40 最終話 静寂の底で
ハートウェル区の大通りから一本外れた小道は、夜になると人の気配が薄れる。
霧が街灯をぼかし、石畳には青白い光が溜まっていた。
その路地の奥、古い木造建物の壁に、くすんだ板に焼き刻まれた小さな看板がひっそりと揺れている。
――《ハロウズ・エンド》
扉を押すと、外とは違う、落ち着いた温度の空気が肩に降りてくる。
照明は、天井の低い梁に吊られたランプと、カウンター奥で静かに灯る琥珀色のガラス瓶の光だけ。
棚にはバーテンダーがこだわって集めた蒸留酒が整然と並び、グラスの触れ合う音、紙の擦れる小さな音だけが空気を満たしている。
深いモスグリーンの壁、磨き込まれた木のカウンター。
奥には革張りの小さなボックス席が並ぶ。
その席の一つで、エドガーとルシアンは向かい合って座っていた。
琥珀の液体に沈む氷が、カランと控えめな音を立てる。
「何か動きはあったのか?」
ルシアンは視線を落とし、声を低くした。
客はまばら。
裁定院の法務官、大学院生、教授――必要以上に話さず、静けさだけが守られる店だ。
エドガーは一口だけ飲み、穏やかに笑った。
「……何もない」
ルシアンはわずかに眉をひそめる。
「それはそれで怖いな」
エドガーは肩を竦めた。
「見くびられているのか。
それとも、水面下で何かが進んでいるのか……。
一つだけ確かなのは――踏み込んだ以上、最後までやるということだ」
ルシアンは小さく息を吐き、グラスを軽くエドガーのグラスへぶつけた。
そして一息に飲み干す。
「……そうだな」
群青と琥珀の瞳が交わり、二人はふっと笑った。
「なぁ、ここで初めて会った時のこと、覚えてるか?」
「覚えているよ」
「お前、俺を見て笑ったことも覚えてるか?」
エドガーは小さく首を傾けた。
「……覚えていないな」
「嘘だろ?」
「体格のいい人だと思った」
「それだけ?」
「それだけ」
エドガーが笑うと、ルシアンは額を押さえてため息をつく。
――傷だらけの人だと思った。
――そのぶん、誠実で慎重で、……それでも歩こうとする人だと思った。
「……言わないけどね」
ルシアンが顔を上げる。
「なんか言ったか?」
「何も。……もう一杯飲む?」
静かな夜。
オイルランプの明かりが、二人の手元を柔らかく染めていた。
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バーを出ると、雪は止み、息の詰まるような濃い霧が街を覆っていた。
石畳を打つ足音はくぐもり、ガス灯が濡れた地面に鈍い光を落とす。
エドガーは外套の襟を押さえ、一人、歩いていた。
向こうから、背の曲がった浮浪者のような男がよろけながら近づいてくる。
エドガーが避けて歩幅を変えた瞬間、男がふらつき――軽く肩が触れた。
「法は美しい。
しかし、秩序はそれ以上に脆い。
だから、守ってやらねばならない。
――君も、もう分かっているだろう?」
澄んだ低い声。
覗いた灰の瞳は、理知の光でエドガーを射抜いた。
空気が一瞬、冷たく固まる。
男はまたふらつきながら霧の向こうへ消えていく。
エドガーは静かに帽子へ手を添えた。
霧の中を離れていく影。
ガス灯の光を受け、外套の端に縫われた金糸の紋章が一瞬だけきらりと光った。




