第96話:9人目の迷子、拉致完了
「……静かだな。さっきまでの地獄絵図が、まるでB級パニック映画のエンドロール後みたいだ」
ダンジョンB4F、通称『底なしの胃袋』。
深夜の湿地帯には、星も月も見えない。あるのは、毒々しい蛍光色を発する苔の光と、遠くで鳴く魔獣の不気味な咆哮だけだ。
センター内の「トイレ大戦」という名の第一次世界大戦は、全員の尊厳という取り返しのつかない犠牲を払って、一応の終結を見た。
今は、疲れ果てたメンバーたちが泥のように眠り、センターは自動操縦で緩やかに泥の海を進んでいる。
黒鉄ジンは、眠れずに――いや、背中の痛みが睡眠という安息を許さずに――、センターの後部に無理やり連結された「屋台」の屋根(甲板代わり)に出た。
そこに、男が一人いた。
「…………」
ワン・チャン。
数時間前まで、中華鍋を振り回して暴れ回っていた狂気の料理人。
彼は今、およそ料理人には似つかわしくない、どこか祈るような姿勢で、ボロボロの中華鍋を磨いていた。
【時間の凍結:月下の研磨】
物理的な時間は、ゆっくりと流れているはずだ。
だが、ジンの目には、その光景が一枚の絵画のように、あるいは壊れかけた映写機のフィルムのように、静止して見えた。
ワンの手には、使い古された金たわし。
シャッ、シャッ、シャッ。
規則正しい、金属を削る音。
だが、その手元をスローモーションで拡大すれば、致命的な異常が見て取れる。
彼の手指は、小刻みに、しかし制御不能なほど激しく震えているのだ。
寒さのせいではない。
泥と油にまみれたその指先の色は、どす黒く変色し、まるで枯れ木のように硬質化している。
皮膚の下で、血管がドクン、ドクンと不規則に脈打ち、そのたびにワンの眉間には深い皺が刻まれる。
(……ああ、なるほどな。こいつもか)
ジンは理解した。瞬時に、そして痛烈に。
あれは、重度の『ダンジョン病』だ。
長期間、高濃度の魔素に晒され続けた人間が陥る、細胞レベルの侵食。
神経がダンジョンの生態系と同化し、人間としての機能を失っていく、緩やかな死刑執行。
「……眠れねえのか、三ツ星シェフ。それとも、鍋の汚れが気になって夜も眠れない潔癖症か? ……にしては、この屋台自体が衛生基準アウトだがな」
ジンが声をかけると、ワンの手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと振り返る。
その瞳は、昼間の狂気的な輝きを失い、深く沈んだ沼のように濁っていた。
そこには、料理人の情熱ではなく、ただ「終わり」を待つ老人のような諦観があった。
「……なんだ、掃除屋か。……てめえこそ、俺の『毒沼麻婆』の副作用で、ケツの穴が火事になってんじゃねえのか? 消化器系の火災保険には入ってるか?」
「おかげさまでな。今は鎮火作業中だ。お前の料理のおかげで、俺の腸内フローラは焼き畑農業みたいに更地になったよ」
ジンは苦笑しながら、ワンの隣に腰を下ろした。
鼻をつくのは、湿地の生臭い風。
そして、ワンの体から漂う、強烈なスパイスの香りと、その奥に隠しきれない「腐臭」。
それは、生きている人間からは決して漂ってはならない、細胞の壊死する匂いだった。
「……いい腕だったぜ。あの料理。不味すぎて、死ぬほど美味かった」
ジンが言うと、ワンは自嘲気味に鼻を鳴らし、懐から湿気た煙草を取り出した。
火をつけようとするが、手の震えでライターの火が定まらない。
カチッ、カチッ。虚しい音が響く。
ジンが無言で自分のライターを差し出し、火をつける。
「……ふぅー……。皮肉か? あんなゲテモノ、地上のレストランに出したら、一口目で客が泡を吹いて、二口目で保健所と警察と特殊部隊が同時に突入してくる」
紫煙が、湿った夜気に溶けていく。
「俺はな、昔は地上で、それなりに名の通った料理人だったんだ。三ツ星レストランの総料理長。出す料理はすべて『芸術』と称賛された。……だが、ある日突然、何もかもが砂の味になった」
ワンが、自分の震える手を見つめながら語り始める。
その声は、過去の栄光を語っているはずなのに、まるで遺言のように乾いていた。
「ダンジョン病の一種だ。『味覚汚染』。新鮮な野菜も、最高級の和牛も、俺の舌には灰色の泥にしか感じられなくなった。……絶望したよ。料理人にとって、味覚を失うのは、死刑宣告より重い。音楽家が聴力を失うなんて比喩じゃ足りねえ、魂を抜き取られた抜け殻だ」
【心象風景の投影:灰色の食卓】
ワンの言葉に合わせて、ジンの脳裏にもその光景が強制的にインストールされる。
色鮮やかなフレンチのフルコース。輝くシャンデリア。
だが、ワンの視点では、それらはすべて彩度のない、モノクロームの砂利だ。
客たちの笑顔が、不気味な歪んだピエロのマスクに見える。
「美味しい」という称賛の声が、耳障りなノイズとして、あるいは罵倒として響く。
世界から「色彩」と「喜び」が剥離した、孤独な厨房。
「……だから、俺は潜った。この腐ったB4Fまでな」
ワンが、鍋の縁を愛おしそうに撫でる。
その指先には、すでに「熱さ」を感じる機能すら残っていないのかもしれない。
「ここの魔獣の肉は臭い。毒がある。食えば内臓が焼ける。……だがな、その強烈な『毒』だけが、俺の死んだ舌を叩き起こしてくれるんだ。痛みという名の刺激だけが、俺に『料理をしている』という実感をくれる。……笑えるだろ? 俺は今、料理を作ってるんじゃねえ。自分の舌を痛めつけるための拷問器具を作ってるんだ」
ワンは、狂気を含んだ目で笑った。
その笑顔は、あまりに悲痛で、そして純粋だった。
「地上の奴らが食う綺麗なもんなんて、もう俺の舌には響かねえ。この深淵の毒を、呪いを、極上のスパイスに変えて、俺の命が尽きる前に……『究極の一皿』を作る。そのためなら、俺はこの両手が泥に溶けてなくなっても構わねえ」
「…………」
ジンは、何も言わずに聞いていた。
だが、その胸の内で、激しい共鳴音が鳴り響いていた。
心臓の鼓動とリンクして、背中の痛みが「そうだ、そうだ」と叫んでいる。
(……同じだ)
背中の炭化が熱を持つ。
ジンもまた、余命半年という時限爆弾を抱えている。
普通の人間としての幸せなど、とうに諦めた。
彼に残されたのは、この「遺失物管理センター」という居場所を守り、13人の家族を最深部まで送り届けることだけ。
生きる目的が「生」そのものではなく、「死に場所」を探すことになってしまった男たち。
その魂の形は、鏡合わせのように似ていた。
ただ、持っている武器が「デッキブラシ」か「中華鍋」かだけの違いだ。
「……だったら、こんな泥沼でくすぶってんじゃねえよ」
ジンが立ち上がった。
手にしたスクイージー(980円)を、屋台のカウンターにバンッ! と叩きつける。
その音が、湿った空気を切り裂いた。
「……あ?」
「お前、このままここにいても、あと数ヶ月で全身が泥に溶けて、ただの魔獣の餌になるだけだ。……その前に、俺と一緒に『底』まで行こうぜ」
ジンは、夜空の向こう、見えない地下の深淵を指差した。
その指先は、確信に満ちていた。
「B100F。……あそこには、『星』が落ちてるって噂だ」
「……星だと? ミシュランの星か? あんなもん、紙くずだ」
「違う。……本物の星だ。神様を煮込んでスープにできるくらいの、規格外の食材がゴロゴロ転がってる場所だ。……お前のそのイカれた舌を満足させる『究極の毒』も、『伝説のスパイス』も、きっとそこにある」
【思考の脱線とメタな嘘】
(……まあ、全部ハッタリだけどな。B100Fに何があるかなんて、誰も知らねえし。神様煮込むってなんだよ、バチ当たるぞ。俺、今すごい勢いで適当なこと言ってるな。これが少年漫画なら『伏線』になるんだろうけど、俺の場合はただの『詐欺』だ)
ジンは内心で舌を出した。
これは勧誘であり、詐欺だ。
根拠などない。あるのは「そうであってほしい」という願望だけ。
だが、嘘の中に混ぜた「熱量」だけは本物だった。
「お前のその腕、俺に貸せ。俺たちはB100Fまでノンストップで行く。道中の飯は全部お前に任せる。……その代わり、お前を必ず、最高の『厨房』まで連れて行ってやる。地獄の底で、最高の晩餐会を開こうぜ」
それは、契約だった。
雇用主と料理人という関係ではない。
死に急ぐ者同士が、互いの命を燃料にして走るための、共犯者の契約。
ワン・チャンが、呆気にとられた顔をする。
ポカンと開いた口から、吸いかけの煙草が落ちそうになる。
そして数秒後。
彼の喉の奥から、クックックッ……と、押し殺した笑い声が漏れ出し、やがてそれは夜空を切り裂くような高笑いに変わった。
「カッカッカッ! 詐欺師が! 目が泳いでるぞ! ……だが、悪くねえ! 少なくとも、泥の中で腐り果てるよりは、マシな死に方だ!」
ワンが立ち上がり、震える手をジンに差し出した。
その手は、料理人の手というよりは、戦士の手だった。
無数の傷跡と、火傷の痕。それが彼の勲章だ。
「いいだろう、掃除屋! 食材を無駄にする客は殺すが……最高の厨房を用意できるってんなら、地獄の果てまで出前に行ってやるよ! 俺の最後の作品、お前らの胃袋に刻み込んでやる!」
「……交渉成立だな。返品は不可だぞ」
男たちの熱と、泥と、油が混じり合う、固い握手。 それは、新たな伝説の幕開け――
「――で、ワン。契約も済んだことだし、トイレは何処だ?」
「ああ、そこの茂みの裏にある『穴』だ」
「……は?」
「俺は野グソ派だ。便器なんて文明的なモン、この階層にあるわけねえだろ」
「「「ふざけるなァァァァァッ!!!」」」
その瞬間、二人の間に流れる空気が変わった。
ただの「迷子」たちが、「チーム」になった瞬間だった。
これで、9人目の迷子「ワン・チャン」の拉致――もとい、加入が完了した。
「……じゃあ、俺はもう寝る。明日の朝飯、楽しみにしてるぜ」
「おうよ! 朝から『ニトロ・オムレツ』で目を覚まさせてやるから覚悟しとけ! 食った瞬間に目が覚めるか、永眠するか、二つに一つだ!」
「永眠は勘弁してくれよ……」
ジンは屋台を後にし、センターの中へと戻った。
扉を閉めた瞬間、彼の表情から笑みが消える。
冷たい鉄の扉に背中を預け、深く息を吐き出す。
「……マシロ、いるんだろ」
「……うん」
空気中から、マシロがスーッと姿を現した。
彼女はずっと、この会話を聞いていたのだ。
心配そうな瞳が、ジンを見つめている。
「……これで、飯当番は確保した。あいつの料理なら、バフ効果で俺の寿命も少しは誤魔化せるだろ」
「……ジン。あなた、本当に……」
マシロが悲痛な顔で何かを言いかけるのを、ジンは手で制した。
「……それに、あいつの料理……悔しいけど、美味かったんだよ。……味が、したんだ」
ジンは自分の右手を持ち上げた。
さっき、ワンと握手をした手。
その指先を、親指で強く擦る。
【無意識のマイクロジェスチャー:感覚の喪失】
(……おかしいな)
感覚がない。
ワンの手の熱さも、ざらつきも。
まるで分厚いゴム手袋越しに触っているように、指先の感覚が麻痺している。
いや、違う。指先だけじゃない。
手首まで、冷たい水に浸しているように感覚が遠い。
(……味覚だけじゃねえ。触覚まで、持って行かれ始めたか。……これ、あと半年もつか?)
ジンは、震えそうになる指先を強く握りしめ、ポケットに隠した。
誰にも見せないように。特に、目の前の幽霊には。
「……あとは、俺の舌と……体が、いつまでもつかだな」
ジンは誰にも聞こえない声で呟き、暗い廊下の奥へと消えていった。
彼の背中で、懐中時計の音がチクタクと鳴る。
それは、B100Fへの旅の合図であると同時に、彼の命のカウントダウンでもあった。
その音は、以前よりも少しだけ、速くなっているような気がした。




