第93話:泥沼の底で、王(ワン)は中華鍋を振る
「おいネオン……。お前の作ったあのレーダー、いつから『腹ペコナビ・プレミアム』にアップデートされたんだ? さっきから画面上で、不気味な赤提灯がチカチカ点滅してやがるんだが。お前、実は隠れて『魔界のグルメリポート』でも見てんのか?」
ダンジョン遺失物管理センター(B4F泥沼地帯・暴走特急仕様)の操縦席。
黒鉄ジンは、ガムテープの粘着剤が不快に肌を引きずる感覚を、後頭部で呪いながら身をよじった。
シートは激しい落下の衝撃で歪み、鼻を突くのは焼けたゴムと、埃と、誰かがこぼした古い微糖缶コーヒーが混ざった「労働の終わり」のような侘しい匂いだ。
その画面中央、ネオンが「高濃度汚染物質」として赤くマークした座標が、まるで誘蛾灯のように怪しく、そして蠱惑的に明滅している。
「……管理人の脳細胞、そろそろ炭化して機能停止しました? あれは美味しそうな反応じゃなくて、単なる『致死レベルの重金属汚染』と『正体不明の高熱源』です。近づくだけで寿命が三日は縮みますよ。あ、もう半年もない人には誤差の範囲でしょうけど」
ネオンは、青白いモニターの光の中で一度も瞬きをせず、指先だけをハイスピードで躍動させている。
彼女の指先がキーボードを叩く音は、もはや音楽を通り越し、何かを呪い殺すための儀式の打鍵音に近い。
カチャカチャカチャカチャッターン!!
エンターキーを叩く音が、車内の空気を震わせた、その瞬間。
センターの外装の隙間、あるいは換気ダクトの奥から、「それ」が侵入してきた。
「…………ッ!?」
【五感の過剰インストール:嗅覚へのテロル】
それは、匂いではなかった。暴力だった。
まず、鼻の粘膜を、目の粗い100番の紙やすりで直接削り取られるような、物理的な痛みが走る。
「ぐ、ふ……っ! な、なんだこの……大気汚染物質を煮詰めて、唐辛子で味付けしたような臭気は……!」
ジンが顔を顰め、無意識に鼻を覆った。
解析開始。
ベースにあるのは、B4F特有の、腐った卵とドブ川のヘドロをミキサーにかけて三日三晩放置したような、ねっとりとした腐敗臭。
だが、その上に乗っかっているのは、食欲を土足で踏みにじるような強烈な「ニンニク」の刺激と、鼻孔の奥を直火のバーナーで炙るような「スパイス」の狂乱だ。
生存本能が「逃げろ、死ぬぞ、肺が溶けるぞ」と警報を鳴らす汚物臭。
しかし、胃袋の奥底に眠る野性が「食え、抗うな、それは生命の源だ」と咆哮する芳醇な香り。
最悪の毒ガスと、最高の麻薬が混ざり合った、矛盾するマリアージュ。
「ぎゃあああ! 鼻が! 幽霊の鼻(概念)が根元からへし折れるレベルの悪臭よ! 何これ、死体でキムチでも漬けてるの!? それとも魔獣の体液でトムヤムクン作ったの!? 霊体のフィルターを通り越して脳に直接カプサイシンが突き刺さるんだけど!!」
スクイージーから飛び出したマシロが、空気のないはずの霊体で鼻を摘まみ、のたうち回る。
その姿は、まるで殺虫剤を浴びた蚊のようにたどたどしい。
水槽の中のレオも、循環ポンプをフル回転させながら絶叫していた。
「騎士として……この……この異臭だけは、精神的陵辱に近い! 肌が……肌がニンニク成分でピリピリして、不覚にも食欲が湧いてくるぅぅ! 高潔なる騎士の誇りが、空腹という名の生理現象に屈服するぅぅ! 誰か白米を持ってこい! いや、持ってこないでくれ!」
霧の向こう側。
泥をかき分け、センターがその「熱源」に肉薄した時、一同の視界に映ったのは、救助信号などではなかった。
ボロボロに煤け、今にも消えそうな不吉な朱色を灯した、一対の「赤提灯」。
そして、底なしの泥沼の上に強引に浮かべられた、ガラクタとモンスターの甲殻を継ぎ接ぎした異様な構造体――「中華屋台」だった。
「あぁっ! 火力が足りない! 火力がァ! 誰だ! そこにいるなら今すぐ俺の背中に着火しろ! このスープの出汁(魔獣のキモ)が、一気に酸化して『ゴミ』になるだろうがァァ!」
泥の中から現れたのは、かつては白かったであろう、今は泥と油と返り血にまみれたコックコートを纏った男。
ワン・チャン。
彼は押し寄せる小型魔獣「ポイズン・フロッグ」の群れを、巨大な中華鍋の底でテニスのラケットのように打ち返し、空中で爆散させながら、もう片方の手でお玉を狂ったように振り回していた。
【時間の凍結:狂気の厨房】
物理的な時間は、コンマ数秒の静止画へと変わる。
飛び散る魔獣の紫色の粘液が、屋台のランプに照らされて、毒々しいネオンサインのような放物線を描く。
スローモーションの世界で、粘液の一滴一滴が、宝石のように煌めきながら泥沼へと落下していく。
ワン・チャンの足元では、底なしの毒沼が彼のブーツを、そして剥き出しの皮膚を「ジュウウゥゥ」と音を立てて溶かし始めている。
皮膚が爛れ、真皮が見え隠れするほどの激痛のはずだ。
だが、彼の瞳は、自分の四肢の消失など一ミリも見ていなかった。
(あと……0.05秒……! ここで鍋を返さなければ、グルタミン酸の結合が崩れる……!)
彼の全神経は、中華鍋の中で黄金色(だが、底には不気味な紫色の澱みがある)に輝くスープの一滴に集中している。
顎から滴る汗が、真っ赤な炎に照らされて、蒸発する瞬間の「ジュッ」という音が聞こえるほどに熱い。
その顔は、聖者というよりは、地獄の最下層で「究極の炒飯」を作るまで出られない刑罰を受けた罪人のようだった。
「おい、死にぞこない。……加勢してやるから、その鍋の中身、一旦捨てろ。死ぬぞ」
ジンがセンターの扉を蹴り開け、泥の中に飛び出した。
手には、980円の「聖剣」スクイージー。
「捨てるだと……!? 貴様、今なんと言った! これは、このB4Fでしか獲れない『未練まみれのワームの心臓』を120時間煮込んだ、俺の魂そのものだ! 邪魔をするならお前を細切れにして具材にするぞ!」
その瞬間、泥沼の底が大きく盛り上がった。
この階層の真の主、巨大魔獣「マッド・リヴァイアサン」が、屋台ごとワンを飲み込もうと巨大な口を開く。
その口内からは、数千の冒険者を飲み込んできたであろう、圧倒的な死臭が漂う。
「ジン! 危ない!」
「…………掃除の時間だ」
【能力発動:魔力的水切り】
ジンがスクイージーを抜き放つ。
背中の炭化組織が、限界を超えた過負荷に「パキィッ!」という、乾いた真冬の倒木が折れるような悲鳴を上げた。
物理的な時間は再び停止し、ジンの感覚だけが異常加速する。
【心象風景の投影と走馬灯】
世界から「色」が剥がれ落ちる。
毒々しい緑も、泥の茶色も消え、視界はモノクロの線画へと変わる。
唯一の色彩は、背中の神経を焼き尽くす「赤」と、スクイージーから溢れるマシロの霊力の「青」だけ。
(……ッ、が。……痛ぇな、クソ)
皮膚の下で毛細血管が弾け、熱い魔力が傷口から直接漏れ出す感覚。
それは、五年前の事故で瓦礫の下敷きになった時の、骨が軋む音を思い出させた。
あるいは、先週食べた激辛ラーメンの翌朝の腹痛か。
いや、もっと鋭利だ。
(あー……回想シーン、長すぎ。これ、絶対コミカライズ版で、見開き2ページ使って背景トーン貼りまくるやつだろ。作画担当の腱鞘炎が心配になるわ。尺稼ぎ乙……)
極限の苦痛の中で、ジンは自分の意識にメタな毒態を吐く。
痛みを「物語の演出」として客観視しなければ、脳がショック死してしまうからだ。
思考の脱線。今日の夕飯は流動食がいいな、とか、そういえばトイレットペーパーの在庫あったっけ、とか、どうでもいいノイズが脳内を駆け巡る。
「……らァッ!!」
ジンは、もはや自分のものかどうかも定かではない「右腕という名の肉塊」を、ただ物理的な落下エネルギーに従って振り下ろした。
マシロの全霊力を乗せた「水切り」の一閃は、泥の津波だけを狙わなかった。
それは、リヴァイアサンが纏う「魔力的な汚濁」そのものを、世界から綺麗に拭き取った。
ズバァァァァァァァァァァン!!
轟音と共に、泥の巨体が霧散する。
ヌシは、その存在の「汚れ」を消去され、ただの無害な泥の塊へと還っていった。
「……ふんっ。……掃除、完了だ」
ジンは鼻から垂れる、鉄の味のする鮮血を手の甲で拭った。
肺が痙攣し、酸素をうまく取り込めない。
だが、その安堵の隙を、ワン・チャンは見逃さなかった。
「よくやった! だが火加減が3秒ズレた! お前のせいでこのスープは今、『究極』から『至高』にランクダウンしたんだよ! 責任を取ってこれを食え!」
「……は? ちょ、待て、おま――」
抵抗する間もなかった。
【無意識のマイクロジェスチャー】
ワンが差し出した、煤と脂にまみれたお玉が、ジンの口の中に無理やり突っ込まれる。
ジンの喉の筋肉が反射的に強張り、喉仏が大きく上下する。
肺が酸素の代わりに、灼熱の「熱」を吸い込む。
「……あ、ついぃ……ッ!!」
【味覚の爆発:火傷の真実】
喉を焼くような、溶岩を直接食道に流し込まれたかのような、激痛に近い辛さ。
カプサイシンが食道の粘膜を焦がし、胃袋に着地した瞬間、爆弾のように熱が拡散する。
だが、その奥から。
死を覚悟した脳が、最後の一滴まで放出する快楽物質のような、圧倒的な「旨味」が押し寄せる。
(……あ、これ、死んだ親父が言ってた『死ぬ前に食いたい一皿』の答えかも……。いや、これ食ったら死ぬだろ普通……)
意識が白濁し、ジンの視界には一瞬だけ、穏やかな午後の縁側と、三毛猫が横切る平和な幻影が浮かんだ。
だが、すぐにそれは「激辛麻婆豆腐の雨が降る処刑場」へと上書きされた。
不整脈を起こした心臓が、肋骨の内側を激しくノックする。ドックン、ドックン、と早鐘を打つ。
「……ッ、ハァ、ハァ……。なんだこれ……不味い、不味すぎて……美味い……。脳がバグって、味蕾が全部退職届出そうとしてるぞ……」
ジンは目から熱い涙を流しながら、泥沼に膝をついた。
痛みと、辛さと、そしてあまりに濃密な「未練」の味。
味覚の暴力によって、一時的に背中の痛みを忘れるほどだった。
「気に入ったか? だが、これはまだ試作だ。俺の本当の料理を完成させるには、B100Fにある伝説の食材が必要なんだ」
ワン・チャンは、ヌシを消去したジンの実力を認め、泥まみれの顔で不敵に笑った。
歯だけが、異様に白く輝いている。
彼はセンターの背面に、自分のガラクタ屋台を勝手に連結し始めた。
その手際たるや、熟練のピットクルーのように素早い。
「今日から俺をこの『動く粗大ゴミ』に乗せろ! 運賃は、俺の料理で払ってやる。不満があるなら、今ここでこのスープを全弾お前の鼻の穴に直撃させてやるぞ。鼻腔から脳まで消毒してやる。ついでに前頭葉もスパイスで活性化させてやろうか?」
「……いいぜ。死に急ぎ野郎が、もう一人増えただけだ。賑やかすぎて、三途の川の船頭も乗車拒否するレベルだな」
ジンは、舌の痺れと背中のズキズキとした拍動に耐えながら、立ち上がった。
ふらつく足取りでセンターのハッチに手をかける。
「その代わり、一度でも不味い飯を出してみろ。お前をスクイージーのゴムに挟んで、B100Fまで地面のモップ代わりに引きずり回してやる。摩擦熱でこんがり丸焼きにしてやるからな」
「ケッ。言ってろ。俺の鍋を不味いと言った奴は、全員この沼の底で肥料になってるよ」
泥沼の静寂の中に、再び中華鍋の「カン、カン!」という不気味で軽快な金属音が響き渡る。
暴走特急となったセンターに、地獄のシェフが君臨した。
センターの食卓が、新たなる戦場へと変わる。
一行は、泥臭い風を切り裂き、さらなる深淵へと加速していく。
ジンの背負った懐中時計の音が、心なしか、また少しだけその刻みを速めたような気がした。
「……さて、晩飯の時間だ。覚悟はいいか、野郎ども?」




