第90話 プロローグ:お通夜の後に、死に急ぎ野郎は笑う
ダンジョン遺失物管理センター、地下三階(B3F)。
そこは、地上で「価値がない」と判定されたガラクタが、重力と忘却に従って流れ着く、世界の吹き溜まりだ。
いつもなら、換気扇の回る音が「生きている証」のように聞こえていた。
だが、今朝のそれは、死体を解剖するメスの音に近い、無機質で、薄ら寒い響きを帯びている。
キュル……キュル……。
油の切れたベアリングが悲鳴を上げるたび、食堂の壁にこびりついた古いカビの匂いが、湿った空気と共に肺の奥へと侵入してくる。
「…………」
食堂の長机。
そこには、かつて「爆破魔」の異名で恐れられたツムギも、電子の海を支配するネオンも、まるで精巧に作られた石像のように固まっていた。
ネオンは、いつもなら体の一部のように叩き続けているノートPCを、ただの黒い板として膝に乗せている。
電源の落ちた画面には、青白い顔をした自分の幽霊のような表情が映り込んでいる。
彼女の指先は、まるで凍りついたかのように、キーボードの一段目に置かれたまま、ピクリとも動かない。
「……ねえ、ピコ」
絞り出すようなネオンの声に、隣に座るピコは反応を示さなかった。
毒舌の天才である彼女の口は、今は重く閉じられている。
その視線の先にあるのは、皿の上に置かれた、カサカサに乾いた食パンの耳だ。
「……喋りかけないで。今、パンの耳の表面にある気泡の数を数えてるの。……一、二……百四……」
その声には抑揚がなく、まるで壊れた機械のログ出力のようだった。
毒を吐くためのエネルギーすら、昨日の「ヤクモの宣告」という猛毒によって、根こそぎ奪い去られたらしい。
テーブルの端に置かれた水槽。
そこでは、本来なら「騎士道精神とは!」「管理人の飼育環境に対する誠意とは!」と朝から五月蝿いほどに吠えるはずの剣崎レオが、その三十センチという巨大なオタマジャクシの体を、底の砂に深く埋めていた。
エラが力なく動くたび、小さな気泡が寂しげに水面へ昇り、パチンと弾けて消える。
その小さな破裂音すら、今のこの沈黙の中では、鼓膜を突く爆音のように響いた。
誰もが、昨日聞いた言葉を、飲み込めない毒薬のように口の中で転がしていた。
『黒鉄ジン。君の余命は、長くて半年だ。……背中の炭化は、もう神経の根元まで食い込んでいる』
冷徹な死神、ヤクモが突きつけた、あまりに救いのない終止符。
その重苦しい沈黙を、不快な「音」が暴力的に引き裂いた。
「ズ、ズズーッ……。あー、苦。なんだ今日の茶、いつもより出涸らしじゃねえか。あのヤクモの野郎、茶葉の予算まで自分の酒代に回してやがるな?」
鼻歌混じりに、誰よりも「いつも通り」の、だらしない足取りで現れたのは、死刑宣告を受けた当本人。
黒鉄ジンだった。
彼はボロボロになった数日前の新聞――それも、誰が読み捨てたかもわからない、コーヒーのシミがついた古新聞――を広げ、何がおかしいのか「ケケッ」と乾いた、砂を噛むような笑い声を上げた。
淹れたての茶からは、焦げたような、それでいてどこか鼻につく安っぽい苦い匂いが漂う。
それはジンの背中にある「焼けた肉」の臭いを連想させ、マシロは思わず自分の胸元を強く握りしめた。
「……おいおい、なんだよお前ら。そんな顔して。誰か死んだのか?」
ジンは新聞の端を少しだけ下げ、死んだ魚のような、しかしその奥に冷徹な炎を宿した瞳で、凍りついた一同を見渡した。
「葬式の練習なら俺が棺桶に入ってやろうか? ちょうど腰の具合が悪くてよ、横になりたかったんだわ。香典は五円チョコな。穴あきは縁起がいいだろ? あの世まで見通せるってな」
「…………っ!」
食堂の空気が、一瞬で沸騰した。
不謹慎を通り越して、もはや狂気に近いジョーク。
誰もが息を呑み、言葉が喉に張り付いて出てこない中で、一人の少女の肩が、激しく、痛々しいほどに震えた。
「……バカ」
マシロだった。
ジンの傍らに浮遊する彼女の霊体は、いつもより輪郭がぼやけ、今にも霧に溶けてしまいそうなほど透き通っている。
彼女は、自分の胸をかきむしるようにして、震える声で絞り出した。
「バカ、バカ、バカ……! 笑えない。一ミリも笑えないから、そのクソ寒いギャグ……! 滑りすぎて地下三階を通り越して地獄まで突き抜けてるわよ、このクソ管理人……!」
マシロは、誰よりも鮮明に「視えて」いた。
ジンの背中で、今この瞬間も、炭化した皮膚がピリピリと音を立てて崩れ落ちるような、神経を直接炙られるような激痛が走っていることを。
「共犯者」として痛覚を共有する彼女の脳内には、ジンの平然とした笑顔の裏で、のたうち回るような悲鳴が反響し続けている。
それを隠して、彼は笑っているのだ。
「……あ、主君。貴様、よせと言っているだろう……ッ!」
水槽から、ボトッ、という重く湿った音とともにレオが這い出した。
騎士としてのプライドも、見た目の滑稽さもかなぐり捨て、オタマジャクシの尾を必死に床に叩きつけ、のたうち回る。
「私の主君を、勝手に殺すような口を利くな! ……と言いたいが! 悔しいかな、現在の私の機動力では、棺桶の蓋を閉じることすら……どころか、この床の僅かな段差を越えることすらままならんのだァ! ぬおわあああ! ジィィィィン! 今すぐ撤回しろ! 私が、私が貴様の背中を毎日タワシで磨いてやれば、その炭も落ちるはずだ! 皮膚がなければ炭化もせん! そうだろう!?」
「おい待て、おたま。お前が磨いたら俺の背中がただの生肉になるだろ。それは余命半年どころか秒単位の命になるわ。お前は俺を救いたいのか殺したいのかどっちだ」
「誰がおたまだァァァ! この騎士レオ、主君を救うためなら殺すことも厭わん覚悟だ!」
「本末転倒なんだよカエル予備軍!」
レオがジンの顔面にダイブしようと必死に跳ねたが、重力という名の現実は無情だった。
ジンの足元で、虚しくベチベチと床を叩く音だけが響く。
そのドタバタ劇を、ジンはどこか遠い場所――例えば、もう自分がいなくなった後の光景――を見ているような、穏やかで、それでいて剃刀のように鋭利な目で見つめていた。
彼はゆっくりと、湯呑みをテーブルに置いた。
カツン、という小さな音が、食堂の喧騒を強制的に終わらせる。
ジンは椅子から立ち上がった。
その動作一つにすら、骨が軋むような、嫌な予感を感じさせる間がある。
「……まあ、聞いたろ。ヤクモの野郎に言われた通りだ。俺の賞味期限はあと半年。冬のボーナスを受け取る頃には、俺はここのゴミの一部として、誰かに掃き出されてる予定だ」
冷徹な事実。
ピコはパンの耳を握りつぶし、ネオンはカタカタと震える指を隠すように拳を握った。
「だからよ、半年でケリをつける」
ジンの声のトーンが、一段階下がった。
ふざけた空気は一瞬で霧散し、B3Fの薄暗いナトリウムランプが、彼の影を長く、化け物のように床に引きずる。
「B100F。このダンジョンの『底』まで、一気に行くぞ。これがいわゆる『死ぬまでにやりたい100のこと』ってやつだ。……まあ、俺にはそんなオシャレなリストを作るマメさはねえから、一個だけにした」
彼は懐から、一つの遺失物を取り出した。
『ガードナーの懐中時計(No.001)』。
止まったはずの秒針。だが、ジンの耳には、自らの心臓の鼓動と重なるように、チ、チ、チ……という爆弾のタイマー音が、狂おしいほどはっきりと響いている。
「俺たちの『居場所』を、この世で一番安全な場所に置く。……それだけだ。ダンジョンの最深部。あそこまで降りりゃあ、ギルドも、国も、ヤクモの注射器も届かねえ。誰も、何にも、俺たちの勝手を邪魔させねえ場所に、このクソ溜めを引っ越しさせる」
「っ、でも、ジン! あなたの体は……その背中は、動けば動くほど!」
マシロが駆け寄ろうとした、その時だった。
「……っ」
ジンの背中から、パキ、と何かが爆ぜるような音がした。
実際には音などしていない。それは、彼の壊れかけた神経が限界を超え、脳が見せた、あまりにリアルな幻聴。
だが、その瞬間、ジンの顔から一切の血の気が失せ、膝がガクンと折れそうになる。
視界が白濁し、平衡感覚が泥のように溶けていく。
「ジン!」
マシロが咄嗟に彼を支えようと、幽霊としての禁忌を犯すほどの勢いで手を伸ばす。
しかし、彼女の手は、まるで水面に触れるように、ジンの肩をすり抜けた。
実体のない幽霊と、崩れ落ちる肉体。
その残酷なまでの距離が、二人の間に埋めようのない溝として横たわっている。
ジンは歯を食いしばり、床に手をつく寸前で、自分の太ももを拳で思い切り殴りつけた。
「……ッ、がッ!」
強制的に新しい痛みを発生させ、脳をバグらせ、無理やり体を直立の状態へと引き戻す。
額からは大粒の脂汗が流れ、呼吸は獣のように荒い。
それでも、彼は笑った。
「……文句があるなら、今のうちに言え。……今の俺は、誰の意見も聞く気はねえがな」
立ち上がったジンの瞳には、もはや迷いも、死への恐怖もなかった。
絶望に極彩色の色を塗り、狂気という名のペンキで乱暴に塗り潰したような、凄絶な、そしてどこか晴れやかな笑み。
「……ねえな? よし、決まりだ。今日からここは『遺失物管理センター』じゃねえ。B100F直行、片道切符の『暴走特急』だ。乗り遅れた奴は、地上で指くわえて鼻垂らして見てな」
彼は、まるで日常のルーチンを再開するかのように、隅に置かれた古びたデッキブラシを手に取った。
その木製の柄には、彼の指の形に馴染んだ、無数の傷がついている。
「さて、まずは掃除道具の発注からだな。……マシロ、お前もいつまでも透けてねえで、在庫の確認してこい。幽霊の仕事は消えることじゃねえ、俺が地獄に落ちねえように、後ろから襟足掴んでることだろ?」
「……っ。……言われなくても、そうするわよ。あなたが死ぬまで、一秒たりとも離れてあげないんだから! 地獄の底までストーカーしてやるんだからね!」
マシロが強引に涙を拭い、ジンの背中にぴたりと、まるで影そのものになるかのように張り付く。
その姿は、守護霊というよりは、死神と運命を共にする共犯者の覚悟だった。
「……はぁ。まったく、うちの管理人は。余命宣告を『引っ越しの挨拶』程度にしか思ってないわけ?」
ピコが、ようやく握りつぶしたパンの耳を口に運び、呆れたように、しかしどこか誇らしげに口角を上げた。
「……最悪。でも、まあ……退屈なネットサーフィンよりは、刺激的かもね。B100Fのサーバー、私が乗っ取ってあげる」
ネオンがようやくPCを力強く開き、青白い光の中で高速のタイピングを開始する。
絶望のお通夜は終わった。
代わりに始まったのは、死をガソリンにして加速する、狂気のラストラン。
B3Fの湿った暗闇の中、止まったはずの懐中時計の音が、センター一同の心臓の鼓動と同調し、激しく、熱く、脈打ち始めた。




