12 霧の中の警告
翌朝、オルドンの石畳は濡れ、霧が低く地面を這っていた。
淡い粉雪がわずかに舞い、王立裁定院の石灰岩は青白く光る。
光そのものが凍りついたような、静かな朝だった。
黒い外套の襟を立てて歩くエドガーは、裁定院の鉄門を前に、ふと足を止めた。
槍を肩に掛けた巡回騎士たちがゆっくりと近づいてくる。
灯されたガス灯の橙が揺れ、その光を甲冑が淡く反射した。
――その列の先頭近く。
見知った顔がいる。
エドガーの黒髪を認めた瞬間、アドリアン・ハートレーはほんのわずかに表情を引き締めた。
仲間に短い指示を出し、巡回の列をそのまま進ませる。
そして、彼はエドガーの前へ一歩進み、小さく目礼した。
エドガーも静かに礼を返す。
次の瞬間、アドリアンはそっと顔を寄せ、声を極限まで落とした。
「……父より言伝があります。
“どうか、これ以上深入りなさらぬように”と」
「軍務卿が……?」
エドガーが問い返すと、アドリアンは人差し指を口元に添え、周囲に目を走らせてから、ほんのわずかに頷いた。
「我々と貴方が最も警戒すべき“敵”は……
父の、すぐ近くにいます」
エドガーの群青の瞳がかすかに揺れる。
アドリアンは視線をそらさず、しかし声は震えるほど低い。
「名は……言えません。
どこに耳があるか、分からない」
冷たい霧が二人の頬をかすめる。
「父は申しております。
“これ以上は、もう……守って差し上げられない”と」
アドリアンは一歩退くと、どこか淋しげに、しかし誠実な微笑みを向けた。
「レイブンズ法務官殿。……新しく婚約が整いました」
「そうですか。おめでとうございます」
エドガーは穏やかに微笑み、頭を下げた。
かつてエドガーは、アドリアン・ハートレーと一人の令嬢の婚約破棄の裁定を下した。
彼に非があったからではない。
令嬢の身を守るため、ハートレー家に真実を告げず強行された“破棄”だった。
アドリアンは静かに続ける。
「今度こそ……守れる自分でありたいのです。
前の婚約が破棄された本当の理由は、今も知りません。
ですが――貴方が彼女を守ってくださったのだろう、と……父も私も、そう思っています」
遠くで巡回隊の騎士たちがアドリアンの名を呼ぶ。
彼は背筋を正し、深く一礼した。
「どうか慎重に。
……父の願いは、それだけです。
そして――私も同じ思いです」
言い残し、アドリアンは霧の中へ戻っていった。
エドガーはその背を長く見つめ、冷えた朝の空気の中、静かに息を吐いた。
法務官室に入ると、ふわりと温かな空気が舞った。
ストーブの上の薬缶から湯気が立ち上る。
ピップが書類を整え、紅茶を用意している。
「おはよう、ピップ」
「おはようございます、サー」
エドガーは外套をかけ、席につくと紅茶を一口飲んだ。
細く長い息が漏れる。
鍵付きの引き出しから、昨日の書類束を取り出す。
――心当たりがある。
“警戒すべき敵は、父のすぐ近くにいます”
その名を思い浮かべた瞬間、背筋が冷えた。
――エイドリアン・レンドール侯。軍務省副卿。
本人と直接関わったことはない。
だが、これまで何度か、彼の影だけが“見えた”ことがある。
裁定院の内部でも、まるで伝説のように囁かれる名だ。
“姿を見せない真の黒幕”。
“決して手を出してはいけない存在”。
――“影を歩く人”とは……彼のことなのか?
――異様な速さの“調査停止命令”。
――ヨアヒム・クラウスの不審死。
――隊員たちの怯え。
――ヴァイナス商会と軍の補給コードの一致。
すべてにレンドール侯の影が落ちている。
これは――想像以上に危険な綱渡りだ。
書類を持つ手がわずかに震える。
エドガーは額を押さえ、静かに息を整えた。
窓の向こうでは、霧がゆっくりと街を覆い尽くしていた。




