20 沈黙が呼び覚ます声
崩れかけた兵舎の扉の前で、ルシアンはひとつ深く息を吸った。
冷え切った木造建物は、まるで巨大な獣が抜け殻だけ残して死んだように沈黙している。
「足元、気をつけろ」
先に踏み込んだルシアンが短く警告する。
軋む床板。
長い時間、誰も歩いていないはず――だが、空気にどこか“人の気配”が残っていた。
「……ルシアン。ここ、誰かが最近歩いた跡がある」
灰色の床板の上には、薄く積もった雪と埃が“線”を描いていた。
重心のかけ方の違う複数の歩幅。
ひと月以内の痕跡。
ルシアンはしゃがんで指でなぞる。溝に落ちた雪はまだ凍りついていない。
「軍靴じゃないな。民間用の防寒靴だ。しかも……急いでる」
「民間人がこんな場所へ来る理由が思いつかない」
「俺もだ。“潜伏部隊”の線が濃いな」
二人は慎重に奥へ進む。
潰れかけた共同寝室、倒れたロッカー、黒く煤けた古いストーブ。
かつて兵士たちが火を囲んでいた場所は、いまや風の通り道になっていた。
ルシアンが奥の事務棚を探っていた時、指先が紙の角に触れた。
「……これは?」
棚の隙間に押し込まれていた紙片。
湿気で端は黒ずみ、文字はかすれていたが、中央の符号だけは残っている。
《FW–N11:ARA / GNA–3:EID》
隣で覗き込んだエドガーが眉を寄せる。
「俺のいた頃の形式とも違う。一世代……いや、それ以上前の形式かも」
「古語が混じってる可能性が高い。一つ、心当たりはある。宿に戻ったら検証しよう」
「あぁ」
ルシアンが紙を軽く傾けると、薄雪がぱらりと落ちた。
筆跡は妙に整っていて、書き手の個性がほとんどない。
――訓練された誰かの手だ。
エドガーはそれを受け取って、そっと内ポケットにしまった。
一通り探索を終えた二人は、兵舎を後にする。
雪の上に残った二人の足跡へ、森の風が静かに新しい雪を降らせていた。
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宿で荷物を置いたあと、二人は食事のために街へ出た。
家々の屋根は白に沈み、煙突の煙だけが唯一の色。
薪の匂い、湿った木と鉄の匂い――この寒冷地特有の空気が肺の奥まで染み渡る。
中央通りは狭く、両脇には雪かきの山。
石造りの家々の窓は寒さを防ぐため二重窓で、そこから温かな橙色の灯りがこぼれていた。
行き交う人々の視線が、どこか刺さる。
エドガーは無意識に自分の服に触れた。
――服装のせいか?
――それとも、別の理由か?
ルシアンにも視線が向いている。
決して歓迎的ではない視線だったが、本人は気にも留めていない。
「よく通ってた食堂がある。スープがうまい。……ちょっと早いが、行くぞ」
「うん。温かいものがほしい」
街外れにある食堂兼酒場。
昼は炭鉱夫や職人たちで賑わい、夜は酒場に変わる。
石炉で煮込むスープと焼きパンが名物だ。
店が見え始めたその時、横から飛び出してきた少年がルシアンにぶつかった。
「わっ!」
「おっと……大丈夫か?」
五歳ほどの少年は尻もちをついたが、ルシアンの差し出した手を無視して立ち上がる。
そしてルシアンを、次にエドガーを、鋭く睨むように見つめる。
何も言わずに走り去った。
「こら! 待ちなさい!」
声を上げて追ってきた女性。
その目がルシアンに向いた瞬間、表情が凍る。
「……ルシアン……?」
彼女の声は震えていた。
だがルシアンは、まるで聞こえないふりをして背を向けた。
「こっちだ。行こう」
「……え?」
エドガーが呆然と振り返れば、女性はまだ立ち尽くし、こちらを見ていた。
その視線に気づかないふりをして、ルシアンは酒場の扉を押し開ける。




