じ事を繰り返し、変化がない事を確認した。
「とりあえずOK。範囲確認のために動くのは後回しだ。次」
手帳のページを進める。
「記憶の確認か。……一人で誰もいない所に自己紹介……。傍から見れば危ない人だけれど、いないから問題ない。……手早く済ませよう」
キョロキョロと辺りを見回してから、声を出し始める。
「名前は最上真也、三十七歳、身長百六十九cm、体重七十四kg、独身、両親は病没、恋人なし、アパートに独り暮らし、設計事務所勤務……」
思いつく事をつらつらと声に出していく。
「今日は連休を利用してキャンプに出発。朝起きて準備し、駅に向かった。……駅前広場に到着し時刻を確認、駅構内に入ろうとしたときに……地面に魔法陣が広がり、脱出を試みる。その後は……」
眉間に手を当て、朝の記憶を思い出していく。
「……たしか地面が強烈な光を放って……、そうだ、全身にかなりきつい衝撃が走って……、後は思い出せないな。後は気が付いたらここにいた記憶になるな」
眉間に当てていた手をおろし、ため息をつく。
「あの時に魔法陣と認識していたのだから、知らない場所に出ることくらいある程度予想できるだろうに……。まったく、混乱していた自分を笑ってやりたい。……想像と実際は天と地ほどの差があるということか。訓練をしたものと言葉のみで教わった者では災害の時に動きが違うと聞いていたが、思いがけないことで証明してしまったな。……まあ、いいか。記憶に欠損を認めず。次に移ろう」
首を振り、落ち込んだ気分を振り払う為に声に力を入れ、ページをめくる。まだまだやることは満載だ。
……ちなみに、すぐに魔法陣を認識し行動できた理由は、当然訓練していたからである。どうやってと聞いてはいけない。世の中には他人には理解できない行動が星の数ほどあるのだから。