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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
電子の海と、虚構の王子

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第87話:診断結果(カルテ)

世界で一番「死」に近い匂いは何かと問われれば、ピコ・デ・ガマは〇・一秒で即答できる。


 それは、真夏の炎天下で放置された生ゴミの腐敗臭でもないし、一週間風呂に入っていないオタクの汗の匂いでもないし、賞味期限が平成で切れている缶詰を開けた時のバイオハザードな刺激臭でもない。


 消毒液エタノールの匂いだ。


 清潔で、無機質で、冷徹で。

 あらゆる菌(生命)を殺菌(否定)するために精製された、人工的な死の香り。

 それが今、ダンジョン遺失物管理センターの生活空間を、猛毒のガスのように侵食していた。


「……う、ぐ、ぅぅぅぅ……ッ!!」


 分厚い鉄扉の向こうから、地獄の底から響くような呻き声が漏れた。

 それは、人間の声帯から発せられる音ではなかった。

 野生動物がトラバサミに足を挟まれ、逃げるために自らの肉と骨を食い千切る時の、断末魔と生存本能が混ざり合ったノイズ。


 ドサッ! ガシャン!

 何か重いものが暴れる音。パイプ椅子が壁に叩きつけられる音。


「……ッ!」


 廊下の隅で、ネオンがビクンと肩を跳ねさせた。

 彼女は体育座りのまま、膝に顔を埋め、両手で耳を塞いでいる。

 だが、無駄だ。

 彼女の脳(CPU)はあまりにも高性能すぎる。

 鼓膜を震わせる空気の振動パターン、壁を伝わる衝撃波、わずかに漏れ出る鉄錆(血)の匂い――それらの断片情報を統合し、壁の向こうで行われている惨劇を、4K解像度のAR映像として脳内で勝手にシミュレートしてしまうのだ。


(……切開音。メス、15番。……皮膚の弾力係数から推測、切開深度5ミリ。……焼灼音。タンパク質が変性する音。……あ、いま、神経に触れた……)


 ネオンの身体が、小刻みに震える。

 想像上の痛みが、幻肢痛となって彼女自身の背中を駆け巡る。

 胃酸が逆流する。

 喉の奥が引きつり、呼吸がヒューヒューと音を立てる。


 その隣で、ピコは立ち尽くしていた。

 壁に背中を預け、腕を組んでいる。

 一見すると冷静に見えるかもしれない。だが、その上腕二頭筋には青筋が浮かび、爪が皮膚に食い込んで血が滲んでいる。


(……長い。長すぎる)


 ピコの体内時計が狂い始めていた。

 物理的な時間は、ヤクモが部屋に入ってからまだ三十分も経っていないはずだ。

 だが、ピコの感覚では、もう三億年くらいこの廊下で立っている気がする。

 大陸移動説プレートテクトニクスが目で見てわかるレベルの時間の遅延。


「……おい、作者」


 ピコは、焦点の合わない目で天井のシミを見つめ、乾いた唇を動かした。


「……SE(効果音)だけで尺稼ぐのやめろよ。『グチャ』とか『ジュッ』とか、文字で見るだけで吐き気がするんだよ。これ、コメディ作品だろ? なんで『SAW』みたいなホラー展開やってんだよ。ジャンル詐欺で訴えるぞ」


 メタ的なツッコミを入れて、必死に「フィクションの壁」を維持しようとする。

 そうでもしないと、現実の重みに押し潰されてしまいそうだからだ。


 その時。


 ドンッ!!!


 部屋の中から、ひときわ大きな衝撃音が響いた。

 何かが爆発したような、あるいは巨大な質量が床に叩きつけられたような音。


「……!」


 ピコの身体が、思考より先に動いた。

 恐怖? 嫌悪? そんなものは後回しだ。

 彼は吸い寄せられるようにドアに近づき、わずかに開いていた隙間――数ミリの空隙に、片目を押し当てた。


 そして、見てしまった。


 視界に入ってきたのは、地獄の解剖図だった。


 来客用のソファに、うつ伏せになった男がいる。ジンだ。

 だが、その背中は、ピコの知っている人間の背中ではなかった。

 

 黒い。

 とにかく黒い。

 炭化し、ひび割れた皮膚。その亀裂から覗くのは、赤い筋肉ではなく、コールタールのようなドス黒い粘液。

 それは「怪我」ではない。「呪い」という名の汚染物質が、彼の肉体を侵食し、細胞の一つ一つを食い荒らしている光景だった。


 その背中の上に、白衣の男――ヤクモが馬乗りになっている。

 手には、銀色に輝くメスと、禍々しい紫色の光を放つ魔導器具。


「……動くなと言ってるだろう。脊髄反射で暴れるな」


 ヤクモの声は、絶対零度のように冷徹だった。

 彼は、ジンの背中から壊死した組織を削ぎ落とし、そこに魔導器具を突き立てる。


 ジュワァァァァァッ!!


 肉が焼ける音。

 いや、魂が焦げる音だ。


「が、ァ……ッ、ぐ、うゥゥゥッ!!」


 ジンが、シーツを鷲掴みにした。

 指関節が白く変色し、バキバキと音を立てる。

 鋼鉄製のパイプフレームが、飴細工のように歪んでいく。

 全身の筋肉が波打ち、毛穴という毛穴から脂汗が噴き出し、瞬く間にシーツを濡らしていく。


 痛い。

 痛い、痛い、痛い。

 見ているだけで、ピコの網膜が焼け焦げそうだ。


 麻酔? そんな洒落たものはない。

 これは物理的な外科手術ではなく、呪いの切除だ。

 魂にこびりついたアスファルトを、ワイヤーブラシで無理やり擦り落とすような所業。

 意識がある状態でなければ、魂の拒絶反応でショック死するという、狂った理屈の手術。


(……これが、ボスの背中?)


 ピコは息を止めた。

 いつも、自分たちの前に立って守ってくれていた背中。

 広くて、頼りがいがあって、絶対に倒れないと思っていた鉄壁の盾。

 その裏側が、こんな、虫食いだらけのボロ雑巾みたいになっていたなんて。


「……あ、あ……」


 ピコの喉から、引きつった音が漏れる。

 走馬灯が見えた。

 出会った日のこと。

 焼肉を奢ってもらったこと。

 「給料分は働け」と背中を叩かれた時の、あの掌の重み。

 

 ――全部、嘘だったのか?

 あんなに平気な顔をして。

 あんなに強そうなフリをして。

 中身はとっくに、ガランドウだったのか?


 カラン……。


 金属音が響いた。

 ヤクモが、血と膿にまみれたメスをトレーに放り投げた音だ。


「……処置終了オペ・コンプリート。……生きてるかい、モルモット君」

「……殺す気か、クソ医者……。地獄の方が、まだ空調が効いてるぞ……」


 ジンの声は、砂利をミキサーにかけたように掠れていた。

 彼はそのまま、糸が切れた操り人形のように脱力し、意識の沼へと沈んでいった。

 痙攣する指先だけが、まだ痛みの余韻を訴えている。


 ***


 ガチャリ。


 ドアが開く音が、ピコの心臓を直接殴りつけた。

 ヤクモが出てきた。

 白衣は鮮血でスプラッター映画のような模様を描き、ゴム手袋からはポタポタと赤い液体が滴り落ちている。

 その顔には、疲労の色と共に、ある種の「諦め」が張り付いていた。


「……趣味が悪いね。屠殺場の見学かい?」


 ヤクモは、廊下に立ち尽くす二人を見下ろし、眼鏡の位置を指一本で直した。


「……うるせェよ」


 ピコは睨み返した。

 だが、声が出ない。声帯が萎縮している。

 足が震えて、膝の皿がカスタネットのように音を立てているのが自分でもわかる。


「……ジンは、大丈夫なのか。……あれで、治ったのかよ」

「『大丈夫』の定義によるね」


 ヤクモは淡々と言った。

 彼はポケットから煙草を取り出そうとして、ここが禁煙(ネオンの精密機器保護エリア)であることを思い出し、舌打ちをして箱ごと握り潰した。クシャリ、という音が妙に大きく響く。


「今日死ぬことはない。だが、明日死なない保証はない。……そういうレベルの『大丈夫』だ」


「……は?」


「見たかい? あれが『正義の味方』の末路だ」


 ヤクモは、ドアの向こうで死体のように眠るジンを顎でしゃくった。


「彼はね、他人の『未練』を背負いすぎたんだ。ダンジョンで死んだ有象無象の想い、呪い、怨念。それらを全部、あの背中で受け止めてきた。……結果が、あの中身の詰まったゴミ袋のような身体さ」


「……言い方、気をつけろよ。あいつはゴミ袋じゃねェ」


「事実だ。脊髄は炭化の一歩手前。魔力回路はショート寸前。……例えるなら、充電回数の限界を超えて膨らんだリチウムイオンバッテリーだ。いつ発火してもおかしくないし、爆発すれば周囲も巻き込む」


 ヤクモの言葉は、メスよりも鋭く、ピコたちの心臓を抉った。

 彼は、二人の顔を交互に見た。

 そして、裁判官が判決を下すように、無慈悲な事実を告げた。


「今回の戦闘――『ワールド・リセット』の阻止。あれで彼は、予備電源ライフまで使い切った」


 世界から音が消えた。

 ピコの鼓膜には、キーンという耳鳴りだけが響いている。

 時間が止まる。

 舞い上がる埃の一つ一つが静止画のように見える。


「寿命は縮んだよ。……あと一年。いや、早ければ半年かもしれない」


 ――半年。

 180日。

 4320時間。


 ピコの頭の中で、数字がグルグルと回った。

 半年?

 たったそれだけ?

 スマホの分割払いすら終わらないじゃないか。

 来シーズンのアニメの最終回も見られないじゃないか。


「……嘘、でしょ」


 ネオンが、空気が漏れるような音を立てた。

 彼女の顔色は、コピー用紙よりも白く、唇は紫色に震えている。


「私の……せいだ」


「……あ?」


「私が……私がヘマしたから。私が捕まったから。私がもっと早くハッキングできてれば……ボスは、あんな無理しなくて済んだのに……!」


 ネオンの瞳から、涙が決壊した。

 ポロポロと、大粒の雫がジャージの膝に吸い込まれていく。

 彼女の脳内では、自責のエラーログが無限ループし、思考回路を焼き切ろうとしている。

 

 ――エラー。エラー。

 ――原因:七色ネオンの存在。

 ――対策:該当オブジェクトの削除。


「……違う」


 ピコの声が、地の底から響いた。

 彼は、拳を強く握りしめていた。爪が掌に深く食い込み、肉を裂き、赤い血が滲む。

 痛い。

 でも、この痛みだけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。


「あいつは……知ってたんだ」


 ピコの脳裏に、記憶のフラッシュバックが炸裂する。

 出会った時のこと。

 「行く当てがねェなら、うちに来い」と言った時の、あの投げやりな表情。

 時折見せていた、遠くを見るような目。

 借金を返そうとせず、その日暮らしを続けていた理由。


 すべてが、一本の線で繋がった。

 

「知ってて、俺たちを拾ったのかよ。……自分がもうすぐ死ぬってわかってて、俺みたいな嘘つきや、ネオンみたいなコミュ障や、あんな面倒くさい連中を集めたのかよ」


 怒りが湧いてきた。

 マグマのような、ドロドロとした怒りが。

 それはジンに対する理不尽な怒りであり、そして何より、何も知らずにのほほんと「家族ごっこ」を楽しんでいた自分自身への、強烈な殺意に近い怒りだった。

 

「……あいつは、最期に『思い出作り』がしたかっただけか? それとも、俺たちに自分の死に水を取らせる気かよ……! ふざけんなよ……! 勝手に拾って、勝手に死ぬとか……そんな脚本シナリオ、クソ映画以下だろ……!」


 ドンッ!!


 ピコは壁を全力で殴りつけた。

 拳の皮が剥け、壁に赤いシミができる。

 痛い。痛い。

 でも、胸の痛みの方が一億倍マシだ。


「……感情的になるな。時間の無駄だ」


 ヤクモが、冷ややかに言った。

 彼は、壁に手をついてうなだれるピコと、過呼吸になりかけているネオンを見下ろし、眼鏡の奥の瞳をスッと細めた。


「彼を止めることは、僕にもできない。……医者として言わせてもらえば、彼は医学的にはとっくに死んでいる。心臓が動いているのがバグ(不具合)レベルの状態だ。それが動いているのは、単なる意地と、君たちへの執着だけだ」


「……執着?」


「ああ。彼はね、臆病者なんだよ」


 ヤクモは、自嘲気味に笑った。

 それは、同じ「持たざる者」としての共感を含んだ笑みだった。


「自分が死んだ後、君たちが路頭に迷うのが怖いんだ。社会不適合者のガキどもが、またドブ川に放り出されるのが耐えられないんだ。だから、死ぬ気で生きている。……自分の命を燃料にして、君たちの居場所センターという暖炉を燃やし続けている」


 その言葉は、ピコの心臓を直接掴まれたような衝撃だった。


 あの不愛想で、口が悪くて、金に汚いおっさんが。

 自分の命よりも、俺たちの明日を心配している?

 そんな、馬鹿な。

 そんな「イイ話」、キャラじゃないだろ。


「……馬鹿じゃねェの。……本物の、大馬鹿野郎じゃねェの……」


 ピコは、涙を拭わなかった。

 流れるに任せた。

 視界が滲んで、世界がぐにゃりと歪む。

 

 泣いている場合か?

 いや、泣いている暇があるなら、考えろ。

 今、自分たちにできることは何だ。

 奇跡の治療薬を探すことか? 違う。ヤクモが無理なら、神様でも無理だ。

 代わりに戦うことか? 違う。俺たちは弱い。ジンみたいにはなれない。


「……じゃあ、どうすればいいんだよ」


 ピコは、縋るようにヤクモを見た。

 この冷血漢なら、何か答えを持っているはずだと信じて。


「君たちの得意分野だろう?」


 ヤクモは、顎でピコのポケットに入っているスマホと、ネオンが抱えているノートPCを指した。


「記録しろ。記憶しろ。……彼が燃え尽きる、最期の瞬間まで」


 それは、医者からの処方箋ではなく、遺言の執行人への依頼だった。


「彼がここにいたこと。馬鹿みたいに足掻いて、血を流して、君たちを守ったこと。……その『生きたログ』を、誰よりも鮮明に残してやってくれ。……それが、彼に対する唯一の鎮痛剤だ」


 ヤクモはそう言い残すと、白衣の裾を翻して去っていった。

 カツ、カツ、カツ……。

 足音が遠ざかり、静寂が戻ってくる。

 後に残されたのは、重苦しい空気と、未熟な二人の子供たち。


 ズズッ。

 ネオンが、鼻をすする音。

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 泣き腫らした目は赤く充血し、グルグル眼鏡は涙で曇っている。

 でも、その瞳の奥には、小さな炎が灯っていた。


 パタン。

 彼女は、膝の上に乗せていたノートPCを開いた。


「……残す」


 彼女の声は、震えていたけれど、迷いはなかった。


「ボスのデータ……全部、保存する。……心拍数も、体温も、口癖も、あの背中の傷も。……1バイトも、ロストさせない。……私が、ボスの生きた証拠バックアップになる」


「……ああ」


 ピコもまた、震える手でスマホを取り出した。

 SIMカードのない、ただの記録媒体。

 画面にはヒビが入っている。今の彼らの心と同じだ。


 彼はカメラアプリを起動し、レンズをドアの隙間――眠っているジンの背中へと向けた。

 ピントが合わない。手が震えすぎて、オートフォーカスが悲鳴を上げている。


「映えねェな……」


 液晶画面の中のジンは、ボロボロで、弱々しくて、ちっとも格好良くない。

 ヒーローの姿ではない。ただの、傷ついた人間だ。

 

 でも。


「……でも、これが俺たちのボスだ」


 ピコは息を止め、脇を締め、震えを無理やりねじ伏せた。

 そして、画面上のシャッターボタンを押した。


 カシャッ。


 人工的なシャッター音が、静寂の中に響いた。

 その音は、まるで秒針が進む音のように、あるいは心臓の鼓動のように聞こえた。


 あと半年。

 カウントダウンは始まっている。

 もう、甘えている時間はない。

 もう、子供のままではいられない。


 彼らは、ジンの「死」という巨大な荷物を背負った。

 その重みで、膝が折れそうになる。

 けれど、彼らはもう、目を逸らさない。


 レンズ越しに見るジンの背中は、少しだけ滲んで、でも今までで一番鮮明に見えた。


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