第97話:最強の運び屋を呼べ
ズズ……ズズズ……。
窓の外から聞こえてくるのは、巨大な何かが粘液の中を這いずり回るような、不快極まりない音だった。
ダンジョンB4F『迷わずの湿地』。
視界の全てを茶色と深緑のグラデーションが支配するこの階層は、文字通りの「泥沼」だ。
改造されたセンター要塞は、キャタピラが泥を噛むたびに、巨大な胃袋が痙攣するような不規則な振動を船内に伝えてくる。
食堂の空気は最悪だった。
湿度は九〇パーセント越え。壁の配管からは結露した水滴が垂れ、積み上げられた段ボールは湿気を吸って、濡れた子犬のような情けない匂いを放っている。
「…………」
食堂の長机、その上座。
俺、黒鉄ジンは、まるで即身仏になる直前の高僧のように、無の表情で鎮座していた。
目の前には、コップ一杯の水。
ただの水だ。
だが、俺がそのコップに手を伸ばした瞬間、世界はスローモーションになり、三つの影が超音速で動いた。
「――ストォォォォップ!!」
ガシィッ!
俺の右手首が、誰かの手によって掴まれ、空中で静止させられる。
犯人は、幽霊のマシロだ。彼女は必死の形相で、俺の手首を万力のように締め上げていた。
「な、何してんの……?」
「ジン、ダメ! その角度は手首の腱鞘に負担がかかるわ! 今のあなたの筋力低下率を舐めないで!」
「コップ持つだけで腱鞘炎になるほどヤワじゃねえよ!?」
「いいえ、今のジンは『豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ』レベルの虚弱体質なんだから! はい、口を開けて!」
マシロが人差し指を振ると、コップがポルターガイスト現象でふわりと浮き上がり、俺の口元まで自動追尾してきた。
介護だ。これは完全なる介護だ。
「マシロさん、甘いです。水圧による胃壁へのショックを考慮していません」
横から割り込んできたのは、白衣を着たネオンだった。
彼女は片手に温度計、もう片方の手に謎のビーカーを持っている。
眼鏡の奥の瞳は、狂信的な科学者のそれだ。
「現在の水温は12度。これをこのまま摂取すれば、内臓温度が低下し、免疫力が0.03%下がる可能性があります。よって、マイクロ波で加熱処理を行い、体温と同じ36.5度に調整しました。さらに、消化吸収を助けるために重曹とクエン酸を黄金比で配合、微発泡させることで喉越しを――」
「炭酸水になってんじゃねーか! 俺は普通の水が飲みてえんだよ!」
「わがまま言わないでください、ボス。全ては生存率を上げるためです」
ネオンは聞く耳を持たない。
そして、トドメとばかりに、背後からピコが忍び寄ってきた。
その手には、轟音を立てて回転する業務用ミキサーが握られている。中では、緑色とも紫色ともつかないドロドロの液体が渦を巻いていた。
「はいはい、おじいちゃん。固形物は疲れちゃうでしょ? 今日のランチはこれよ。ステーキとサラダとライスを、消化酵素と一緒にミキサーにかけておいたわ。名付けて『飲むステーキ定食・完全流動食ver』」
「ディストピア飯かよ! 見た目が完全にゲロじゃねーか!」
「失礼ね! 味は……たぶん、口の中で混ざった時と同じよ。さあ、ストローで吸って。肺活量のトレーニングにもなるわよ」
ズズッ、と極太のタピオカ用ストローを差し出される。
俺は天を仰いだ。
天井のシミが、嘲笑うピエロの顔に見えた。
「……お前ら、いい加減にしろよ。俺は病人じゃねえ。余命半年って言われただけで、今すぐ死ぬわけじゃ――」
「「「死にます!!」」」
三人の声がハモった。
マシロが涙目で食い下がる。
「だって、ヤクモ先生が言ってたもの! 『ジンの体は、絶妙なバランスで積み上げられたジェンガだ。風が吹けば崩れるし、くしゃみをすれば爆散する』って!」
「あいつの比喩はいつも大袈裟なんだよ!」
「大袈裟じゃないわ! 背中の炭化だって進行してるし……とにかく、B100Fに着くまでは、指一本動かさせないから! あなたは『お姫様』なの! 分かった!?」
「誰が三十路のおっさん捕まえてプリンセスだ!」
ガンッ!
俺はテーブルを叩いて立ち上がろうとしたが、即座にマシロの念動力で椅子に縫い付けられた。拘束プレイである。
「……カッカッカ。愛されてんなぁ、ボス」
厨房の奥から、呆れたような笑い声が聞こえた。
中華鍋を振っていたのは、新入りのワン・チャンだ。
彼は燃え盛る炎の前で、器用に炒飯を宙に舞わせながら、この地獄絵図を高みの見物と決め込んでいる。
「ワン、笑ってねえで助けろ。このままだと、俺は過保護という名の綿布団で窒息死する」
「いやぁ、俺は新入りなんでね。家庭の事情には口を挟まねえ主義なんだ。それに、見てみろよ」
ワンが顎でしゃくった先には、ピコの背中のリュックがあった。
透明なカプセルの中で、オタマジャクシになったレオが、プルプルと震えながら酸素ボンベの気泡を追いかけている。
『……ジンよ。諦めるのだ。女たちの慈愛は、時にドラゴンの鱗よりも強固だ。我もかつて、風邪を引いた時に母上から「ネギを尻に刺せば治る」と言われ、抵抗虚しく刺されたことがある。抵抗すればするほど、彼女たちの結束は固まるぞ』
「説得力が違いすぎるんだよ、元騎士団長!」
俺は深いため息をついた。
吐き出した息すら、ネオンによって成分分析されそうな勢いだ。
現状、センター要塞は泥沼に足を取られ、時速5キロ以下まで減速している。
エンジンの回転数は上がりっぱなしで、オーバーヒートも時間の問題だ。
このままでは、B100Fにたどり着く前に、俺がストレスでハゲるか、燃料切れで立ち往生するかの二択だ。
「……あー、クソ。ラチが開かねえ。ネオン、通信機貸せ。レッカー呼ぶ」
「レッカー? JAFでも呼ぶんですか? この地下世界で?」
「JAFよりタチの悪いババアだよ。この辺を縄張りにしてる『運び屋』がいるんだ。金には汚ねえが、腕は確かだ」
俺が手を差し出すと、ネオンは一瞬躊躇し、マシロと顔を見合わせた。
「ダメです。通信機のダイヤルを回す作業は指先に微細な振動を与え、末梢神経を傷つける恐れがあります」
「過保護もそこまでいくとホラーだぞ!?」
「通信なら私がやります。相手の周波数は?」
「……教えられるか。そのババアはな、気難しいんだ。俺の声じゃなきゃ応答しねえし、下手に他人が出ると、対戦車ミサイルが飛んでくる」
これは嘘ではない。
あのババア――ドロシー婆さんは、重度の人間嫌いだ。
俺は隙を見て、懐から紫色の発煙筒を取り出した。
かつて、俺がまだ駆け出しの掃除屋だった頃、彼女から渡された「緊急用」の狼煙だ。
「あっ、ジン! 何持ってるの!?」
「悪いな、マシロ。俺は『仕事』がしてえんだよ!」
俺はマシロの念動力が発動するコンマ一秒前に、食堂の窓を開け放ち、ピンを抜いた発煙筒を外の泥沼へと放り投げた。
プシュウゥゥゥゥ……!
紫色の毒々しい煙が、湿った空気の中に立ち昇っていく。
「あーあ、捨てちゃった。……で、誰が来るのよ? そんな煙一つで」
ピコが冷めた目で窓の外を覗き込んだ、その時だった。
ズズ……ン。
遠くで、空気が震えた。
いや、空気ではない。地面そのものが、悲鳴を上げている。
ドォォォォォォォォォン!!
突如、泥の海がモーゼの十戒のごとく真っ二つに割れた。
水平線の彼方から爆走してくるのは、もはや車両と呼ぶには大きすぎる、鉄と暴力の塊だった。
「な、なな、何あれェェェ!?」
マシロが絶叫するのも無理はない。
泥煙を巻き上げて突進してくるその物体は、全長30メートルを超える超大型トレーラーだ。
だが、ただのトレーラーではない。
運転席の周りには、廃材やマンホールの蓋、ガードレールなどが無造作に溶接され、まるで継ぎ接ぎだらけのフランケンシュタインのような形相をしている。
屋根には火炎放射器のノズルが並び、フロントバンパーには血痕のこびりついた巨大な回転ノコギリが、ギョイイイインと凶悪な音を立てて回っていた。
**重装甲輸送車両『クイーン・コング号』**。
この泥沼を庭とする、最凶の運び屋の愛車だ。
「回避行動! 衝撃に備えてください!」
ネオンが叫ぶが、遅い。
クイーン・コング号は減速するどころか、さらに黒煙を噴き上げて加速し、センター要塞の真横にドリフトしながら幅寄せしてきた。
ガガガガガガガッ!!
金属同士が擦れ合う嫌な音が響き、火花が窓の外で散る。
強引な「接舷」だ。
「ヒャッハァァァァ! シケたツラして漂流してんじゃねえぞ、そこのポンコツ船ェ!」
拡声器を通した、ガラガラのダミ声が響き渡る。
プシューッ、と蒸気を吹き出してトレーラーのドアが跳ね上がると、そこから一人の小柄な影が飛び出してきた。
センター要塞の甲板に、ズドンと重い音を立てて着地する。
白髪のボンバーヘッド。
油汚れにまみれたタンクトップと作業ズボン。
口には太い葉巻を咥え、右足は膝から下が真鍮製の無骨な義足になっている。
年齢は70を超えているだろうが、その腕の筋肉は、そんじょそこらの冒険者よりも引き締まっていた。
「ドロシー婆さん……!」
俺が食堂から甲板に出ると、婆さんは俺の顔を見るなり、鼻で笑った。
「なんだい、その死にかけの野良犬みてぇな顔は。久しぶりに煙が見えたと思ったら、随分と落ちぶれたもんだねえ、ジン!」
ドロシーは義足のカカトで甲板をガンガンと踏み鳴らしながら近づいてくると、俺の胸倉をいきなり掴み上げた。
「ぐえっ」
「おいおい、軽すぎだろ。中身スカスカか? ちゃんと飯食ってんのか、ああん!?」
「ちょ、ちょっと! ジンに何するのよ!」
マシロが慌てて割って入ろうとする。
ピコも背中のアームを展開し、ネオンは指先からスタンガンの電極を出して臨戦態勢だ。
「離しなさい! 彼は今、絶対安静なのよ!」
「絶対安静? はんっ!」
ドロシーは俺をゴミ袋のように放り捨てると、葉巻の煙をマシロの顔に吹きかけた。
「ガタガタうるせえ小娘どもだね。男を過保護に腐らせるのが趣味か? 見ろよ、こいつの目を。死んだ魚の方がまだ活きがいいぜ」
「なっ……! 私たちは、ジンを守るために――」
「守る? 檻に閉じ込めるのが守るってことかい? 笑わせるねえ」
ドロシーは、倒れ込んだ俺を見下ろし、ニヤリと笑った。
その笑顔は、皺だらけだが、太陽のようにギラギラしていた。
「で、どうすんだいジン。こんな泥の中でママゴトして死ぬか? それとも、アタイの車に繋がれて、地獄の果てまでドライブするか?」
俺は、甲板の冷たい感触を背中に感じながら、口元の血を拭った。
痛い。乱暴だ。
でも、不思議と息がしやすい。
腫れ物扱いされるよりも、こうして雑に蹴飛ばされる方が、俺にとっては「世界と繋がっている」実感があった。
「……へっ。ドライブに決まってんだろ、クソババア」
「いい返事だ。だが、タダ乗りはさせないよ」
ドロシーは巨大なスパナを肩に担ぐと、親指で自分のトレーラーを指した。
「取引だ。アタイの可愛い『クイーン・コング』が、さっきから便秘気味でね。排気ダクトに変な虫が詰まっちまったらしい。出力が出なくてイライラしてんだ」
「……つまり?」
「お前のその細っこい腕なら、ダクトの奥まで届くだろ? 突っ込んで、詰まってるモンを引きずり出しな! それが出来たら、固い地盤まで引っ張ってってやるよ!」
「ふざけないで!」
叫んだのはマシロだった。
彼女の周りにポルターガイストのオーラが立ち昇り、甲板上の資材がガタガタと震え始める。
「排気ダクトの掃除!? そんな汚くて危険な作業、今のジンにさせられるわけないでしょ! 背中の傷が開いたらどうするの!?」
「そうだ。交渉なら金で解決するべきだ。我々には予算がある」
ネオンが懐から札束(電子マネーのカード)を取り出すが、ドロシーはそれに見向きもしない。
「金なんぞでアタイの車を触らせるかよ。信用できるのは、油と泥にまみれる覚悟のある奴だけだ」
「だからって……!」
「マシロ、やめろ」
俺は立ち上がり、マシロの肩に手を置いた。
「ジン? でも……」
「婆さんの言う通りだ。タダ乗りは俺の流儀じゃねえ。それに……」
俺は、クイーン・コング号の排気ダクトを見上げた。
直径50センチほどの黒ずんだ穴からは、鼻をつく硫黄の臭いと、生臭い体液の臭いが漂ってくる。
普通の人間なら嘔吐するレベルの悪臭だ。
だが、俺には懐かしい匂いだった。
誰かが捨てたゴミ、誰もやりたがらない汚れ仕事。
それが、俺の居場所だったからだ。
「……この匂いだよ。俺に必要なのは、清潔なベッドじゃねえ。このどうしようもない、現場の空気なんだ」
俺はマシロの手をそっと外し、ドロシーに向かって歩き出した。
背中の焼けるような幻痛が、ズキリと走る。
指先の感覚はもう、ほとんどない。デッキブラシを握る感覚すら怪しい状態だ。
それでも、俺は笑っていた。
「交渉成立だ、ドロシー。……その代わり、終わったらとびきりの泥団子、奢れよ」
「カッカッカ! 任せときな! 唐辛子マシマシにしてやるよ!」
俺はモップの柄をへし折り、即席の棒を作ると、トレーラーの排気ダクトによじ登った。
中は真っ暗で、ヘドロのように粘ついた油が壁面を覆っている。
(……指の感覚がねえなら、肘まで突っ込めばいい)
俺は躊躇なく、ダクトの奥へと腕を突き入れた。
ヌチャッ。
何か、ブヨブヨとした弾力のある塊に触れる。
巨大ヒルだ。こいつが排気を塞いでいる元凶か。
「ぐっ……おおおおおっ!」
俺は全身の筋肉を総動員して、その塊を掴みにかかった。
ヒルが暴れ、吸盤が俺の腕に食い込む。
激痛が走るが、関係ない。
背中の痛みで相殺だ。
甲板では、マシロたちが息を呑んで見守っている。
泥まみれになり、油に汚れ、顔を歪めながらも、どこか生き生きとして見える俺の姿。
それを見て、マシロがぽつりと呟くのが聞こえた。
「……そうか。私、間違ってたのかな」
『マシロ?』
「彼から、『掃除屋』であることまで奪っちゃいけなかったんだ。……彼は、綺麗な人形になりたいわけじゃない。泥だらけの人間でいたいんだ」
マシロの瞳から、過保護な色が消え、代わりに信頼の色が宿る。
彼女は、俺の背中に向かって叫んだ。
「ジン! 右側! そこにもう一匹いるわ!」
「……おうよ! サンキュー、マシロ!」
俺はマシロのナビゲートに従い、最後の一匹を引きずり出した。
ズボォォォォォッ!!
巨大なヒルが抜け、詰まっていた排気が爆風となって吹き出す。
俺は顔面からススを浴び、真っ黒になった。
「っはー……! 開通だ!」
甲板に戻った俺は、文字通り「燃えるゴミ」のような姿だった。
だが、不思議と体は軽かった。
ドロシーが、汚れた包み紙を投げてよこす。
「ほらよ、報酬の『激辛・特製泥団子』だ。精力つくぞ」
「……見た目は最悪だが、今はこれが一番のご馳走に見えるぜ」
俺は泥団子を頬張った。
口の中に広がる強烈なカプサイシンの刺激と、ジャリッとした泥の感触。
涙が出るほど不味くて、最高に美味かった。
「さて! 契約完了だ! しっかり捕まってな、クソガキども!」
ドロシーが運転席に飛び乗る。
クイーン・コング号とセンター要塞が、極太のチェーンで連結された。
「行くよ! 舌噛んで死んでも知らねえぞ!」
ドロシーがアクセルを床まで踏み抜く。
クイーン・コング号のエンジンが、怪獣の咆哮のような爆音を轟かせた。
排気管からアフターファイアーが噴き出し、巨大なタイヤが泥を噛む。
ドッッッッゴォォォォォォン!!
凄まじいG(重力)が俺たちを襲った。
連結されたセンター要塞が、無理やり引きずり回される。
「ぐえっ!?」
「きゃああああ!」
俺たちはまとめて壁に叩きつけられた。
俺の口から、さっき食べた泥団子と共に、少量の血が噴き出す。
「ごふっ……!」
「ジンーーーッ!! 吐血した!? やっぱり安静が必要じゃないですかァァァァ!!」
マシロの絶叫が、エンジン音にかき消されていく。
二台の怪物車両は、泥しぶきを上げながら、B5Fへのゲートを目指して猛スピードで駆け抜けていった。
俺は薄れゆく意識の中で、マシロの悲鳴を子守唄のように聞きながら、久しぶりに安らかな眠りにつこうとしていた。
……まあ、起きたらまた地獄の介護生活が待っているんだろうが。
それもまた、悪くない。




