第92話:懐かしの(忌まわしき)湿地帯
「おいネオンォォォ!! 説明しろォォォ! なんでこの家のシートベルト、粘着力も怪しい『ガムテープ』一本なんだよォォォ!! 事故物件どころか移動式処刑場じゃねえか!!」
「……低予算と、徹底した軽量化……そして『管理人の命の軽さ』を正確に数値化した結果です。文句があるなら、自分の背中に接着剤でも塗って、壁に直接固定されててください……あなたの短い余命と一緒に」
「死ぬわ! 物理的に背中の皮が剥がれて余命が『今この瞬間』に短縮されるわ!! 接着剤で解決するなら、俺の背中の炭化も全部くっつけて治してくれよ!!」
ダンジョン遺失物管理センター(B3F発、地獄行き暴走特急)の車内は、もはや阿鼻叫喚の地獄絵図、あるいは物理法則への挑戦状と化していた。
B3Fのゲートを、音速に近い加速で「突き抜けた」センターは、現在、重力という名の無慈悲な独裁者に支配され、B4Fへと続く垂直通路を落下している。
ドゴォォォォン!! という衝撃と共に、センターの外壁が階層の壁面に接触し、激しい火花を散らす。
摩擦熱で壁紙が焦げる匂いと、ネオンのPCがオーバーヒート寸前で吐き出す熱風が混ざり合い、車内の空気は「茹で上がる寸前のサウナ」のようだ。
「ぬおわあああああ!! Gが! 騎士を、高潔なる騎士を押し潰すほどの重力がァァァ!! 身体が……身体が平らになって、煎餅になってしまうぅぅぅ!!」
水槽から慣性で飛び出した剣崎レオ(30cmの巨大オタマジャクシ)は、フロントガラスに「ベチャッ」と、まるで子供が全力で投げつけたスライムのように張り付いていた。
水のない環境。剥き出しの皮膚。本来なら致命的だが、レオは「ぬ、ぬぬ……。窓の外に見える泥の湿気が、私の肌を……騎士の誇りを潤していく……! 不覚ッ、不覚だがこのヌメヌメ感、悪くないぞぉぉ!」と悶絶している。
「うるせえおたま! 窓を汚すんじゃねえ! ……ネオン、ブレーキだ! どこかに引っ掛けて止めろォォ!!」
「……言われなくても、やってま――」
ネオンが、七色に光るゲーミングキーボードの『Enter』キーを、親指の骨が軋む音と共に叩き込んだ。
その瞬間。
ズ、ズズズズズズゥゥゥゥン!!
激しい衝撃と共に、センターの「家底」が何かに激突した。
いや、激突というには、あまりにも粘り気のある、不快な感触。
窓の外を一瞬で覆い尽くしたのは、腐ったアボカドを煮詰めたような、毒々しい深緑の液体――泥だった。
「…………止まったか」
ジンは、ガムテープが引きちぎられ、操縦席の下にゴミのように転がり落ちた状態から、這い出した。
窓の外を見る。
そこには、見渡す限りの毒々しい緑の霧と、底なしの泥沼。かつて第1巻でマシロと出会い、共に死線を潜り抜けた「B4F・湿地帯」が広がっていた。
ジンは、震える手で窓を少しだけ開けた。
瞬間、入り込んできたのは、噎せ返るような生臭い泥の匂い。
その「嗅覚」への侵入をトリガーに、ジンの脳内で、強制的な【縦への脱線】が始まった。
【走馬灯:泥の中の敗北】
時間は、五年前のさらに前。
まだジンが、この世界を「掃除」する側ではなく、誰かに「掃除」される側……運び屋の見習いだった頃の記憶。
この湿地で、彼は足を滑らせ、預かっていた「魔導貴族の香水セット」を泥沼にぶちまけた。
当時の雇い主――脂ぎった顔の男が、ジンの後頭部を、今と同じこの泥の中に力任せに押し付けた。
(……この感覚。知ってる)
鼻孔に侵入する泥の粒。口の中に広がる、鉄とカビが混ざったような不快な味。
「いいか、ゴミ屑。お前の汚い命より、この荷物一瓶の方が、遥かに高いんだよ。……その泥を啜って、一生かけて償いやがれ」
冷たい泥の中で、ジンの自尊心はボロボロと崩れ、この沼の底へと沈んでいった。
あの時、心と一緒に飲み込んだ泥の味が、今のジンの喉を、数年の時を超えて再び不快に締め付ける。
(……あー、やめだやめだ。尺稼ぎの回想シーンにしては、あまりにも後味が悪すぎる……。読者が離脱するだろ、こんな陰気なシーン……)
ジンは、胃の底から込み上げる酸っぱい何かを、ガリリと安物のミントタブレット(100円、大容量パック)を噛み砕くことで強引に押し流した。
精神安定剤? いや、ただの安物だ。だが、今の彼には、この安っぽい人工的な刺激だけが、過去から現実へと自分を繋ぎ止めるための唯一の命綱だった。
「ジン、外! 何か来るわよ! モヤモヤしたのがいっぱい!」
スクイージー(980円)の中に憑依していたマシロが、ゴムの隙間から、霊波を乱しながら叫んだ。
泥沼の表面が、ボコボコと不気味な泡を立て始める。
現れたのは、B4Fの捕食者――『マッド・ワーム』の群れだ。
数メートルに及ぶ巨体、全身をヌルヌルとした粘液で覆い、中心には一万本の牙を備えた口が蠢いている。
「ネオン、ピコ! 外装のスパイクを作動させろ! ……俺は、ちょっと『掃除』してくる」
ジンは、届いたばかりの980円のスクイージーを手に取り、センターの扉を蹴り開けた。
「……ジン! 無理しないで! あなたの背中、もう限界だって私には分かってるんだから! 痛覚、繋がってるのよ!?」
「うるせえよ。幽霊は黙って武器の精霊(笑)でもやってろ」
ジンが泥の上に降り立った。
ズブッ、と足首まで泥に沈む。
瞬間、待ってましたと言わんばかりに、背中の炭化組織が「爆音」を上げた。
【時間の凍結:一振りの代償】
ジンが、スクイージーを上段に構える。
物理的な時間は、コンマ02秒。
だが、ジンの意識の中では、世界は停止した。
舞い上がる泥の粒が、中空で琥珀のように固まる。
ワームの粘液が飛び散る放物線が、一本の銀色の糸に見える。
ジンの鼓動だけが「ドクン……ドクン……」とセンターの大型エンジン音より大きく、耳朶を打つ。
(……一回だ。一振りで、全部掃除する。二回目は……ない)
背中から、焼けた鉄板を直接神経に押し当てられたような熱が広がる。
それは単なる痛みではない。ジンの命そのものが、神経という名の導火線を伝って、指先へと流れ込んでいく感覚だ。
【心象風景の投影】
ジンの視界から、急速に「色」が消えていく。
毒々しい緑の霧も、マシロの霊体の青さも。
世界は一瞬にして、白と黒だけの、極彩色の絶望へと反転した。
音が遠のく。ネオンの叫び声も、ピコの重機の音も、まるで水中から聞いているように篭り、消失する。
(……この感覚。あの時と同じだ)
脳が、再び現実逃避の検索エンジンを回す。
「痛み 最大級 連想」
ヒットしたのは、子供の頃、親に黙って食べた激辛カレーの腹痛。
いや、違う。もっと冷たくて、鋭くて、救いのない……。
(あ、そうだ……。五年前の、あの瓦礫の重さと……同じだ)
意識を現実に繋ぎ止めるためのメタなツッコミすら、脳内のエラーログで埋め尽くされていく。
「尺稼ぎ乙」「回想長すぎ」「主人公補正、早く来いよ」
自分の声すら、遠い霧の向こう側の出来事のように感じる。
代償:『全感覚の剥離』。
「……らァッ!!」
ジンは、もはや自分のものかどうかも定かではない「右腕という名の棒」を、ただ物理的な落下エネルギーに従って振り下ろした。
スクイージーに憑依したマシロが、ジンの命の火花に応えて、この白黒の世界を切り裂くような青白い光を放つ。
ズバァァァァァァァァァァン!!
それは、切断ではなかった。
「掃除」だった。
スクイージーのゴムの刃が描いた軌道上の「物質」――泥も、有害な霧も、そして一万の牙を持つワームの肉体さえもが、まるで窓ガラスに付着した薄汚い指紋を拭き取るように、世界から「消去」された。
物理演算を無視し、そこに「存在しなかった」ことにされる、絶対的な一掃。
数秒後。
ジンの視界に、ゆっくりと不快な「現実の色」が戻る。
目の前の泥沼には、センターの前方数百メートルに渡って、不自然なほど綺麗な、磨き上げられた鏡のような「道」が一本、描き出されていた。
「……はぁ、はぁ……ッ。……ケッ。980円にしては、いい仕事しやがる……」
ジンは、震える膝を、スクイージーの柄を杖にして支えた。
鼻からは、どろりとした一筋の鮮血が垂れている。
口の中に広がるのは、もはや泥の味ではない。
自分の生命力が漏れ出したような、熱い鉄の味だ。
「ジン! 大丈夫!? 今、一瞬だけあなたの魂、消えかかってたわよ!」
マシロがスクイージーから飛び出し、半狂乱でジンの肩を支えようとする。
だが、やはりその手はジンの実体のある体を無情にすり抜け、彼が今抱えている孤独を、これ以上ないほど残酷に強調するだけだった。
「……問題ねえよ。ただの貧血だ。……それより、マシロ。お前、何か感じねえか?」
「え……?」
ジンが、血の混じった鼻を、クンクンと動かした。
泥の生臭い匂い、腐敗した霧の臭い。
その最悪な環境臭の中に、突如として、異質な「香り」が混ざり込んできた。
それは、肉を焦がす香ばしい、暴力的なまでの匂い。
何十種類ものスパイスが、高温の油の中で躍動し、胃袋を直接掴んで揺さぶるような香り。
「……なんだ、この匂い。死体が腐った後に、最高級の麻婆豆腐でも作ったのか? それとも、俺の脳が完全にバグって、天国のバイキングを幻視し始めたか?」
「違うわ……。ジン、見て! 霧の向こう、あの道の先!」
マシロが指差す先。
一掃された泥の道の突き当たり、底なしの沼の上に。
ガラクタと、巨大モンスターの甲殻を継ぎ接ぎして作られたような、異様な「屋台」が浮かんでいた。
カン、カン、カン、カン!!
霧の奥から響いてくるのは、規則正しい、軽快な金属音。
それは、中華鍋を叩くお玉の音だった。
「……いらっしゃい。ちょうど、いい『未練』が手に入ったところだ。……食っていくか?」
泥沼の向こう側から、掠れた、だがどこか楽しげな声が響く。
ジンの顔から、冗談のような笑みが完全に消えた。
「……おいおい、嘘だろ。こんな泥の掃き溜めに……『王』が住んでやがるのか」
B4F、腐敗した泥沼地帯。
そこで一行を待っていたのは、敵でも、遺失物でもない。
この世で最も「臭くて美味い」料理を作る、狂った料理人だった。
センターが、再びゆっくりと、その中華鍋の音に誘われるように動き出す。
B100Fへの道は、まだ始まったばかりだ。




