第83話:0と1の狭間で
プツン。
世界から、音が消えた。
それは、パチンコ屋で確変中に突然ブレーカーが落ちた時の、あの心臓が止まるような静寂に似ていた。
あるいは、真夜中の高速道路でカーステレオを止めた瞬間の、自分の耳鳴りだけが響く、あの耳が痛くなるような無音に似ていた。
もっと言えば、生配信中に親が部屋に入ってきて、慌ててマイクミュートを押した瞬間の、あの社会的死を予感させる真空状態に近い。
今まで鼓膜を震わせていたサーバーの駆動音、冷却ファンの唸り、電子的なアラート音、そしてラスボス・ゼロの狂った高笑い。
その全てが、巨大な掃除機で吸い取られたように、唐突に消滅した。
残されたのは、非常灯の薄暗い赤色と、湿っぽいカビの匂い、そして肉が焦げた不快な臭気だけ。
「……あ、あ……」
ネオンが、ガタガタと震えながらPC画面を見つめていた。
画面は真っ暗。
『NO SIGNAL』の文字すら出ない。完全なる虚無。
ブラックホールよりも深い闇が、そこにあった。
「やっちゃった……。私、やっちゃった……。これ、マジで世界止まった……? ツイッターも、インスタも、ユーチューブも……全部?」
ネオンの顔面から、サァァァッと血の気が引いていく。
その白さは、もはや幽霊のマシロを超え、石膏像の領域に達していた。
(終わった。私の人生が終わった。ネットのない世界でどうやって生きていけばいいの? 明日の天気はどうやって知るの? 空を見上げろってこと? 原始人かよ! わからない漢字があったらどうするの? 辞書を引けってこと? 紙の? 重いじゃん! 検索履歴が残らない安心感はあるけど、それ以上に不安しかない! 私、今日から貝になりたい! いや、貝になっても潮干狩り情報をネットで検索できないから詰む!)
ネオンの脳内で、とてつもなく偏差値の低い、しかし本人にとっては死活問題である葛藤が繰り広げられている間にも、物理空間の事態は進行していた。
時間は止まっていない。ただ、世界の解像度が劇的に変わっただけだ。
シュゥゥゥゥ……。
タイヤの空気が抜けるような音がして、巨大なラスボス・ゼロの身体が萎んでいく。
供給を断たれたデータ。
バックアップとの同期を失ったファイル。
8K画質の超美麗3Dモデルだった身体が、急速に劣化していく。
ポリゴン数が減り、テクスチャが剥がれ、カクカクとしたローポリゴンになり、プレイステーション1時代のグラフィックになり、やがてドット絵になり、最後には――
「……馬鹿な……。世界を……止めた、のか……?」
そこに立っていたのは、人間大の「黒い影」だった。
目も口もない。ただのノイズの集合体。
初期設定のアバター以前の、名前すら与えられていないテストデータのような存在。
ロード時間の合間に表示される、意味のない砂時計のような虚しさ。
それが、つい数秒前まで「神」を自称していた男の末路だった。
『ありえない……。私の……信者たちが……。誰も……私を、見ていない……?』
ゼロの声が、ラジオのチューニングが合わない時のように揺れる。
承認欲求という名のエネルギーを絶たれ、彼はただの亡霊に成り下がっていた。
カツン、カツン。
静寂の中に、足音が響いた。
不規則で、重く、引きずるような足音。
一歩踏み出すたびに、焼けた皮膚が擦れ、骨が軋む音が、嫌なリアリティを持って響く。
「……さて」
ジンだ。
彼は、手に持っていた凶悪なモップを、無造作に放り投げた。
カラン、コロン……。
乾いた音が、やけに大きく響く。
あのモップ、980円もしたのに。経費で落とすつもりだったのに。
(あーあ、捨てちまった。まあいいか。あんな血まみれのモップ、持って帰ったらアリスに怒られるしな。『バイオハザードごっこですか?』とか嫌味言われるのがオチだ。……ていうか、俺の腰、大丈夫かこれ? 感覚がねぇぞ。逆に怖い。アドレナリンが切れた瞬間、激痛でショック死するパターンじゃねぇだろうな)
ジンの思考は、世界の危機よりも自分の腰の安否に向かっていた。
だが、その殺気だけは本物だった。
「ネットも回線もねえ。スーパーコンピューターも、一二〇〇万人の観客もいねえ。スパチャも投げ銭も飛んでこねぇ」
ジンが一歩、また一歩と、影に近づいていく。
その背中からは、まだ赤い蒸気が漏れていたが、その量は明らかに減っていた。
燃料切れだ。
命の灯火が、消える寸前のロウソクのように揺らめいている。
痛い。
全身が痛いなんてレベルじゃない。
細胞の一つ一つが、「もう辞めたい」と退職届を叩きつけてストライキを起こし、労働組合を結成してデモ行進をしている感覚だ。
視界がぼやける。
ゼロの姿が二重、三重に見える。
あるいは、あれはゼロではなく、俺が過去に見捨ててきた誰かの影かもしれない。
「ここにあるのは、俺とお前という、二つの『ゴミ』だけだ」
ジンは、両手をだらりと下げたまま、ゼロの目の前に立った。
構えなどない。
格闘技の型などない。
ただ、拳を固く握りしめた。
ギュゥゥゥッ。
炭化した皮膚がメリメリと音を立ててひび割れ、黒い血が滲む。
その痛みすら、今のジンには「生きている証」として心地よかった。
『寄るな……! 汚い……! 私は神だぞ! 高度な知性体だぞ! 暴力などという野蛮な……。話せばわかる! 対話をしよう! コミュニケーションツールを使おう!』
ドゴッ!!
ゼロの言葉は、ジンの右拳によって物理的に遮断された。
顔面へのストレート。
魔法のエフェクトも、衝撃波も出ない。
ただの、鈍い、肉と骨がぶつかる音。
濡れた新聞紙をバットで殴ったような、情けない音。
『ぐ、え……っ!?』
ゼロがよろめく。
物理無効? そんな設定は、サーバーが落ちた瞬間に消滅した。
今のこいつは、実体を持ったただの「弱い男」だ。
ログインボーナスを受け取り損ねたゲーマーよりも弱い。
「痛ぇか?」
ジンが問う。
ゼロの腹に、膝蹴りを叩き込む。
ボフッ!
空気が抜けるような音と共に、ゼロがくの字に折れ曲がる。
『い、た……痛い……!? なんだこれは……!? エラー信号!? バグ報告!? 違う、これは……』
「痛みだよ」
ジンが、ゼロの胸倉――ノイズで構成された襟元を掴み上げる。
至近距離。
ジンの顔は、悪鬼のようであり、同時に泣き出しそうな子供のようでもあった。
その瞳の奥には、燃え尽きようとする残り火が、静かに、しかし熱く燃えていた。
「お前らが、安全な場所からキーボード叩いて、他人に与え続けてきたもんの正体だ」
殴る。
殴る。
殴る。
右、左、右。
単調なリズム。
派手な必殺技などない。
「流星拳」とか「波動砲」とか、そんな格好いい名前の技じゃない。
ただの喧嘩。泥臭い、見るに堪えない、一方的な暴力。
ジンの拳の皮が剥け、骨が見える。
それでも止まらない。
殴るたびに、ジンの脳内に、過去の記憶が走馬灯のようにフラッシュバックする。
――自殺した少女の泣き顔。
――誹謗中傷で心を病んで、部屋から出られなくなった友人の背中。
――そして、何も守れなかった自分の、無力な掌。
(この痛み、知ってる。あの時と同じだ。ガラスの破片を握りしめた時と同じ。殴ってるほうが痛ぇなんて、偽善もいいとこだな。でも、痛ぇんだよ。心が、ずっと。……あー、くそ、涙出てきた。煙が目に染みただけだ。そうしとこう)
『やめろ……やめてくれ……! 消える……私が、消える……!』
ゼロが悲鳴を上げる。
それは神の威厳など欠片もない、ただの怯える男の声だった。
アカウント凍結(BAN)を恐れる荒らしの悲鳴。
『私は……ただ、見てほしかっただけなんだ……! 誰かに……気付いてほしかっただけなんだ……! 寂しかったんだ! 一人になりたくなかったんだ!』
その言葉に、ジンの拳がピタリと止まった。
見てほしかった。
気付いてほしかった。
それは、遺失物No.404――あの自殺した少女が、最期に残したメッセージと同じ。
そして、このダンジョン遺失物管理センターに集まる、全ての「迷子」たちが抱えている想いと同じ。
「……そうかよ」
ジンは、血反吐を吐き捨てた。
黒い塊が床に落ちる。
「神様が痛みを感じるかよ。……お前もただの、誰かの『未練』だったんだな」
ネットの悪意。
それは元を正せば、満たされない人間の心の叫び。
孤独。嫉妬。承認欲求。
それらが腐敗し、発酵し、毒ガスとなったもの。
こいつもまた、誰にも拾われなかった「迷子」だったのだ。
誰かに「ここにいていいよ」と言ってほしかっただけの、哀れな子供。
「なら、仕事の時間だ」
ジンは、残った全ての力を右腕に込めた。
筋肉が断裂する音が聞こえる。
腱が切れ、骨がきしむ音が、脳内麻薬でマスキングされる。
構わない。これで最後だ。
この一撃で、全部終わらせる。
「成仏しろ。……来世は、Wi-Fiの繋がってねぇ田舎にでも生まれろよ。虫取りでもして遊べ」
ドォォォォォン!!
渾身のアッパーカット。
拳が、ゼロの胸の中央にある、小さな光の点――核を捉えた。
物理的な衝撃と、込められた想いの質量が、デジタルの核を貫く。
パリンッ。
ガラスが割れるような音がした。
世界で一番、澄んだ音。
時が止まる。
空中に舞う光の破片。
ダイヤモンドダストのようにキラキラと輝きながら、ゼロの身体が、下から上へと砂のように崩れていく。
『あ……、静かだ……』
ゼロが最後に呟いた。
その声には、恐怖はなく、どこか安堵の色が混じっていた。
ノイズが消え、静寂が彼を包み込む。
無限の情報の海から解放された、たった一つの個としての死。
通知音に追われることのない、永遠の安息。
フッ、と。
黒い影は完全に消滅した。
後に残ったのは、ボロボロになったジンだけ。
非常灯の薄明かりの中に、炭化した背中だけが浮かび上がっている。
「……、」
ジンの身体が、ゆらりと揺れた。
糸が切れた操り人形のように。
支えを失った巨木のように。
重力に従って、後ろへと倒れ込む。
(あー、終わった。やっと寝れる。布団……布団どこだ……。できれば低反発がいい……。トゥルースリーパー的なやつ……。通販で買おうと思ってたんだよな……。でもネット止まったから買えねぇか……。じゃあ、床でいいや……)
地面に叩きつけられる衝撃を覚悟して、ジンは目を閉じた。
硬いコンクリートの冷たさを待ち受ける。
だが。
その衝撃は来なかった。
ガシッ。
誰かの腕が、ジンの背中を受け止めていた。
細い腕。頼りない腕。
でも、必死に力を込めて、焼けた背中の熱さにも耐えている腕。
肉が焦げる匂いがしても、決して離そうとしない強い意志。
「……おい! ジン! 死ぬなよ! ここで死んだらノーギャラだぞ! 僕の動画のネタにもならないぞ!」
ピコだった。
いつもの「国民の弟」としての、完璧に計算された作り笑顔ではない。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、化粧も落ちて、なりふり構わず叫んでいる、ただのガキの顔。
ブサイクだ。でも、今まで見た中で一番マシな顔をしている。
「……っつ、うるさい……」
ジンは、薄く目を開けた。
視界が暗い。
非常灯の赤色が、遠くの夕焼けのように見える。
昔、子供の頃に見た、遊び疲れて帰る時の夕焼けと同じ色だ。
「耳元で……叫ぶな。……配信は……終わったんだろ……?」
ピコは、ハッとした。
周囲を見る。
カメラはない。スマホは電池切れで落ちている。
一二〇〇万人の視線はない。
コメント欄の罵倒も、称賛も、スパチャの通知音もない。
ここにあるのは、現実だけ。
汗と血と、焦げた匂いのする、どうしようもない現実だけ。
「……ああ、終わったよ」
ピコは、涙を拭わずに頷いた。
熱い。ジンの背中が、服越しでも火傷しそうに熱い。
この熱さを、今までこの男はずっと一人で背負っていたのか。
誰にも見せず、誰にも言わず、ただ一人で燃えていたのか。
「もう誰も見てない。カメラも回ってない。……だから」
ピコの声が震える。
それは演技ではない。心の底からの言葉。
「ゆっくり休めよ、……クソ掃除屋」
ジンは、その言葉を聞いて、微かに口元を緩めた気がした。
いや、それは単に筋肉が弛緩しただけかもしれない。
でも、その表情は、どこか満足げだった。
(誰も見てない、か。……そいつはいい。最高のエンディングだ。……あとは、頼んだぜ……)
ジンの意識が、深い闇へと落ちていく。
そこは、ネットの喧騒も、承認欲求も、痛みもない、静かで穏やかな場所だった。
暗転。
物語は、ログアウトした。




