第95話:食卓の狂騒曲(別名:センター・オブ・ザ・トイレット)
「……なあ、ネオン。人間が『神』を信じる瞬間ってのは、いつだと思う?」
「……知りませんよ。宗教勧誘なら、トイレに行ってからにしてください」
「……奇遇だな。俺も今、猛烈にその『聖域』に巡礼したいんだが」
ダンジョンB4F、最深部。通称『底なしの胃袋』。
数分前まで、ここは『ヘドロ・サラマンダー』の大群を一方的に蹂躙し、勝利の咆哮を上げる栄光の戦場だった。
だが今、センター内に漂っているのは、勝利の凱歌ではない。
核戦争の前夜よりも静かで、そして死よりも確実な、破滅の予感だ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ…………。
それは、遠くの地鳴りではない。
生存者5名(と1匹)の腹の底から、示し合わせたように同時に響き渡った、腸内細菌たちの暴動のファンファーレだった。
ワン・チャンが振る舞った『毒沼麻婆』。その劇薬的なカプサイシンと魔獣の酵素が、彼らの消化器官という名の原子炉で、制御不能のメルトダウンを起こそうとしている。
全員の顔色は、B4Fの泥沼と同じ、生気のない土気色、いや、絶望的な紫色に染まっている。
額には、油を塗ったような冷や汗がびっしりと浮かび、呼吸は「ヒッ、ヒッ」という、産気づいた妊婦のような浅いラマーズ法のリズムに支配されている。
「……おい、ネオン。確認だ。……このセンターに、稼働可能なトイレは……いくつある?」
ジンは、腹部を抱え込み、前かがみの姿勢――通称『胎児のポーズ』――を取りながら、震える声で尋ねた。
その背中では、炭化した皮膚が筋肉の微細な収縮に合わせてミシミシと悲鳴を上げている。
だが、今の彼にとって、その致死性の激痛すら、「便意」という絶対王者の前では、蚊に刺された程度のかゆみでしかなかった。
ネオンもまた、キーボードを叩く手が痙攣している。
彼は脂汗で曇った伊達眼鏡を中指で押し上げ、絶望的な事実を淡々と、しかし声にならない悲鳴のように告げた。
「……設計図上では二つ。居住区に一つ、事務室に一つ……ですが、事務室用の個室は昨日、ジンさんが泥まみれのスクイージーを便器で洗浄したせいで、配管が詰まって逆流しています。現在、使用すれば『汚水の噴水』と化し、社会的に死亡します」
「…………」
絶望的な沈黙。
世界から音が消えた。
稼働可能なトイレは「一つ」。
生存者は「五人と一匹」。
そして、全員が今、臨界点を超えようとしている。
「……つまり、椅子取りゲームか。敗者は尊厳死、勝者のみが人権を得ると」
誰かが呟いた。
その瞬間、センター内の空気が、絶対零度まで凍りついた。
【時間の凍結:開戦の号砲】
物理的な時間は、コンマ数秒の世界へ。
天井の錆びた配管から、結露した水滴が一粒、ポタリと落ちる。
その水滴が重力に従って落下し、床の薄汚れたリノリウムに弾け、美しい王冠の形を描く。
その王冠が崩れ落ちるよりも速く。
全員の脳内シナプスがスパークした。
「どけぇぇぇぇぇ! 俺は管理人だぞ! 管理人のケツは、このセンターの秩序そのものなんだよ! 俺が漏らせばセンターの品位が地に落ちるんだァァァ!!」
ジンが動いた。
背中の激痛? 知るか。
余命半年? 今ここで尊厳を失って生きる半年より、人間として死ぬ一瞬の方が尊い。
火事場の馬鹿力などという生易しいものではない。これは生命の尊厳をかけた、魂の暴走だ。
大腿四頭筋が繊維レベルで断裂しそうなほどの負荷をかけ、床を蹴る。
「関係ありません! 民主主義において、排泄の権利は平等です! というか僕は未成年です! 未来ある青少年のトラウマを回避するためにも、児童福祉法に基づいて最優先で保護されるべきです!」
ネオンがタブレットをスワイプする。
【マイクロジェスチャー:ハッカーの神速】
彼の指先は、肉眼では捉えられない速度で残像を残している。
カシャ、カシャ、カシャ!
廊下の隔壁がハッキングされ、ジンの行く手を阻むように閉鎖されていく。
電子空間上では、ネオンのアバターが「トイレ」という名の聖杯にアクセス権限の旗を立てているのだ。
「卑怯だぞネオン! 電子ロックなんぞで俺の限界突破した括約筋が止まるかァァァ!」
「物理的に止まってください! 貴方の尊厳より、僕の新品のズボンの方が大事なんです!」
ドゴォォォン!!
ジンが閉まりかけの隔壁にショルダータックルをかまし、鉄板をひしゃげさせながら無理やりこじ開ける。
その横を、ピンク色の影が、重機のような重厚感とアイドルの可憐さを矛盾させた動きで通過しようとした。
「……アイドルは……トイレなんて……行かない……っ! 行かないけど、ちょっと『お花摘み』に行きたいだけなのよぉぉぉ! どきなさい、この一般市民どもォォ! 私の膀胱は事務所の資産なのよ!」
ピコだ。
彼女は「アイドルは排泄しない」という設定を死守するため、自己催眠をかけながらも、その体は正直にトイレの方角へ向かっている。
彼女は背負っていた重機アームのマニピュレーターを遠隔操作し、先行するジンの足を掴んだ。
ギュルルルル!
「ぐわぁぁぁ! 放せ! 放せピコ! 漏れる! 今、俺のダムが決壊寸前なんだ! 構造計算上、あと0.5秒で崩壊する!」
「あんたのダムなんて知るか! こっちは『清純派』の看板がかかってんのよ! ファンクラブの夢を守るためなら、管理人の一人や二人、生贄に捧げてやるわ!」
その足元で、水槽を抱えたレオが、もはや言葉にならない悲鳴を上げていた。
「ぬ、ぬお……ッ! 水が……! 私の体から放出した『成分』で、水槽の水質が急速に悪化している……! 自分の毒で自分が死ぬ! 騎士として、このような切腹(物理)があってたまるかァァァ! 出してくれ! 陸に上げてくれぇぇ! エラ呼吸が! 味がする! 水から変な味がするぅぅ!」
オタマジャクシのレオの周りの水が、見る見るうちに毒々しい紫色に変色していく。
閉鎖環境での排泄事故。それは水生生物にとって即ち「死」を意味する。
「あはははは! いいぞ、素晴らしい! 食への渇望は生への渇望! 出す力こそが生きる力だ! 全部出し切ってこそ、次の『美食』が入るスペースが生まれるんだ! サイクルだ! 命は循環するんだよ!」
元凶であるワン・チャンだけが、戦場カメラマンのように安全圏から眺め、爽やかな笑顔で高品質なダブルのトイレットペーパーをヒラヒラと振っている。
彼にとってはこの地獄すら、料理のスパイスの一部らしい。
「うるせえ! お前は後でスクイージーの刑だ! 逆さ吊りにして鍋で煮てやる! ……くっ、トイレのドアまで、あと3メートル……!」
ジンがピコの重機アームを振りほどき、ネオンのハッキングした隔壁の下をスライディングで潜り抜ける。
床との摩擦熱でズボンが焼ける匂いがするが、構っていられない。
目の前には、聖なる白い扉。
そこには「WC」という、人類史上最も美しい二文字が刻まれている。
そこに至るまでの距離が、B100Fへの道のりよりも果てしなく、永遠のように遠く感じる。
【心象風景の投影:走馬灯】
ジンの視界が歪む。
極限状態の脳が、現実逃避のために無関係な記憶をフラッシュバックさせる。
(……ああ、懐かしい。あれは5年前。遠足で行った牧場のトイレ……。紙がなくて、葉っぱで拭いたあの時のざらつき……。いや、違う。もっと前だ。お袋に怒られて、トイレに閉じ込められた時の、あの芳香剤の匂い……)
「……ッ、尺稼ぎしてる場合じゃねえ! 俺の脳内メーカー、今すぐ『トイレ』一色に染まれ!」
メタなツッコミで意識を現実に引き戻す。
括約筋のライフは、残り0.01。
もはや、気力だけで繋ぎ止めている状態だ。
背中の炭化の痛み? 知るか。今、俺の体内では、マグニチュード9.0の激震と、巨大隕石の衝突が同時に起きているのだ。
(……神様。あんたのことは嫌いだが、今だけは祈ってやる。俺の余命、残り半年あるなら、その全部を今ここで使ってもいい。だから、あと5分……いや、3分でいい。あの個室を俺に譲ってくれ……! 俺の人生のクライマックスは、ここだ!)
ジンが血涙を流し、ドアノブに手をかけた。
勝利だ。
俺は勝ったんだ。
尊厳を守り抜いたんだ。
その瞬間。
ガチャリ。
鍵が開く音が、廊下に響き渡った。
ジンの動きが止まる。
ネオンの指が止まる。
ピコの重機アームが空中で停止する。
スローモーションの中、白い扉が内側から開いた。
中から溢れ出したのは、天国のような涼しい風と、フローラルな香り。
そして、一人の少女。
「…………あ、ごめーん。なんか外が騒がしいから出てきちゃった」
マシロだった。
彼女はスマホを片手に、まるでカフェから出てきたような優雅さでそこに立っていた。
その顔には、一点の曇りもない。
「……え、マシロ? なんで、お前が……そこに……?」
ジンが膝から崩れ落ちそうになるのを、ドア枠にしがみついて耐える。
マシロは不思議そうに小首を傾げた。
「いや、さっきの戦闘で霊力使いすぎて疲れちゃって。ここ、個室だし狭くて落ち着くから、中でスマホいじって『幽霊でもできるデトックス』とか『憑依ダイエット』とか調べてたんだけど。……え、何みんな。その顔。これからお葬式?」
「…………」
全員の動きが止まった。
怒り? 殺意?
いや、そんなエネルギーを使う余裕すら、今の彼らには残されていない。
彼らの視線は、マシロの後ろにある「空白の便器」に釘付けだ。
だが、そこに辿り着くための「一歩」を踏み出す気力が、マシロのあまりの無邪気さによって、プツリと切断されたのだ。
「……ど、どけ……! そこは……俺たちの……エルドラド(黄金郷)だ……!」
ジンが最後の力を振り絞り、マシロを押しのけて中に入ろうとした。
だが。
ピキィィィィン!!
限界を超えた緊張と緩和の落差に、ジンの背中の炭化部分が、そしてそれ以上に重要な「最後の砦」が、同時に悲鳴を上げた。
「……あ」
【代償の可視化:決壊】
ジンの視界が真っ白になる。
ホワイトアウト。
音が遠のく。
背中を走る激痛。
そして、下腹部から広がる、暖かく、人間としての何か大切なものが流れ出していくような、絶望的な解放感。
それは、ジンだけではなかった。
ネオンも、ピコも、そして水槽の中のレオも。
全員が、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、虚空を見つめた。
「…………終わっ、た……」
誰かの呟きが、静寂な廊下に木霊した。
戦いは終わった。
勝者などいない。
そこにいるのは、尊厳という名の衣を脱ぎ捨てた、ただの生物たちだけだった。
数十分後。
センター内の空気は、言葉では形容しがたい「何か」に支配されていた。
換気扇がフル回転しているが、それでも追いつかない濃厚な気配。
それは敗北の匂いであり、あえて言うなら「野獣の檻」の匂いだった。
ジン、ネオン、ピコは、放心状態で床に座り込んでいた。
その下半身には、ワン・チャンが満面の笑みで差し出したアイテムが装着されている。
『特製・超吸収オムツ(魔獣マッド・ベアの毛皮製)』。
吸水性抜群、防臭効果あり。B4Fの過酷な環境が生んだ、冒険者の必需品(ワン・チャン談)。
「……出し切ったな、みんな」
ジンが、死んだ魚のような目で天井を見上げて呟いた。
その瞳には、光がない。光どころか、人間としての魂すら見当たらない。
「……はい。いろんな意味で、大事なものを失いました。……僕のハッキング技術も、生理現象の前では無力でした……。ファイアウォールは突破できても、自分のゲートキーパーは守れませんでした……」
ネオンが膝を抱えて震えている。
「……記憶から消して。この時間は、私の歴史には存在しないの。……私はアイドル。私はアイドル……。今のは演出……そう、リアリティを追求したメソッド演技……」
ピコがブツブツと呪文のように唱えている。現実逃避のプロだ。
「騎士とは……汚れることを恐れぬ者……いや、限度があるだろう! 水槽の水換えをしてくれ! まだ臭う気がするんだァァァ! 自分の出したものの味で溺れるなんて、騎士道物語のどこにも書いてなかったぞォォ!」
レオだけが、新しい水に入れ替えられた水槽の中で、必死に体を洗っていた。
唯一の健常者(幽霊)であるマシロだけが、鼻をつまみながら呆れ果てていた。
「……あんたたち、ホント最低。ここ、遺失物管理センターよね? まず自分たちの『尊厳』を遺失物として回収してきたら?」
その時。
厨房の方から、再びあの「カン、カン!」という、陽気で不吉な中華鍋の音が響いてきた。
「おーい! 野郎ども! 腹の中が空っぽになっただろう! 素晴らしい! これで次のコースが入るぞ!」
ワン・チャンが、湯気の立つ大皿を持って現れた。
そこから漂うのは、先ほどの麻婆豆腐を遥かに凌駕する、鼻が曲がるほどの強烈な発酵臭。
靴下の煮込みと、腐ったチーズを掛け合わせたような香りだ。
「B4F特産、『発酵・毒沼納豆』だ! 粘り気は通常の納豆の50倍! 一度食えば、腸壁に張り付いて三日は取れないぞ! さあ、食え! 腸内フローラを強制リセットだ!」
「「「ぎゃああああああああああ!!」」」
全員の絶叫が重なった。
もう無理だ。もう入らない。
だが、暴走特急となったセンターは止まらない。
地獄のシェフを乗せて、彼らの旅は続く。
トイレという名の聖域を失った彼らに、安息の地はまだ遠い。
(……続くわけがないだろ、こんな地獄! 誰か俺を殺してくれ!)




