31 港に落ちた影
フェルンウォルド北方の小港〈ヘルミナ桟橋〉は、昼間は鉱物輸送の拠点だが、夜はわずかな灯りしか残らない。
暗く沈んだ海と、薄い霧の境界に、船の影がゆらりと揺れていた。
ルシアンは黒い外套の襟を上げ、積荷置き場の影へ身を滑らせる。
「エドガー、足元に気をつけろ。滑る」
「わかった」
エドガーは雪の積もった埠頭を慎重に歩く。
飛行帽に押し込まれた黒髪、そこから落ちた数本が風に揺れ、群青の瞳がわずかな灯火を反射していた。
ここには、影しか落ちていない。
息が白くなって上るが、それさえ闇に飲まれ、肉眼ではほとんど見えなかった。
人の気配は少ない。
だが、遠くで灯火がちらちらと揺れているのは確かに見える。
二人は、港の見張り塔へ近づく。
灯りはほとんどない。
だが、塔の外壁にかけられた木板を見た瞬間、エドガーは低く息を呑んだ。
「……ルシアン。見て」
ほとんど吐息だけの声で、呼びかける。
木板に押されていたのは、赤く潰れた封蝋。
《軍監査局》の印章。
「……監査局の印章が港になんかあるはずない。本来は軍の監査施設にしか置かないものなのに」
「誰かが“監査局の権限”を港で行使してるんだよ。――正規の命令ではない」
エドガーの声がひどく低い。
港風に乗った潮の匂いが、どこまでも冷たく感じられた。
二人がそのまま倉庫群へ近づくと、入口近くで影が動くのが見えた。
軍服。
だが、その胸に縫われているのは──
「……灰羽隊の紋章」
ルシアンの眉が一瞬だけ震える。
「あれは……偽物だ。“羽の角度”が違う」
エドガーが顔を上げると、灯火の映り込んだ琥珀の瞳と目が合った。
「つまり、“灰羽隊を名乗る別部隊”……密輸護衛のための擬装部隊だね」
エドガーの囁きに、ルシアンは短く頷いた。
「なるほど。“灰羽隊はまだ存在している”と思わせるための影武者か」
二人は巡回の死角を読み取り、倉庫の裏手へ滑り込んだ。
倉庫に入ると、薄い油と塩の匂いが鼻を刺した。
木箱がずらりと積まれ、そのひとつに“輸出伝票”が貼られている。
エドガーは息を潜め、指でそっと伝票をめくった。
「やっぱり……」
彼の声が震えた。
「宛先が“中立港コード”になってる。でも、番号の組み合わせが不自然だ」
「不自然?」
「“中立港経由エッセン再出荷ルート”に使われる特殊符号……。これは“敵国エッセンへの再輸出”を示す“二段階偽装記号”だよ」
ルシアンは静かに息を吐いた。そして、彼もその伝票を覗き込む。
「つまり、これで確定か。“国家機密を敵国に売っている”」
エドガーは指先でコードをなぞると、迷うことなく伝票束を箱から剥がした。
「うん。……もう誤魔化しようがない。これはただの密輸じゃない。“国家の裏切りだよ”」
伝票束を素早く鞄へ滑り込ませる。
揃って踵を返し、倉庫を出ようとした――そのとき。
「おい。そこ、誰だ?」
巡回の声。
ルシアンは咄嗟にエドガーの肩を掴み、物陰へ引きずり込む。
足音は二人のすぐ脇を通り過ぎ……止まった。
「見ろ、伝票が一部抜かれてる」
「束の枚数が合わない……誰かが触った跡だ」
「報告しろ。侵入者がいる!」
エドガーは自分の口元を手で覆い、ルシアンは小さく呟いた。
「……くそ、文書検査官までいるのか……」
「すぐに露見するなんて……」
エドガーが表情を引き締める。
「……ルシアン、逃げよう。ここはもう……」
その瞬間、遠くの見張り台から笛が鳴った。
霧が、動く。
侵入者を知らせる警報。
港中の息が一瞬で“狩る側”のそれに変わる。
港全体がざわりと動き出す音がした。
ルシアンは拳を握り、わずかに笑った。
「……エドガー」
「なに」
「走れ」
その声は、戦場の男の声。
エドガーも考える余地もなく、影から抜け出す。
二人は、雪の港を駆け出した。




