第94話:禁断の毒物バフ料理
「……おい、ネオン。エンジンの音が変だぞ。さっきから『喘息持ちのロバ』が坂道で荷車引いてる時みたいな、情けない音してやがる。これ、本当に暴走特急か? 暴走する前に息切れしてんじゃねえか。介護が必要なのは俺だけで十分だぞ」
ダンジョンB4F、最深部。通称『底なしの胃袋』エリア。
泥沼の粘度が上がり、センターの進行速度が目に見えて落ちていた。
原因は、泥の物理的な抵抗だけではない。
「……文句を言わないでください。外を見て。……あいつら、熱を吸ってる」
ネオンが操作するモニターには、センターを完全包囲する無数の赤い点が映し出されていた。
『ヘドロ・サラマンダー』。
体長2メートルほどの、腐った皮膚を持つ大山椒魚のような魔獣。
それらが何百匹と群がり、センターの排熱ダクトやエンジン部にへばりつき、まるで赤子が母乳を吸うように、センターの生命線である熱エネルギーをチューチューと吸い取っているのだ。
「うわぁぁぁ! 窓に! 窓に張り付いてる! 腹の吸盤が気持ち悪い! こっち見てる目が『餌』を見る目じゃなくて、冬場のコンビニで売れ残った『使い捨てカイロ』を見る目よ! 私たちの体温まで吸い尽くす気満々じゃない!」
マシロがスクイージーの中から悲鳴を上げる。
センター内の気温は急降下し、照明がチカチカと頼りなく明滅を始めた。
電力不足。出力低下。このままでは、泥沼の真ん中で「冷たい巨大な鉄の棺桶」になるのを待つだけだ。
「……チッ。燃料切れかよ。これだから中古物件は」
ジンが舌打ちをし、スクイージーを握りしめた。
だが、その手には力が入らない。
背中の炭化による発熱も、外部からの冷却によって奪われ、今の彼はただの「死にかけの病人」に戻りつつあった。
その時だった。
カン、カン、カン、カン!!
絶望的な静寂など知ったことかと言わんばかりの、能天気で暴力的な金属音が、センター内に響き渡った。
「よし、野郎ども! 手が止まってるぞ! 腹が減っては戦ができん、戦ができないと俺が死ぬ、俺が死ぬと世界の食文化が300年後退する! ……よって、これより『地獄のまかないタイム』を開始するァァァ!!」
厨房(と勝手に名付けられた一角)から、灼熱の蒸気と共に現れたのは、狂気のシェフ、ワン・チャンだった。
彼が両手で抱えているのは、洗面器ほどもある巨大な中華皿。
そこには、この世の「食」という概念を根底から覆す、とんでもない物質が波打っていた。
「……おい、ワン。それはなんだ。俺の視界が正しければ、紫色のコンクリートブロックが、黄金色に発光する工業用廃油に浮いているように見えるんだが。これは現代アートか? それとも産業廃棄物の展示会か?」
「失礼な奴だな! これは『毒沼麻婆』だ! 豆腐の代わりに、さっき捕まえたサラマンダーの肝臓を使い、沼の毒草と火薬草で煮込んだ、精力増強・滋養強壮・即死無効(※個人差あり)の完全食だ! 食えば飛ぶぞ! いろんな意味でな!」
ワンが皿をドン! とテーブルに叩きつける。
瞬間、センター内に充満したのは、「美味しそう」と「危険」が核融合を起こしたような、鼻毛を焦がす刺激臭だった。
【時間の凍結:黄金の劇薬】
物理的な時間は停止する。
ワンが皿を置いた衝撃で、黄金色の油がスローモーションで跳ね上がり、空中で美しい王冠の形を作る。
皿から立ち上る湯気の一筋一筋が、髑髏の形を成して揺らめいているのが見える。
マシロの霊視には、その料理から禍々しい赤黒いオーラが噴き出し、まるで「食べてはいけない」という警告のアラートが空間に文字として浮かんでいるように見えた。
(……食えば、死ぬ)
ジンの本能がそう告げている。
細胞の一つ一つが、全力で拒絶反応を示している。
だが、同時に。
(……食わなきゃ、今の俺の体力じゃ、あいつらは殺せねえ)
背中の炭化が、ズキズキと熱を持って訴えている。エネルギーの枯渇。
このまま外に出れば、スクイージーを一回振った時点でガス欠だ。
選択肢は二つ。飢えて凍えて死ぬか、毒を食らって暴れて死ぬか。
「……上等だ。毒食わば皿まで……いや、皿は勘弁してくれ。消化できる自信がねえ」
ジンは震える手でレンゲを掴み、その紫色の塊をすくい上げた。
プルプルと震える紫色の肝臓が、まるで生き物のように艶かしく光る。
「……いただきます」
ジンが、その「劇薬」を口に放り込んだ。
【無意識のマイクロジェスチャーと感覚の暴走】
咀嚼。
ブチュッ、という不快な、それでいて妙に弾力のある破裂音。
サラマンダーの肝臓が弾けた瞬間、中から溢れ出したのは、熱せられた鉛のような濃厚なコクと、脳天をフルスイングで殴られたようなスパイスの衝撃。
「……ッ、ぐ、おおおおおおおお!?」
ジンがのけぞり、白目を剥いた。
喉の筋肉が痙攣し、食道が焼け爛れるような錯覚に襲われる。
辛い、熱い、痛い。
これは食事ではない。内臓への爆撃だ。
(あ、これ……。子供の頃、間違って親父のウィスキーを原液で飲んだ時の、あの喉が焼ける感覚……いや、違う。これは溶岩だ。俺は今、火山口を飲み込んだのか?)
【走馬灯と思考の脱線】
意識が飛びかけ、脳内で意味不明な映像がフラッシュバックする。
小学校の給食。初めて食べた激辛カレー。5年前の事故現場の炎。
「走馬灯のメニューが辛いものばっかりじゃねえか! バリエーション考えろよ俺の脳みそ!」とメタなツッコミを入れる余裕すら、熱波にかき消されていく。
だが、その劇薬が胃袋に着地し、血流に乗った瞬間。
ドクン!!
全身の血管がミミズのように浮き上がり、心臓が不整脈ギリギリのビートを刻み始めた。
アドレナリン、ドーパミン、エンドルフィン。脳内麻薬が全部入りのカクテルとなって駆け巡る。
「……熱い。……背中の痛みが、『熱さ』にビビって逃げ出しやがった」
ジンから立ち上る湯気が、いつしか赤いオーラへと変わっていた。
瞳孔が開き、死んだ魚の目に、サメのような獰猛な光が宿る。
「な、なによそれ! 人間が食べていい色の反応じゃないわよ! ゲーミングPCみたいに発光してるじゃない!」
引くマシロを他所に、その「劇的な変化」を見た他のメンバーの理性が、空腹と生存本能によって決壊した。
「……ええい! ままよ! アイドルだってスタミナが必要なのよぉぉぉ! 事務所の方針で炭水化物抜いてたけど、もう知るかァァァ!」
ピコがレンゲを奪い取る。
「……論理的思考では致死率98%と出ていますが、生物学的欲求がシステムエラーを吐いています! 毒物データの収集も兼ねて……人体実験、開始します!」
ネオンが顔から皿に突っ込む。
「ぬおわァァァ! 貴様らだけズルいぞ! 騎士にも! 騎士にもその活力をよこせぇぇ! 水槽に直接流し込めぇぇ! ……あ、熱ッ! 熱いけど……力が……力が漲るぅぅぅ!」
レオが水槽の蓋を頭突きで開け、ワン・チャンに残り汁を注がせる。
数秒後。
そこには、人間をやめた「バーサーカー集団」が完成していた。
「「「うおおおおおおおおおお!!」」」
ハッチが内側から、物理的な限界を超えた筋力で蹴破られた。
飛び出したのは、もはや人間ではない速度で動く残像たちだ。
「消毒だァァァァァァ!!」
ジンがスクイージーを一閃する。
本来なら「掃除」するだけのその一撃に、ワンの料理による異常な熱エネルギーが加わり、泥沼を一瞬で沸騰させる「熱波」となって放たれた。
ジュワアアアアアア!!
包囲していたサラマンダーたちが、悲鳴を上げる間もなく蒸発し、瞬時に干物へと変わっていく。
「あはははは! 重い! 重機が発泡スチロールみたいに軽いわ! このままB100Fまでトンネル掘ってやろうかしら!」
ピコが、本来なら油圧ショベルのアームでしか動かせない数トンの鉄塊を、素手でブンブンと振り回し、魔獣を場外ホームランしていく。
その瞳孔は開ききり、よだれが垂れていることにも気づいていない。
「解析完了、予測完了、弱点特定、死角なし! 私の脳内クロック、今ならスーパーコンピューター『富岳』と並列処理でテトリスしても勝てるわ! 落ちてくるブロックが止まって見える!」
ネオンが空中に投影したキーボードを、残像が見えるほどの速度で叩く。
センターの武装が、物理演算を無視した挙動で自動追尾し、サラマンダーの眉間を正確に撃ち抜いていく。
「見よ! これぞ騎士の……ファイアァァァァ!!」
水槽ごとおんぶ紐でピコに背負われたレオが、口から巨大な火柱を吐いた。
オタマジャクシが火を噴くという生物学的矛盾。だが、毒沼麻婆のカロリーは常識すら燃やし尽くす。
一方的な蹂躙。
無双状態。
だが、その中心で、ジンだけが静かに「崩壊」していた。
【代償の可視化:死の味】
ザシュッ。
吹き飛んだサラマンダーの返り血が、ジンの頬に飛び散る。
彼は無意識に、それを舌で舐め取った。
(……ん?)
違和感。
鉄の味はする。だが、それだけだ。
塩気がない。
いや、違う。サラマンダーの体液は強烈な塩分と酸を含んでいるはずだ。舌が痺れるほどの刺激があるはずなのだ。
なのに、まるで真水を舐めたように、何の味もしない。
(……味が、しねえ)
ジンの視界が、カメラの露出オーバーのように白く明滅する。
バフ料理で無理やり体を動かしているが、その代償として、背中の炭化は加速していた。
皮膚がボロボロと、燃え尽きた炭のように剥がれ落ち、戦闘服の中で砂のように堆積していく感触。
神経が焼き切れ、感覚器官が一つずつシャットダウンしていく恐怖。
「……ケッ。塩気が足りねえな、この喧嘩はよ」
ジンは強がりを吐いたが、その声は少しだけ震えていた。
勝利の代償は、確実に彼の体を蝕んでいる。
この「無味」こそが、彼に残された時間が残りわずかであることの、何よりの証明だった。
数分後。
周囲のサラマンダーは全滅し、あたりには静寂と、魔獣の焼ける香ばしい(そして少し臭い)匂いだけが残った。
「やった……! 勝ったわ! 私たち、最強じゃない!」
ピコが諸手を挙げて喜ぶ。
「ふふふ……このデータがあれば、次の戦闘効率はさらに150%向上します……」
ネオンが不敵に眼鏡(伊達)を押し上げる。
だが。
その「勝利の余韻」は、わずか3秒で断ち切られた。
ゴロゴロォォォォォォ…………。
遠くの雷鳴ではない。
それは、全員の腹の底から同時に響き渡った、破滅のファンファーレだった。
全員の顔色が、一瞬にして土気色、いや、紫色に変わる。
脂汗が、滝のように噴き出す。
腸の中で、サラマンダーの怨念とスパイスが、出口を求めて暴動を起こしている。
「……ッ、く」
ジンが腹を押さえ、脂汗まみれの顔でネオンの方を向いた。
その目は、サラマンダーの群れを前にした時よりも遥かに怯えていた。
「……おい、ネオン。……確認だ。……このセンターのトイレ……最大同時使用人数は……何人だ?」
ネオンもまた、腹を押さえながら、震える指で一本だけ指を立てた。
その指先は、絶望へのカウントダウンを示しているようだった。
「……一名様、のみです。……しかも、ウォシュレットは故障中……」
「…………」
沈黙。
世界が灰色に染まる。
「……戦争の始まりだな」
次の瞬間、かつてない殺気を纏った4人と1匹が、センター内の唯一の個室に向かって、音速のダッシュを開始した。
それは、魔獣との戦いよりも凄惨な、尊厳をかけた内戦の幕開けだった。




