(五)お前は自らの頭上に月を引き下ろす
しかし、横丁を二つほど通り過ぎて、いよいよ巡回兵団の駐屯地も間近かと思われた頃。
一つの異変が、このオーセオン──否、この世界、"瀲界"ラウランヌそのものを包み込んでいた。
「な、何だ──!何が起きている」
シダルが慌てる。それもそのはず。
空には二つ目の月──あの世とこの世を繋ぐという、緋色の月──
ルレイナが現れていたのだ。
「静まれ」
ひとつ、艶やかな声が、宵月空に悠と舞った。
それだけで、場の空気は水を打ったように静まり返る。
ああ、本当にこんなことってあるんだ──その時、アリシアは確かにそう思ったという。
現れた人物は、両の手に、血色の刃をした大きな黒鎌──遺物"蛇の舌"だ、と
カイナは総毛立つ思いでその名を反芻する──を担い、夜色のしなやかな長髪をしていた。
立ち居振る舞いに一切の隙がない。それは意識してそうしているというより、
長い年月が自然と、その者をそう磨き上げた結果らしかった。
「"大魔女"シュリエ・モートゥネイ。その者を引き取りに参った」
ぎらと光る金の双眸は、さながら真円の月。
そう、彼女こそが──カイナのかつての師、だった。
「……カイナ、さん?」
最初に場の緊張から立ち戻ったのは、一番幼いアリシアだった。
それに続いて、他の者たちもはっとする。
カイナは腰のポーチに設えられた短剣入れ──"巨鬼の双牙"を収めるためのもの──に手をやり、
それを握りしめると、誰あろう"大魔女"シュリエに相対した。
「それが"緑陰の声"の意志か」
カイナが警戒した声をあげる。
「そうでもあるし──何より、私自身の選択だ。お前はまだ、私のものだからな」
妖艶な笑みが零れる。死臭さえしてきそうだ。それはまるで──密林の奥に咲く、巨大花のような。
「どうしろというのだ」
「戻れ。疾く、な。今はまだ、事を荒立てる時ではない。今日はそれだけを言いに来た」
その言葉を聞き、心持ち気を緩めたカイナだったが、
「だが──面白い。その"遺物"は、頂戴しておこう」
そう言って、アリシアの首めがけて"蛇の舌"を水平に構えた。
「ッ!!」
場の空気が、急激に緊張感を帯びる。
なるほど、確かに。
魔女が宝を目にして、おいそれと引き下がるはずもなかった。
「安心しろ、命は取らん。今は──な」
そう言って一振りすると、アリシアの首と、ゴブレットを繋いでいた呪い紐を易々と断ち切った。
華蘭、と軽い音を立て、ゴブレットが地を転がる。
そして、それはそのまま、"大魔女"ジュリエの足元に滑り込んだ。
彼女は興味深げに、腰を折ってそれを拾い上げると、束の間、カイナ達を相手に寸評を始めた。
「成る程。──ごく古い年代の成立だな。二千の年月は経ているだろう。確かに──あの、シルバリオとかいう男を、使い潰しただけのことはあった」
見ていたのか──カイナの首筋を、冷たい汗が伝う。
「か」
と。
「返して……!!」
少女が。あらん限りの力を振り絞って、己の幾倍も強い相手に、懸命に立ち向かっていた。
こういう時に動けるか否かが、その後の趨勢を期すると言っても、過言ではない。
次いで、金縛りが解けたかのように、シダルも、アイダも動き出す。
めいめいに──シダルは槍、アイダは拳──獲物を構え、ようやく場の空気が煮詰まって来た。
カイナも応じて、遺物"巨鬼の双牙"を、由良と抜剣する。
「そこまでだ。放言までは許すが、その子に手を出したとあっては」
その瞳が、淡き光放つ浄眼が、色濃き闇を凝、と睨める。
「許す訳にはいかない」
ここに、オーセオン第二の戦端が開かれる。




