18 森辺の宿にて
森に近い街の外れに──
古びた木造の宿屋《グレイフィールド亭》がある。
木の壁は年季が入り、風雪に削られて銀灰色になっていた。
軒先には小さなランタンが吊られ、霧の中でゆらゆらと揺れている。
扉を開けた瞬間、外の凍える空気とは別世界の温もりが頬を撫でた。
古い木材の匂いと、暖炉で燃える白樺の甘い香りが混ざり、懐かしいような優しい空気が広がっていた。
受付台の奥で、白髪まじりの主人が穏やかに微笑んだ。
「まぁまぁ、ようこそ」
「二人。前払いですか? 夕食は用意してもらえますか?」
ルシアンが手際よく受付を済ませる中で、エドガーは物珍しそうに中を見渡す。
玄関ホールは狭いが清潔で、壁には色褪せた風景画と、宿の主人が若い頃に撮ったらしい古い写真が飾られていた。
床に敷かれた手織りのラグは擦り切れているものの、冬の足音を吸う柔らかさがある。
宿屋の主人の案内に従い、二人は上階へ。
階段は少し軋むが、木の温かさがしっかり手に残った。
二人の泊まる部屋には、小さな机と羽根布団のベッドが二台。
主人が手際よく暖炉に火を入れる。
ルシアンは彼に薪や換気口のありかを聞いているが、エドガーは椅子に座って黙ってそれを眺めていた。
正直、何をしたらいいのか分からない。
主人が湯を持って来ると言い残して一度去ると、ルシアンはエドガーをじっと見た。
「さすが手慣れているな」
エドガーが感心しているとルシアンは眉をひそめた。
「そういえばお前は暖炉に火を入れたことがないと言っていたな」
「うん。いつもマッケンジー夫人かピップがやってくれる」
「そもそも薪に触ったことはあるか?」
「直接は触ったことはないな」
「洗濯はしたことあるか?」
「ないよ」
ルシアンは息を飲んだ。
「二部屋にするか同部屋にするか悩んだが、同部屋にしておいて良かったと心から思う」
「そう?」
「……男爵家の三男坊なんだもんな。……本当にこれだから貴族は。
とりあえず、雪に濡れた服や靴は脱げ。俺の真似しろ、いいな?」
「……うん」
上着をフックに掛け、濡れた靴を暖炉の前に置き、マフラーと手袋を乾かす。
手際よくこなすルシアンの見様見真似でエドガーも彼の後を追いかける。
そうこうしていると、扉が叩かれた。
エドガーが出ると、宿屋の女将が湯の入った桶を持って立っていた。
「ありがとうございます」
「まぁ! 都会のお兄さんは綺麗な顔をしているんだね」
「……。ありがとう」
曖昧に笑み、桶を受け取って扉を閉める。
「湯が来たか。布を浸して体を拭いてあったまれ」
「……うん」
エドガーは桶を机の上に置いた。
そして、ぽつり。
「ルシアン……。僕はそんなに都会人ぽいかな……」
ルシアンはたまらず吹き出した。
「ぷっ……。そりゃ仕方ないだろう!」
「……僕は君の足手まといになってしまいそうだ」
「既に足手まといになってる。大丈夫だ。ちゃんと面倒見てやるから」
愕然とするエドガーの背をルシアンは叩いた。都会ではこんなエドガーはまず見れまい。
「飯食ったら作戦会議だ。元気出せ」
「……うん」
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宿の食堂は、暖炉の火とランプの灯りだけで照らされていた。
木の梁に吊られた干しハーブが、煮込み料理の湯気によってふわりと香る。
十数席のテーブルの上には素朴な陶器の皿が並び、静かに酒を飲む鉱夫たちの低い話し声が、部屋の隅でくぐもったように響いていた。
エドガー達は向き合って食事をとっていた。
鹿肉の煮込み、じゃがいも、自家製パン、温かい麦酒。エドガーはハーブティー。
「あたたかい……。涙が出そうだ」
「都会の坊っちゃんの口にも合うか?」
煮込みを口に入れようとしていたエドガーは手を止めてルシアンを見る。
「君は意地悪だな」
「今さらか?」
「君はいつもは優しいよ。口は悪いけど」
煮込みを食べきると、ハーブティーの入ったカップを両手で持ち、エドガーは指先を温めた。
ほうっと息を吐いているエドガーを横目に、ルシアンは近くにいた宿屋の主人を見る。
「ご主人、近くに駐屯地跡があっただろう? 今はどうなってるんだろう」
老いた主人は、その白い眉を僅かに下げた。
「駐屯地跡? あそこへは、今は誰も行きませんよ。
馬車道は半分崩れてますからね。
行きたいんですか? ヒースが途中までなら送っていけますが……」
ルシアンとエドガーが顔を見合わせる。
ルシアンは愛想笑いを浮かべて、もう一度主人を見た。
「途中まででいい。送ってもらえるか?」
「はいはい。いいですよ。
麦酒のおかわりはいかがです?」
「もう一杯もらおうかな」
「お持ちしますね」
愛想よく主人が笑って去っていく。
「途中から雪の中を歩くことになった。頑張れよ、エドガー」
エドガーは小さく息を吐いて、静かに頷いた。




