16 休暇の名を借りて
エドガーが汽車に乗る前日の夕刻。
上級法務官マルコム・ヘインズの部屋では、小ぶりな暖炉がぱちりと音を立てていた。
壁には長年の部下たちとの写真が飾られており、冬の王立裁定院の中でも、この部屋だけは不思議と家庭の温もりがあった。
だが今、その温かい部屋の主は、執務机に座ったまま目を見開いていた。
机の向こうに立つのは、エドガー・レイブンズ。
「……なんだって? もう一回言ってくれるか?」
マルコムが抱える法務官の中で最も若く、最も優秀な男は、微塵も表情を揺らさずに言い放った。
「明日から、長期休暇をください」
「なぜだ!?」
「必要だからです」
「いやいや、“必要だから”って……なぜだ!?
法務官が長期休暇を取るのは異例なんだぞ!?」
「“優秀な者には、上級法務官の一存で休暇を与えられる”と伺いましたが」
「そ、それは……そうだが」
「僕は“優秀な者”に含まれませんか?」
マルコムは開いた口をしばらく閉じられなかった。
この男を“優秀”と言わずして、誰を優秀と呼べというのか。
本来、法務官は三十歳前後で就任するのが一般的だ。
だがエドガーは、マルコムの推薦と会議の承認によって異例の抜擢を受け、史上最年少の二十五歳で裁定試験を突破し法務官となった。
今や彼は中位法務官、そして——裁定院最年少の法務官。
“沈黙の理法官”。
そう呼ばれる男だ。
マルコムはハッと我に返り、勢いよく席を立った。
「お前……! あの“手を引け”と言った案件、まさかまだ続けてるのか!?」
エドガーはすっと視線をそらした。
その瞬間、マルコムは声にならない悲鳴を飲み込む。
ブルーのウエストコートに金鎖の懐中時計。
白いシャツに白のクラヴァット。
冬の光を上品に弾くその姿が、今はやけに腹立たしかった。
「悪いことは言わん。手を引け。……な?」
エドガーの群青の瞳が、じっとマルコムを見据える。
「では、僕は心神喪失状態にありますので、長期休暇をいただきたいと思います」
「どう見てもお前はピンピンしてるだろうが!」
「心の病は見た目にはわからないものだと思いますが」
「いやいや……っ、お前……!」
マルコムが頭を抱えかけたその時、エドガーの手が机の上にすっと伸びた。
掌に乗っていたのは、王立裁定院法務官の徽章。
「それでは、お返しします」
――この男、本気だ……!
マルコムは机に両手をつきながら、細く深い息を吐いた。
顔を上げると、長年、実の息子のように可愛がってきた男の顔がある。
彼はただ静かで、揺るぎない。
マルコムは人差し指を立てた。
「……一ヶ月だ。一ヶ月だけ休暇をやる。休暇中は徽章は外せ。
だが、それは持っていけ。必ずここへ帰ってこい。
いいな、エドガー」
「ありがとうございます」
エドガーは深く頭を下げた。
「その間、ピップは私が預かる。……それはお前からピップに伝えてやれ」
「かしこまりました。重ねて感謝いたします」
顔を上げたエドガーの表情は一見無表情だったが、長い付き合いのマルコムにはわかる。
満足と、覚悟の色が、確かにそこにあった。
「失礼します」
青みを帯びた黒髪を揺らして、彼は部屋を出ていく。
マルコムが抱える、いや、裁定院全体でも最も若く、最も優秀で——そして最も扱いにくい男。
マルコムは糸が切れたように椅子へ腰を落とし、頭を抱えた。




