月が言い訳をしている
三日月が夜を照らす。
月のない夜は嫌いだった。
少年にとって、視覚はもっとも信頼する感覚である。
それが隠される暗闇は不安で、だから、闇を照らす月が好きだった。
ともすれば、太陽よりも。
いや、その嗜好は、親近感によるところが大きいかもしれない。
太陽のいない間、太陽のかわりに、太陽の輝きを反射して闇を照らす鏡。
それは太陽よりも弱くて、薄くて、軽くて、脆い。
ニセモノの輝き。演じられた瞬き。太陽が昇れば、隠れて消えてしまう価値。
太陽を知らない者には、十分な光に見えるかもしれない。
けれど、まぶしいほどの「本物達」の輝きを、少年は知っている。
自分は、いつも何かのかわり。
月で、代償で、偽者なのだと、彼は自認している。
昼間の熱気を残した、温い風が吹く。
夜光虫を袖に遊ばせながら、歩を進める。
旧世代……〈神代〉では、秋葉原駅のプラットフォームであったと設定されている空間。
そのレールや階段は朽ち果て、逞しい緑の生命に覆われている。
周囲を遮るビルがところどころ崩れた今は、アキバの街の中央広場を見下ろす台地。
旧世界では、訪れたこともない娯楽の聖地。
この場所が今、異世界生活の中心地であるのは、なんとも皮肉な話だった。
これから会う二人のことを思い浮かべ、思わず口元に笑みが浮かぶ。
きっと彼は覚えていないだろう。
初めて少年が彼と出会ったのも、この場所だった。
きっと少年は忘れないだろう。
初めて少年が、己の無理を認識したのが、この場所だった。
◇ ◇ ◇
名家の跡継ぎ。
兄が失踪して、本来回ってくるはずのない、大きすぎる権力が、少年に転がり込むことになった。
代償に失った自由。
「普通」とつながっていられる日常は、あとたった数年間しか許されない。
だから少年が、大規模オンラインゲームである〈エルダー・テイル〉を始めたことに、特に意味はない。
単に、何かで気を紛らわせたかった。
選んだキャラクタークラスは、〈武士〉。
尊ぶべき者のため、侍う者。
幼いころ、そうありたいと願って、叶わなくなってしまった生き方。
キャラクターを登録し、少年が初めて訪れた場所は、秋葉原駅のプラットフォームだった。
初心者向けのガイドで、ギルド会館への道が示されたが、無視をした。
兄から聞いた、東京の娯楽の中心地。
いつか、兄に連れて行ってもらうと約束していた場所。
ゲームの中で、真っ先に足が向かったのがここか、と、少年は乾いた笑いを浮かべた。
ぼんやりと作りこまれた作り物の世界を眺める。
どれだけ、そうやっていただろう。
ディスプレイの前で好きでもないコーヒーをすすっていると、少年のスピーカーが、聞きなれぬ声を出力した。
「……あの、大丈夫、ですか?」
ほかのプレイヤーから声をかけられたのだ、と理解するまで一瞬。
ためらいがちな口調に、声をかけられたことへの緊張が緩む。
ゾーンに入ってきたのは、眼鏡の青年。
ゲームのキャラクターである以上、表情から感情を読み取ることはできないが、ボイスチャット越しに聞こえる声からは、悪意は感じなかった。
確か、このゲームでは他プレイヤーのデータの名前とレベル、職業は簡単に確認できたはずだ。
LV1の初心者が道に迷って、途方に暮れているように見えたのかもしれない。
オンラインゲームどころか、インターネットに触れる機会すらほとんどなかった少年にとって、その気遣いは嬉しい驚きだった。
地元では誰もが、姓を名乗るだけで少年を敬して遠ざけるか、媚びてすり寄ってくる。
身内以外からシンプルな好意を受けるのは、新鮮な感覚だった。
だが今の自分は、それに甘えるわけにはいかない。
「ああ、悪い。大丈夫だ。俺、景色を見るのが好きでさ」
答える口調は、少年本来のものでなく、兄のそれ。
そう。今日から彼は、いなくなった兄の代わりとして生きなければならないのだ。
一人で生きられるように強く。全てを背負えるように強く。
だから、仮想現実の世界であっても、いや、だからこそ、演じる訓練をしなければならない。
たとえ、どれだけ力が足りなくても。どれだけ自信がなくても。
誰もがそれを望んでいる。
自分もそれを望んでいる。
そうできなければ、きっと、多くの人が不幸になる。
「悪いね、見知らぬ兄さん。心配をかけちまったみたいだ」
印象に残らない程度に、軽くもなく、重くもなく。
薄っぺらい言葉で相手を遠ざけようとする。
だが。
「その、ごめん。気を悪くしたら謝るけれど……」
こちらの言葉を聞いた青年は、また、ためらうように言葉を探し、そして、
「何だか、その演技は」
困ったように、区切りながら、けれど、はっきりと。
「……君には少し、似合っていない、気がする」
そんなことを、口にした。
言葉が出てこなかった。
兄の真似をすることにだけは、自信があった。
太陽に対する月。影のようにいつもそのそぶりを模倣してきた。
自分すら騙せると思ってきた口調。完璧なはずの演技だった。
いや、口調だけではない。生き方を。考え方を。意識して、「切り替える」ことができるつもりだった。
「僕」ではなく「俺」に。
それは、中学生になったばかりの子供にとって、精一杯の自己変革だった。
いや、多分、本当は似合わないと知っていた。ちぐはぐだと自覚していたのだ。
それでも、義務感と劣等感と焦燥感で演じ続けていた。
そんな半端を、この見知らぬ青年に暴かれた気がした。
「はは」
おかしかった。何で、初めて会った、いや、会ってすらいない人間に、看破されたのか。
おかしかった。おかしくて、おかしくて、笑うことしかできなかった。
アバターの表情がプレイヤーのそれと連動しないことを、心から感謝した。
「うん。やっぱり、ボクは、ボクだ。……慣れない演技なんて、するもんじゃないですね」
「そうだね。ロールプレイヤーを目指すのは、慣れてからでも悪くないと思うよ」
◇ ◇ ◇
今思えば、ずいぶんとちぐはぐでかみ合わない会話だったのだろう。
多分、本当に偶然が重なっただけ。
女性めいた少年のアバターと、俺、という一人称は少し似合わない。
青年はそんな風に指摘しただけなのかもしれない。
それでも、その言葉は、少年を確かに変えた。
思春期特有の歪みと、少年固有の悩みとに、同時に一つの解を示した。
少年だけではあるまい。
あの青年は、遠慮がちな言葉で、意識せぬまま幾人もの人の方向性を変えてきたのだろうから。
「……先輩は計算ずくの癖に、天然だからなあ」
あれから、随分と時間が過ぎた。
彼とは奇妙な縁で再会を果たし、奇妙な集団の中で、奇妙に賑やかな時を過ごした。
それから、また色々な縁で、その集団は解散してしまったけれど、あの始まりの時と、賑やかな日々は、今でも少年の核になっている。
惰弱で、小賢しく、そして狭量だった自分を変えた出会いと時間。
ギルドを作り、仲間を募るなど、ゲームを始めた頃の少年ならば考えられもしなかっただろう。
青年と、その仲間たちに対して、感謝では足りない。
だからこそ、青年の呼び出しに、少年は一人で応えたのだ。
彼からの呼び出しが、単なる世間話をするためとは思えない。
この状況で、青年が自分を呼び出すとすれば、それは団の長としての少年に対して要請があることを意味する。
少年自身は、政治的な駆け引きに優れているわけではない。
冷静に考えれば、参謀役である第二班長を連れて行くべきだ。
けれど、彼には確信があった。
これから開始されるのは、青年を青年たらしめる〈完全管制戦闘〉。
攻略の対象は、おそらく――この街の、在り方。
希望を失い、閉塞し、淀んでいっている、この空気こそ、彼が打破せんとするものだ。
少年とて、現状の雰囲気をよしとしていたわけではない。
だが、それを変革するために、少年の力は小さすぎた。
人生経験も浅く、人の使い方や政治についてもまだ、初歩的な部分を学んだに過ぎない。
もちろん、だからといって何の手も打たなかったわけではなかった。
まず取り組んだのは、ハラスメントの対象となりがちな女性キャラクターの保護。
〈宝玉の翼〉の出身者である第三班班長を中心とした、特殊部隊の編成とそれによる警邏活動。
ハラスメント被害者の避難所及び自警団としての「親衛隊」の組織化。
プレイヤーが異性キャラクターをプレイしていた場合、可能な限り「外観設定ポーション」を手配して元の性別を取り戻せるように配慮し、性的なハラスメントや問題の予防も目指した。
それでも、足りない。全ては対症療法だ。
五大戦闘ギルドなどと祭り上げられておきながら、できることはこんなことだけだった。
けれど、あの青年ならば、その先に行ける。
そのために自分達が払える代償があるならば、それは無駄にはならない。
その信頼もまた、少年を単身、この場所へと向かわせた理由のひとつだった。
「こんばんは。お久しぶりです、シロ先輩。にゃん太老師」
一年ぶりの呼び名に、懐かしさがこみ上げた。
「ご無沙汰。ソウジロウ」
「ご無沙汰にゃー。ソウジっちは元気でやってたかにゃー?」
当然のように返ってくる挨拶がくすぐったい。
初めて見た二人の顔は、他の者と同じように、ゲームだった頃とは若干異なっていた。
青年……シロエは、心なしか神経質そうな顔立ち。
にゃん太は、口元に微笑みを浮かべた紳士然とした様子。
どちらもが、〈放蕩者の茶会〉で冒険をしていた彼らと違和感無く溶け合っていく。
厳密に言えば、直接出会ったのは初めてなのに、遠慮は少しも感じなかった。
「ギルドを組んだって聞いたにゃ。どうなのにゃ?」
少年のギルド、〈西風の旅団〉ができたのは、〈放蕩者の茶会〉が解散してすぐのことだ。
〈放蕩者の茶会〉を取り戻したくてはじめた集まりが、気がつけば、まったく違う形で、大きな集団となっていた。
本当に隣にいてほしかった人には、ギルドの参加を固辞された。
青年にも、にゃん太にも、そして、自分に〈エルダー・テイル〉を教えてくれた、不器用なベテランの〈暗殺者〉にも。
寂しさがないわけではない。
今のギルドに対して、求めているのはこれではない、という気持ちもある。
それでも。
瀬田の家の後継者でない、個人としての自分を慕ってくれた皆を、大切にしない理由もない。
「ええ、おかげさまで。ぼちぼち軌道に乗ってきてたんですけれど、その途端に〈大災害〉ですからね」
こうは口にしたものの、〈大災害〉について、少年は〈放蕩者の茶会〉の解散ほどの衝撃は受けていなかった。
少年が瀬田の家を継ぐため、「普通」から完全に隔離されるまで、あと数ヶ月。
むしろ、この夢のような時間を、もう少しだけ続けていられることに、少年は安堵していた。
しかし、と改めて少年はシロエ、にゃん太を見る。
〈大災害〉は異常な事態だ。解放的なテクスチャに紛れているが、現状は閉鎖空間に閉じ込められた状態に近い。
「現実に戻りたくない」理由のある少年のような立場でもない限り、かかるストレスは相当なものであるはずだ。
にもかかわらず、ここにいる誰も、まったく落ち込んでいるようには見えない。
どんなひどい状況でも、観光半分、冒険半分で捉えてしまうという〈放蕩者の茶会〉の遺伝子かもしれない。
「ナズナっちと、沙姫お嬢はまだ一緒なのかにゃ?」
「ナズナは一緒ですね。沙姫は一緒のギルドなんですけど――〈大災害〉の時はログインして無かったみたいで」
にゃん太が尋ねたのは、共に〈放蕩者の茶会〉で腕利きだったヒーラーの名前だった。
ナズナは少年にとっては保護者や姉のような存在だ。
きっぷの良い姉御肌で、同性からの人気も高く、女性の多い少年のギルドでは必然的にまとめ役となることが多い。
沙姫は、〈放蕩者の茶会〉の中では数少ない、少年よりも年下の少女だ。
年下の兄弟がいない少年にとって、妹のような彼女は特に世話を焼いた対象だった。
彼女はその扱いを不満に思っていたようだったが、少年は彼女に年上ぶるのが楽しかった。
どちらもが大切な縁。
ただ、沙姫が〈大災害〉に巻き込まれなかったことを、少年は安堵していた。
潔癖だった彼女に、今の姿は見せられない。
ゲームのときには、隠せていた自分の弱さを、現実となった今では否応なく見せざるを得ないからだ。
彼女に恥ずかしいところは見せられない。
少年が兄貴分として張り通したい、数少ない意地だった。
「ソウジロウは、まだもてもてなのか?」
「え? あ……。いえ、そんな」
シロエの問いかけに、少年は口ごもる。
よく投げかけられる問いだが、少年にとってはいつになっても慣れない質問だった。
少年の自覚として、彼自身は女性にもてているわけではない。
無害なイメージがあるから、女性が気安く話のタネにできるだけ。
愛玩動物に触れるような気軽さで、人の温もりに触れられる安心感があるだけ。
消化のいい粥のようなもの。
疲れていたり弱っていたりするときには美味しく感じるけれど、やがて体が健康を取り戻せば、物足りなくなってくる。女性にとって自分はそんな存在だと、少年は分析している。
けれど同時に、その分析がひどく失礼で、また、周囲の理解とまるきりずれていることも、彼は自覚していた。
そんな逡巡を知ってか知らずか、にゃん太が笑う。
「青春ですにゃぁ。今は何人ですかにゃ?」
恋人は、という意味だろう。
それは、少年にとって、とても難しい質問だ。
好意は寄せてもらっている。けれど、自分がそれにきちんと応えられているかというと疑問だ。
そもそも、自分に向けられる好意を一過性の病状のように分析している人間に、相手を恋人だと言う権利があるとは思えないとの考えが、少年にはあった。
だから、敢えて問いを曲解して、少年は片手をあげて、親指だけを折る。
4人。
ギルドの中で、「幹部」と呼ばれ、自分を特に親しく支えてくれる女性たち。
全員が家族であると思っているギルドメンバーの中でも、特に感謝している人間の数だった。
うまく誤解してくれたのだろう、シロエの表情が曰く言いがたい力の抜けたものになる。
その表情に少年も頬が緩む。
〈放蕩者の茶会〉でくだらない雑談に興じていたころのような雰囲気。
今なら聞ける。
少年は、ずっと聞きたいと思っていたことをシロエに確認することにした。
できる限り何気ない口調で、言葉を出す。
「そんな事よりですねっ。どうしたんですか? シロ先輩から呼び出しなんて。ボクはシロ先輩には嫌われているんだと思ってましたよ」
少年は、いつもシロエから、もらってばかりだった。
大切な言葉も。素敵な機会も。貴重な知恵も。的確な判断も。
それに対して、自分は何も返してこられなかったという自覚が、彼にはあった。
振り返ってみれば、少年にとっての大切な場所であった〈放蕩者の茶会〉は、たくさんの人が、たくさんの苦労をして成立していた楽園だった。
あまりに楽しすぎて、幼すぎて、少年には皆が払っていた代価がよく理解できていなかった。
楽しい、というきれいな数珠を繋げているのは、数珠の中に隠された努力や配慮、場を想う気持ちといったような、見えずらいものを寄り合わせて作った細い糸だったのだろう。
ギルドを運営するようになって、その代価が少年にも理解できるようになった。
そんな今だからこそ、少年の中には不安があった。
もしも、自分がもう少しだけ、いろいろな代価を払うことができていたら〈放蕩者の茶会〉は続いていたのではないか。
自分はそれを怠っていたから、シロエたちに嫌われたのではないか。
だから、彼らは自分のギルドに入ってくれなかったのではないか、と。
けれど。
「え、なぜ?」
ぽかんとした表情で返された言葉に、少年は拍子抜けしてしまった。
シロエは、めったに感情をストレートに表情に出さないが、表情を繕うタイプでもない。
そんな彼がこのような表情をするのだから、嘘ではないのだろう。
自分の考えすぎが恥ずかしくなって、少年は慌てて言葉をつないだ。
「いや、だって。その……僕、ハーレム体質だから」
黙り込むシロエ。
その隣でからからと笑うにゃん太。
きっとかつてであれば、直継がすかさずつっこみチョップを入れ、沙姫がくってかかり、ナズナがなだめていたことだろう。KRがため息をつき、カナミがさらに無茶を言って事態を混乱させていたかもしれない。
懐かしくて、そして、もう戻れない場所を思い出して、少年の視界が少し揺らいだ。
「それは確かに重大な問題だけど、そんな事で嫌ったりする訳無い。僕たちは〈茶会〉の仲間だったんだぞ」
まったく、シロエという人間は、いつもそうだ。
いつもまったく無自覚に、こちらが欲しくて仕方のないメッセージを投げかけてくる。
今の言葉だけで、ここに来た価値があった。
少年は追想を振り払って、おそらくはシロエの意図していた本題へと話題を戻した。
「そうか、そうですよね……。でも、じゃぁどんなご用件なんですか?」
空気が、変わった。
シロエの周囲の気温が数度下がったような錯覚。
「単刀直入に云うと、力を借りたい」
「どんな力でしょう?」
半ばわかっていながら聞いているのだから自分も相当に性格が悪いな、と少年は自嘲する。
だがそれでも、この問いかけは必要な儀式だ。
今の自分は〈放蕩者の茶会〉の一員としてではなく、〈西風の旅団〉のリーダーとしてこの場に立っているのだから。
少なくともその目的については、話を聞く必要がある。
「……ソウジっちは、今のこのアキバの街をどう思うですにゃ?」
「この街、ですか。抽象的ですね……。それはやっぱり、いろいろ辛いとは思いますよ。この街に限らずですけれど、この世界全てが考えようによっては牢獄じゃないですか」
「牢獄かぁ」
「ええ。――いきなり巻き込まれて、異世界になってて。帰る方法も判らない。死ぬことも出来ない。世界の仕組みからしてそうな上に、街の外はモンスターがうろうろです。僕らはともかく普通のプレイヤーさんは閉じ込められている気分になるのも、判ります」
「そうだにゃー。そう言われればもっともだにゃ」
閉塞感。
これが現状の最大の課題だと、少年たちは考えていた。
未知の状況で包まれたこの空間は、開放的な牢獄だ。
いつまでもこの状態を続ければ、淀んだ水が腐るように、状況は悪化していくだろう。
「だから辛いですよね、良くないと思います。こういう状況だと弱い者いじめに走っちゃいますしね。実を言えば、うちのギルドでも、もう街を出ようかなんて話も上がってるくらいですもん」
「アキバ、出て行くの?」
「いや、そんな話もあるってだけで、まだ全然具体的な話じゃないですよ。やっぱり街に本部置いておくのは便利ですしね。ただ、やっぱり街の雰囲気がだんだん荒んでいくのは、見てて辛いですよ。何にも出来ないですし」
そう。どれだけ手を尽くしても、この「淀み」の被害を消すことはできなかった。
力が足りない。
協力を求めようにも、どこも誰も自分のことで手一杯で、大局を見る余裕などない。
どれほどにモンスターを倒す力があっても、どれほどに人から慕ってもらっても、何もできない。
ギルドでは決して口にできない弱音が、口をついた。
いや、もしかすれば、シロエが次に発する言葉を予想しての、伏線を張ったのかもしれない。
「何とかする手がある」
「本当ですか? シロ先輩っ」
「……と、思う」
シロエが断言を避けるのは、責任回避の意味ではない。
彼の不器用な誠実さの表れ。
いつだって彼は、99%の確率すら「確実」とは口にしなかった。
いつだって彼は、1%の確率でも成功率を上げようと努力を続けていた。
そんなシロエが「何とかする手がある」と口にしたのだ。
その意味は、少年にとって何よりも大きい。
「そのために、力を貸して欲しい」
「どうすれば良いんですか?」
「……ソウジロウだけじゃなくて、〈西風の旅団〉の名前も借りなければならないんだ」
睨むように、まっすぐに向けられる視線。
少年は、それとよく似た目を、これまで幾度も見たことがある。
決断した人間の目だ。
家を継ぐと決めた兄のそれ。大きな仕事を前にしたときの、父のそれ。
兄が失踪した後、少年を瀬田の家の新たな後継にすると告げたときの、祖父のそれ。
自分の選択が多くの人を巻き込むと理解して、それでもその結果を、良いも悪いも全て飲み込むと覚悟した、そんな瞳だ。
自分は、いつか、こんな目ができるだろうか。
逸れかけた意識を、改めて戻す。
これは、提案だ。ギルドマスターとしての自分に投げかけられた、選択だ。
頷き、話を促す。
「ひとつには、今のアキバの雰囲気は良くないってことを、周囲に話して欲しい。このままでは荒んでしまう、って。他の大手ギルドにも流してくれると有り難い」
「それは良いです、はい。でも、そんなのみんな何処かしらでは感じてますよ」
「でもちゃんと言葉にするのが大事なんだと思うんだ。〈西風の旅団〉がそう思っている、もしかしたら動くかも知れないと思わせるだけで十分に効果がある。
もうひとつは、あと数日したら、招待状が届くと思う。出来ればその日まで、アキバの街にいて欲しい。会議の招待状だ。その会議で、何らかの決着を出したいと思う」
思考が回転する。
メリット。 デメリット。成功率。コスト対効果。リスク回避策。
一瞬のうちに巡りだしたそれらを、少年は深呼吸で全て吹き飛ばした。
「判りました」
きっと、第二班長からはこっぴどく叱られるのだろう。
それでも、この決断に迷いなんてない。あろうはずがない。
「いいのか? 経緯とか作戦とか聞かなくて」
「だってシロ先輩忙しいんでしょ? そんな事で時間とらせちゃ申し訳ないですよ。それに僕は前衛バカですからね。〈茶会〉一番の作戦参謀の立案を聞いたからって、半分も判りません」
だって彼は、月である自分に光をくれた、太陽なのだから。
なんらかの理由で、世界を照らすことをためらっていたようだけど。
やっと、太陽が昇ると決めたのだ。
月がその邪魔をする理由なんて、どこにもない。
「ソウジっちは、良い子だにゃ」
「にゃん太老師に褒めてもらっちゃうくらいですからねっ」
自分のほしい言葉を聞いた。
ギルドマスターとして必要な話も聞いた。
ならば、あと、この会話に必要なのはひとつだけ。
少年はシロエを見つめ返すと、話を切り出した。
「それとは全くの別件ですが、シロ先輩。にゃん太老師。……良かったら〈西風の旅団〉に入りませんか? ナズナも喜ぶと思いますし。うちは気の良いやつらばっかりです。現在は辺境エリアの探索に交代で出掛けては、新拡張パックの情報を探ろうと動いているところです。
こう言っては何ですけれど……シロ先輩がやろうとしている、その作戦っていうのも〈西風の旅団〉の看板でやった方が効率が良いんじゃありませんか? ――ダメでしょうか?」
沈黙。
答えは、わかっている。
彼は、この提案に乗ることはないだろう。
数年前とまったく同じように。
数年前とまったく違う理由で。
「やっぱり、嫌われてますか? 僕」
言葉を選んでいるシロエに、少年はあえて見当違いの言葉を口にする。
二度目の誘いを断ることへの罪悪感が、シロエの表情から透けて見えて、少年は嬉しくなる。
この人のお人よしも大概だ。
シロエの肩が少年に触れた。
初めて触れた尊敬する人の手の温もりは、少年にとってひどく感慨深かった。
「本当にそうじゃないよ。ソウジロウ。
……あのね、僕は。
自分の居場所をそろそろ自分でちゃんと作るべきだって判ったんだ。昔あった面倒くさいことから逃げているうちにこんなところまで来ちゃったけれど、僕もちゃんと守る側にならなくちゃいけないって、やっと判った。
自分のギルドを作ったんだ。まだ人数も少ないし、走り出したばっかりだけど。誰かの居場所を作ることで、自分の居場所が初めて生まれるって、やっと判ったんだ」
それは、トドメの言葉。
本当に一緒にいたかった人と、少し道を違えてしまったのだと思い知らされる決定的な言葉。
悲しくはない。
彼は、選んだのだ。
太陽が、あるべき空へ昇ると決めたのだ。
大好きな人が、決意の言葉を口にすることを、自分は手伝うことができたのだ。
悲しい理由なんて、どこにもあるはずがない。
空を見上げれば、満天の星。
その中で、滲んで歪んだ三日月が、言い訳をするように瞬いていた。