表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/40

40 最終話 静寂の底で


 ハートウェル区の大通りから一本外れた小道は、夜になると人の気配が薄れる。

 霧が街灯をぼかし、石畳には青白い光が溜まっていた。


 その路地の奥、古い木造建物の壁に、くすんだ板に焼き刻まれた小さな看板がひっそりと揺れている。


 ――《ハロウズ・エンド》


 扉を押すと、外とは違う、落ち着いた温度の空気が肩に降りてくる。


 照明は、天井の低い梁に吊られたランプと、カウンター奥で静かに灯る琥珀色のガラス瓶の光だけ。

 棚にはバーテンダーがこだわって集めた蒸留酒が整然と並び、グラスの触れ合う音、紙の擦れる小さな音だけが空気を満たしている。


 深いモスグリーンの壁、磨き込まれた木のカウンター。

 奥には革張りの小さなボックス席が並ぶ。


 その席の一つで、エドガーとルシアンは向かい合って座っていた。

 琥珀の液体に沈む氷が、カランと控えめな音を立てる。


「何か動きはあったのか?」


 ルシアンは視線を落とし、声を低くした。


 客はまばら。

 裁定院の法務官、大学院生、教授――必要以上に話さず、静けさだけが守られる店だ。


 エドガーは一口だけ飲み、穏やかに笑った。


「……何もない」


 ルシアンはわずかに眉をひそめる。


「それはそれで怖いな」


 エドガーは肩を竦めた。


「見くびられているのか。

 それとも、水面下で何かが進んでいるのか……。

 一つだけ確かなのは――踏み込んだ以上、最後までやるということだ」


 ルシアンは小さく息を吐き、グラスを軽くエドガーのグラスへぶつけた。

 そして一息に飲み干す。


「……そうだな」


 群青と琥珀の瞳が交わり、二人はふっと笑った。


「なぁ、ここで初めて会った時のこと、覚えてるか?」


「覚えているよ」


「お前、俺を見て笑ったことも覚えてるか?」


 エドガーは小さく首を傾けた。


「……覚えていないな」


「嘘だろ?」


「体格のいい人だと思った」


「それだけ?」


「それだけ」


 エドガーが笑うと、ルシアンは額を押さえてため息をつく。


 ――傷だらけの人だと思った。


 ――そのぶん、誠実で慎重で、……それでも歩こうとする人だと思った。


「……言わないけどね」


 ルシアンが顔を上げる。


「なんか言ったか?」


「何も。……もう一杯飲む?」


 静かな夜。

 オイルランプの明かりが、二人の手元を柔らかく染めていた。


---


 バーを出ると、雪は止み、息の詰まるような濃い霧が街を覆っていた。

 石畳を打つ足音はくぐもり、ガス灯が濡れた地面に鈍い光を落とす。


 エドガーは外套の襟を押さえ、一人、歩いていた。

 向こうから、背の曲がった浮浪者のような男がよろけながら近づいてくる。


 エドガーが避けて歩幅を変えた瞬間、男がふらつき――軽く肩が触れた。


「法は美しい。

 しかし、秩序はそれ以上に脆い。

 だから、守ってやらねばならない。

 ――君も、もう分かっているだろう?」


 澄んだ低い声。

 覗いた灰の瞳は、理知の光でエドガーを射抜いた。


 空気が一瞬、冷たく固まる。


 男はまたふらつきながら霧の向こうへ消えていく。


 エドガーは静かに帽子へ手を添えた。

 霧の中を離れていく影。

 ガス灯の光を受け、外套の端に縫われた金糸の紋章が一瞬だけきらりと光った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ