第1話 王女様の家出
午前零時、王城が寝静まったころ。ティールヴェール王国の第一王女ニニア・ティールヴェールは護衛も付けず、こっそりと自分の部屋を抜け出そうとしていた。
正確には影に潜む類の護衛がいたが、もちろん本人は気づいていなかった。
ニニアはシーツを繋げて一本の紐状にしたものをベッドの足に固く結ぶ。全力で引っ張って強度を確認し、三階の窓の外へと放り投げた。
「……よ、よし」
唯一持っている動きやすい格好——乗馬服をまとって、銀色のふわふわとした髪を紐で一つにまとめて、両手の拳を握って自分自身を励ました。
そして一歩、また一歩と、右手と右足が同時に出そうな勢いで、開かれた窓へと近づく。
バルコニーではなくわざわざ降りにくそうな窓を選んだのは、ただ単にバルコニーでは目立ちすぎるという理由からだった。
案の定、ニニアは窓の外を覗いてその高さにふらりと後ろへ下がった。
(やっぱり高いです……高すぎませんか、三階ってこんなに高いものでしたか……? いや、でも、今じゃないと……)
ぐっと体に力を入れて、その深みのある青緑色の瞳で前を見据えて。一度、深呼吸をしてから改めて窓の外へと視線をやった。
ニニアにはどうしても今家出しなければいけない理由があった。
ひとことで言うなら、婚約したくないからだ。
国王である父も、王妃である母も、王太子である兄も、そろってニニアを溺愛している。
それに自覚があったからこそ、ニニアはわがままというものを言わないようにしていた。それはもう徹底的に、自分の意志というものをすべて隠す勢いだった。
幸い学ぶことは好きで、王女としての公務も楽しくて、嫌いな食べ物も特になかったから、特に負担には感じていなかった。
そんなニニアを心配した家族は、ある日突然、婚約者候補を連れてきた。どこか毅然とした態度の彼は、ティールヴェール王国で一番の公爵家の長男だった。
最初はよかった。彼はニニアのことを尊重して、ニニアもまた彼を尊重する。そんな理想的な関係性が築けていた。この人となら上手くやっていけると、当時八歳のニニアは確信していた。
それが壊れたのは、二人が出会ってから二年後……ニニアが十歳になったときだった。
きっかけはニニアが自分の誕生日パーティーに来ていたほかの令息に笑いかけたことである。
『ニニア、どうして俺以外の男に笑いかけるの?』
そう言われたニニアは、パーティーの主催側が参加者に笑顔で対応するというのは当然のマナーだと言い返す。だが、何やら婚約者候補の彼には許せないことだったらしい。
その後、何度も同じようなことが続き、もはや恐ろしさすら感じていたが、何年も自分の意志を表に出していないニニアは父王を始めとした周囲の人々に助けを求めることができなかった。
(今日は言えなかったけど、また明日なら……)
問題をとにかく先送りにした結果、とうとう彼と正式に婚約することになってしまったのだ。それが十五歳の誕生日、今日である。
ニニアはしっかりとシーツを握って、そっと窓枠を越える。
(大丈夫、大丈夫ですよ、わたし……!)
体が震えているのは風が冷たいからなのか、それとも極度の緊張からなのか。今のニニアにとって、そんな思考はとにかく邪魔なだけだった。
(ゆっくり、ゆっくりです……)
言い聞かせながら、ニニアはなんとか残り三分の一というところまでやってきていた。
だからこそ、油断してしまった。
紐状になったシーツを握る力をわずかに緩めた瞬間、周囲の木々の葉が大きく揺れる。びゅうびゅうと音を立てて、突風が襲ってきた。
「……ぇ」
突然の浮遊感が、風の冷たさが、月の明るさが、静かな草木の匂いが。どうしてか、そのすべてがゆっくりと離れていく。ゆっくりと遠ざかっていく。
(落ち、る?)
ばちん、と世界が歪んだ。浮遊感はなくなった。
思わず瞑っていた瞼を開ける。先ほどまであったはずのものは、もとより存在していなかったかのように消えていた。
冷たくなんてない、誰かの体温がすぐそばにある。
月の明かりはない、紅く妖しく光る双眸がある。
草木の匂いはない、月光に当てられて咲く花のような微かな甘さがある。
ぱちりと瞬きをしたニニアは、驚いたように自分を見ている紅い瞳を見つめ返した。
「誰、ですか……?」
その疑問に一拍置いてから、ニニアを抱きかかえている男性は答える。
「キルフェド・ノクサングスと申します……?」
彼の耳はどうしてか尖っていて、その長くさらりとした黒髪は夜よりも濃い闇のよう。極め付けに血を思わせる紅い瞳ときた。
まるで、御伽話に出てくる人を襲うヴァンパイアのようだ、と思い当たって、ニニアはそれ以上考えることをやめた。
考えたってこの状況がどうにかなってくれるわけではない。
それならば、やるべきことは一つと決まっている。
「わ、わた……わたしを、た、たべ、たべます、か?」
——命乞いだ。




