第84話:通知の鳴らない朝
世界から「音」が死滅して、およそ六時間が経過した。
正確には、音そのものが消えたわけではない。風はビル風となって廃墟の隙間をヒューヒューと鳴らしているし、野良犬はどこかで遠吠えをしているし、ヤクモの靴底が砂利を踏む音は、鼓膜を直接やすりで削るような不快な周波数で響いている。
消えたのは、現代人の生命維持装置としての音だ。
スマートフォンの通知音。
SNSのタイムラインが更新される時の、あの小気味よい「シュッ」という効果音。
動画広告のやかましいBGM。
投げ銭が飛び交う時の、脳髄を直撃する電子のファンファーレ。
それらが完全に遮断された世界は、まるで真空パックされた宇宙空間のようだった。
重い。
空気が、鉛のように重い。
鼓膜の奥で、キーンという耳鳴りが、放送終了後のテレビ画面のように鳴り続けている。
「……あ、あ、あ……」
瓦礫の山に腰掛けたピコ・デ・ガマの指先が、痙攣していた。
その動きを、ハイスピードカメラで撮影したと仮定しよう。
彼の右手の親指は、一秒間に約十六回の速度で、虚空を縦にスワイプしている。
これは、彼が長年の配信活動で培った「タイムライン高速巡回」の動きそのものであり、無意識下に刻まれた条件反射であり、そして末期の禁断症状だった。
視界が歪む。
朝の爽やかな陽光が、ピコの網膜には不快なノイズとして変換される。
道端に落ちている空き缶が『新着メッセージ』のアイコンに見える。
揺れる街路樹の葉っぱが、すべて『いいね!』のハートマークに見える。
(更新……更新しなきゃ……。僕の『おはよう』ツイートのインプレッションはどうなった? リプライは? 引用リツイートでのクソリプは? ねえ、誰か僕を観測してよ。僕という存在を、数字で証明してよ……!)
呼吸が浅い。
酸素が肺に入ってこない。
まるで、Wi-Fiの電波がないと酸素分子が結合しない特異体質にでもなってしまったかのようだ。
ピコは、真っ暗なスマホの画面に映る自分の顔を見つめた。
死相が出ていた。
目の下のクマは、もはやクマという可愛い動物の名称で呼んでいいレベルを超えている。これは「目の下のブラックホール」だ。
「……おい、作者」
ピコは、焦点の合わない目で虚空を睨み、掠れた声で呟いた。
「……描写が、長い。冒頭から四百文字近く使って、僕が『震えてるだけ』ってどういうこと? 尺稼ぎ? 文字数水増し工作? そんなことしてる暇があったら、早くWi-Fiルーターの電源を入れて……」
「黙れ中毒者。今はシリアスな『静寂』の演出中だ」
背後から、冷ややかなツッコミが飛んできた。
ヤクモだ。
彼は、黒焦げになったジンを米俵のように背負いながら、ピコの頭を軽く小突いた。
「いいか、これはリハビリだ。お前らの脳味噌は今、情報の過剰摂取でフォアグラみたいに肥大化してる。少しは現実の解像度を上げろ。ほら見ろ、空が青いぞ。雲が白いぞ。感動しろ」
「……画質が荒い。4Kですらない。空の色コード、もっと彩度上げて……」
「ダメだこいつら」
ヤクモは深い溜息をついた。
その視線の先には、もう一人の重症患者――七色ネオンがいた。
彼女の状態は、ピコよりさらに深刻だった。
体育座りで硬直したまま、白目を剥いている。
だが、その指先だけは、見えないキーボードの上で「カマキリの求愛ダンス」のような複雑怪奇な動きを繰り返していた。
「……カチャカチャカチャ……ッターン! ……アクセス拒否? 馬鹿な。バックドアは確保したはず……くそっ、IP偽装が甘かったか……いや、これは物理層の切断……LANケーブルが……私のへその緒が……繋がっていない……」
ブツブツと呟かれる言葉は、もはや日本語ではない。機械語(マシン語)だ。
彼女の脳内では今、現実の風景の上に、AR(拡張現実)のように無数のウィンドウが展開されているのだろう。
エラーログの赤文字が視界を埋め尽くし、システムダウンの警告音が幻聴として鳴り響いているに違いない。
「……よし、行くぞ。ここに長居してると、俺まで『デジタル認知症』が伝染りそうだ」
ヤクモが歩き出す。
ピコとネオンは、ゾンビのようにふらふらとその後を追った。
***
ダンジョン都市の朝。
いつもなら、この時間は「通勤ラッシュ」という名の戦争が行われているはずだ。
無表情なサラリーマンたちが、スマホという名の盾を構え、満員電車という名の護送車に詰め込まれていく時間帯。
だが、今の街は異様だった。
まず、歩く速度(BPM)が遅い。
人々は、まるで重力が二倍になったかのように、ゆっくりと地面を踏みしめて歩いている。
そして何より――顔が上がっている。
「ねえ、これ見て」
ピコの視界の端で、若いカップルが立ち止まっていた。
女性の方が、道端の花壇を指差している。
「この花、こんな色だったっけ?」
「ああ……なんか、久しぶりに見たな。花なんて」
男が答える。
その会話には、「映え」を気にする様子も、「ストーリー」にアップするための動画撮影の気配もない。
ただ、網膜に映った光景を、脳で処理し、音声として出力しているだけ。
(うわぁ……生々しい)
ピコは鳥肌が立った。
フィルターのかかっていない現実。
加工アプリを通していない、毛穴まで見えるような高精細な世界。
それが、どうしようもなく不気味で、そして暴力的にピコの五感を刺激する。
風が頬を撫でる感覚。
遠くから漂ってくる、焼き立てのパンの匂いと、排気ガスの混ざった匂い。
自分の心臓が、トク、トク、と肋骨を内側からノックする音。
「……情報量が、多い」
ピコはフードを深く被り直した。
視覚情報過多で酔いそうだ。
普段、スマホの画面という「窓」を通してしか世界を見ていなかった彼にとって、360度全方位から押し寄せる「現実」は、情報の津波だった。
その時だ。
ピコの高性能センサー(自意識過剰とも言う)が、自身に向けられる「視線」を感知した。
ビクッ、と肩が跳ねる。
反射的に、脳内シミュレーションが走る。
――敵感知。距離、三メートル。前方。
――種別、人間。
――想定される攻撃パターン:スマホによる無断撮影、SNSへの即時アップロード、あるいは「握手してください」と言いつつ手汗を擦り付ける粘着攻撃。
(来るか……!?)
ピコは身構えた。
顔の筋肉を総動員して「営業用スマイル」の仮面を構築する。所要時間、〇・五秒。
口角よし。目尻のシワよし。好感度マックスの『国民の弟』モード、起動。
「あら、あんた」
声をかけてきたのは、老婆だった。
紫色の髪。大阪のおばちゃん標準装備であるヒョウ柄のセーター。そして手には、最強の鈍器にもなり得るパンパンに詰まったスーパーの袋。
――強敵だ。
ピコの本能が警鐘を鳴らす。
このタイプは、距離感の詰め方がバグっていることが多い。
初対面でいきなり「アンタどこの子?」とプライバシーを侵害してくる(攻撃力高め)タイプだ。
「は、はい! どうもー! いつも応援ありがとうございますー! いやー、こんなところで会うなんて奇遇ですねー! あ、握手ですか? それともサイン?」
ピコは早口で捲し立てた。
先手必勝。相手のターンになる前に、こちらのペース(営業トーク)に巻き込む。
だが。
「……顔色、悪いな」
老婆の口から出たのは、予想外の言葉だった。
「……へ?」
ピコの思考プロセスが停止する。
老婆は、スマホを取り出さなかった。
カメラアプリを起動しなかった。
ただ、その深く刻まれた皺の奥にある瞳で、ピコという人間を、じっとスキャンしていた。
「目の下、真っ黒やないか。ちゃんと寝てんのか? ご飯食べてんのか? 親御さんは心配してへんのか?」
「え、あ、いや……僕は、その……」
言葉が出てこない。
想定していた選択肢の中に、「純粋な心配」に対する回答が用意されていないからだ。
彼女は、ピコが「トップ配信者」であることを知らない?
いや、知っていたとしても関係ないのだ。
ネットが遮断された今、目の前にいるのは「フォロワー数300万人のインフルエンサー」ではなく、「顔色の悪い、小汚い子供」でしかない。
「ほれ」
老婆の手が、スローモーションのように動いた。
ポケットから取り出された物体が、朝日に反射してキラリと光る。
それは、ピコの掌に押し付けられた。
ゴツゴツした、乾いた、温かい手の感触。
その体温が、ピコの冷え切った皮膚へと伝導し、毛細血管を駆け巡る。
「……これ、は」
「飴ちゃんや。黒糖の」
老婆はニカッと笑った。歯に金歯が光っていた。
「疲れた時はな、甘いもん舐めて、ぼーっとするのが一番や。あんた、難しい顔しすぎやで。もっとアホみたいな顔して生きな損や」
それだけ言い残すと、老婆は踵を返した。
去り際、その背中が「ほなな」と語っているように見えた。
残されたピコの手の中には、一つの飴玉。
成分表示を見るまでもなく、砂糖の塊。
カロリーの爆弾。
虫歯の原因物質。
普段なら。
配信中のピコなら。
「わぁ、ありがとうございます!(あとで捨てよ)」と心の中で毒づいて、ゴミ箱にシュートするだけのアイテムだ。
だが、今は。
(……重い)
ピコは、その飴玉を握りしめた。
たかだか数グラムの質量が、今の彼にはキロ単位の重さに感じられた。
それは「数字」の重さではない。
「他者からの関心」という、実態のない、しかし確かな熱量を持った重さだった。
スパチャの金額は、画面上の数字でしかない。
「いいね」の数は、データベース上のカウンターでしかない。
それらは決して、ピコの手を温めたりはしなかった。
「……ちっ」
ピコは舌打ちをした。
目頭が熱いのは、きっと寝不足のせいだ。あるいは、花粉症だ。そうでなければ、眼球の水分調整機能のエラーだ。
「……スパチャじゃなくて、飴玉かよ。……レート(交換比率)、低すぎだろ」
悪態をつきながら、ピコは包装紙を破った。
パリッ、という乾いた音が、静寂の中に響く。
口の中に放り込むと、強烈な甘さと、微かな塩気が広がった。
脳の奥で、ショートしていた回路が一つずつ復旧していくような感覚。
――システム、再起動。
「おい、置いてくぞー。黄昏れてる暇があったら足動かせ」
「うっさい! 今行くよ、クソ眼鏡!」
ピコは駆け出した。
ポケットの中のスマホは、相変わらず文鎮のように沈黙している。
だが、その沈黙が、先ほどより少しだけ優しく感じられたのは、きっと糖分のせいだろう。
***
ダンジョン遺失物管理センター。
地下三階の、世界から忘れ去られたような吹き溜まり。
錆びついたシャッターの前に立った時、ネオンが小さく息を吐いた。
「……ここ、圏外だけど」
「ああ」
「……サーバーも、空調も、自動販売機も止まってるけど」
「ああ」
「……でも、帰ってきたって感じがする」
ネオンが、グルグル眼鏡の位置を直しながら呟いた。
ガラガラと音を立ててシャッターが開く。
その瞬間、暗闇の中から緑色の砲弾が射出された。
「ケロケロォォォッ!!(貴様らァァァ! 遅いぞ万死に値するゥゥゥ!!)」
レオだ。
正確には、レオ・ライオット(両生類形態)。
体長五十センチほどの巨大なオタマジャクシに、マッチョな手足が生えた、神がデザインを放棄したとしか思えないクリーチャーである。
ベチャァッ!!
レオはネオンの顔面に直撃し、吸盤のように吸い付いた。
物理演算エンジンがバグったような粘着力だ。
「んぐっ!? ふ、不潔! 粘膜接触! バイオハザード!」
「ケロケロ!(腹が減った! 空腹で俺様の美声が枯れそうだ! 早く最高級の赤虫を持ってこい!)」
「離れろ! このヌルヌル野郎!」
ネオンがレオを引き剥がそうと格闘する横を、ヤクモが通り過ぎる。
彼は、背中の荷物――ジンを、慎重にソファへと下ろした。
事務所の空気は、澱んでいる。
カビ臭い。埃っぽい。
積み上がった段ボールの山、飲みかけの缶コーヒー、脱ぎ捨てられたジャージ。
生活感という名の、情報の集積地。
「……ふぅ」
ヤクモが額の汗を拭った。
ソファに横たわったジンは、微動だにしない。
その背中は、炭化した皮膚と、血の滲んだ包帯で覆われ、見るも無惨な状態だ。
だが、不思議と悲壮感はなかった。
ピコが、恐る恐る覗き込む。
「……寝てる」
ジンは、深く、静かに呼吸をしていた。
いつも眉間に刻まれていた深い皺――世界の理不尽さや、過去の悔恨や、借金の督促状に対する怒りで刻まれた皺が、今は奇跡的に消えている。
口を半開きにして、マヌケな寝顔を晒している。
「……なんだよ、この顔」
ピコは、口の中の飴玉を転がした。
「ラスボス倒した後の勇者の顔じゃないだろ。……ただの、休日のおっさんじゃん」
その言葉には、呆れと、そして隠しきれない安堵が滲んでいた。
ネオンも、レオを顔にくっつけたまま(諦めたらしい)、ジンの寝顔を見下ろした。
彼女の手が、空中でキーボードを叩く動きを一瞬止めた。
そして、リアルな自分の手を、そっとジンの髪へと伸ばした。
触れるか触れないかの距離。
彼女なりの、最大限のデレ(好意表現)。
「……おやすみ、ボス。……ログイン、完了」
彼女の呟きと共に、シャッターの隙間から差し込んだ朝日が、埃の舞う室内を黄金色に染め上げた。
そこには、通知音も、派手なエフェクトも、バズりも存在しない。
ただ、ボロボロの家族が、一つの部屋に帰ってきたという事実だけがあった。
世界はリセットされた。
明日からまた、騒がしくて面倒くさい日常が再起動するだろう。
だが今は、この静寂こそが、彼らに与えられた最高の報酬だった。




