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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
電子の海と、虚構の王子

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第82話:ワールド・リセット

ネオンの指先が、震えていた。

 それは、武者震いなどという少年漫画的な格好いいものではない。

 カフェインの過剰摂取による中毒症状の手の震えであり、糖分不足による低血糖の震えであり、そして何より――これから自分がしでかそうとしている事のあまりの重大さに、魂のレベルで縮み上がっている、小動物的な震えだった。


 目の前のトリプルディスプレイには、世界地図が表示されている。

 そこには、地球を網の目のように覆う赤いライン――海底ケーブルと、主要な通信衛星の軌道が描かれていた。

 そして、画面の中央には、毒々しい赤色のウィンドウが一つ。

 まるで、ホラーゲームで「後ろを見ますか?」と問われる時のような、不吉なフォントで。


 『実行しますか? YES / NO』


 シンプルな問いかけ。

 だが、この「YES」が意味するのは、フリーソフトの利用規約への同意ではない。

 全世界同時通信遮断ワールド・ワイド・シャットダウン

 

 ネオンが組んだプログラムは、ダンジョンの最深部にあるこの超古代サーバー(アカシック・レコード)を踏みプロキシにして、世界中の通信インフラのバックドアを同時に叩き、強制的に再起動をかけるというものだ。

 成功すれば、数分間、地球上から「インターネット」が消滅する。


「……できる。理論上は、できる。セキュリティホールはザルだし、バックドアの鍵は落ちてるし、管理者のパスワードは『password』だったし」


 ネオンは、乾いた唇を舐めた。

 唾液の味がしない。口の中が砂漠のように乾いている。

 舌が上顎に張り付き、剥がす時にバリッという音がしそうだ。


「でも、これやったら……私、国際指名手配確実よ……。FBIとCIAとKGBとMI6と、あと警視庁サイバー犯罪対策課と、全世界のネットユーザーから命を狙われるわ……。私の顔写真がタイムズスクエアに張り出されて、懸賞金かけられて、西部劇みたいになるのよ……」


 ネオンの脳裏に、最悪の未来予想図ビジョンが、走馬灯のように高速で駆け巡る。

 それは、自分の逮捕や処刑といった物理的な死よりも、もっと恐ろしい「社会的な死」と「オタクとしての死」だった。


(ネットが使えない。それはつまり……現在開催中のソシャゲのイベントランキングから脱落するということ。今、私は342位。微妙な順位だけど、ここからラストスパートかけて100位以内の『称号』を取る予定だったのに! スタミナ回復アイテムも全部つぎ込んだのに! それが全部水の泡!?)


 思考が加速する。

 ニューロンがスパークし、どうでもいい懸念事項が津波のように押し寄せる。


(今夜0時のログインボーナスが受け取れない! 連続ログイン記録が途絶える! 明日届くはずだった限定フィギュアの配送状況が確認できない! もし不在票が入ってたらどうするの!? 再配達の依頼もネットじゃん! 電話? 電話なんてコミュ障にできるわけないでしょ! さらに言えば、推しのVTuberの配信が見られない! アーカイブも残らないかもしれない! 私の生きがいが! 私の酸素が! 私のアイデンティティが! 全部なくなる!)


 ネオンにとって、ネットの遮断は死と同義だった。

 呼吸を止めることよりも苦しい。

 彼女は、この薄暗い部屋とモニターの光だけを友として生きてきたのだ。

 その生命維持装置を、自らの手で引き抜くなど、自殺行為に等しい。


「できない……! 無理よ! 私には荷が重すぎる! ただの引きこもりに世界のスイッチを押させないでよ! 誰か代わってよ! ビル・ゲイツとか、イーロン・マスクとか、そういう偉い人を連れてきてよ! なんで私が『アルマゲドン』のブルース・ウィリスみたいな役やらなきゃいけないのよ! 私、あんな禿げてないしタンクトップも似合わないし!」


 ネオンが頭を抱えて蹲る。

 胃が痛い。

 キリキリと締め上げられるような痛み。

 これは、中学時代の修学旅行で、バスの中で急激な腹痛に襲われた時の絶望感に似ている。あの時は、隣の席の男子に悟られないように必死でポーカーフェイスを装いながら、脳内で神に祈り続けたっけ。

 今、祈る神などいない。目の前にいるのは、バグった邪神ゼロだけだ。


 その時。


「……大丈夫」


 冷たい、でも不思議と温かい感触が、ネオンの震える手に重なった。

 マシロだった。

 先ほどは高熱で弾かれたが、今はネオンの手を優しく包み込んでいる。

 幽霊特有の、冷蔵庫から出したばかりのこんにゃくのようなヒンヤリとした感触。

 でも、そこには確かな「質量」があった。


「マシロちゃん……?」

「大丈夫だよ、ネオンちゃん。ネットがなくなっても、あんたは一人じゃない」


 マシロが、半透明な顔でニカっと笑った。

 その笑顔は、画素数の低いガラケーの待ち受け画面のように、少し粗く、でも懐かしい温かさを持っていた。


「あんたには、私たちがいるでしょ? ログインボーナスはなくても、私が毎日『おはよう』って言ってあげる。推しの配信が見れなくても、ピコが目の前で歌って踊ってくれるわよ(有料で)。通販がなくても、ジンがゴミ捨て場から何か拾ってくるわよ(ゴミだけど)」


「……全然嬉しくないラインナップなんだけど。むしろ罰ゲームなんだけど」

「えへへ。でも、リアル(現実)も捨てたもんじゃないよ。少なくとも、バグってフリーズすることはないしね。……あ、でもジンはよく腰がフリーズしてるか」


 マシロの言葉は、何の根拠もなかったし、論理的に破綻していたが、不思議とネオンの過呼吸を鎮めてくれた。

 そうだ。

 画面の向こうの、顔も知らないフレンドよりも、今、ここで泥だらけになって、血反吐を吐いて、情けなく戦っている仲間の方が、解像度が高い。

 4Kよりも、8Kよりも鮮明な、生々しいドット抜けのない現実。


『――やりなさいよ』


 さらに、イヤホンからドSな声が響く。アリスだ。

 紅茶をすするズルズルという音が、ノイズキャンセリング機能を貫通して聞こえてくる。


『迷ってる暇はないわ。責任? そんなもの、全部ジンに押し付ければいいのよ。どうせあいつは明日死ぬかもしれない身だわ。罪状の一つや二つ増えたところで、地獄での刑期が数百年伸びるだけでしょ? 閻魔様も「またお前か」って呆れるレベルよ』

「……アリスちゃん、あんた鬼ね。悪魔ね。人の心とかないの? リサイクルショップに売ってきたの?」

『医者よ。……患部を切除するためなら、多少の出血(犠牲)は厭わないの。さあ、メスを入れなさい。世界という名の患者の、とびきり大きな腫瘍を切り取るのよ』


 二人の言葉に背中を押され――いや、蹴飛ばされ、ネオンは再びキーボードに向き合った。

 震えは止まらない。

 でも、その震えは恐怖から武者震いへと変わっていた。

 アドレナリンが脳内で分泌され、視界がクリアになる。

 世界地図の赤いラインが、血管のように見えてくる。


「……上等よ。やってやるわよ。世界中のサーバー落として、全人類をネット難民にしてやるわ! 私のガチャ爆死の痛みを、世界中に味あわせてやるのよ!」


 動機が不純すぎるが、エネルギーとしては十分だ。

 ネオンの右人差し指が、エンターキーの上に添えられる。

 その指先から放たれる殺気に、ラスボス・ゼロが気づいた。


『――なっ!? 貴様、何をする気だ!?』


 ゼロが叫んだ。

 常に余裕綽々だったデジタルの神が、初めて「焦り」を見せた。

 彼のスーパーコンピューター並みの演算能力が、ネオンの企みを一瞬で理解し、その致命的な結果を弾き出したのだ。


『バカな! 通信インフラを落とすだと!? 正気か! それをすればどうなるか分かっているのか! 経済は麻痺し、交通網は混乱し、病院の電子カルテも止まる! ATMも使えなくなる! 文明が数十年後退するぞ! お前たちの社会も終わるんだぞ!』


「知ったことかァ! 私のソシャゲのランクが下がる痛みに比べれば、世界恐慌なんてカスみたいなもんよ! 私がログインできない苦しみを、お前らも味わえぇぇぇ!!」

「比較対象がおかしいだろ! スケール感バグってんぞ!」


 ピコのツッコミを無視して、ゼロがネオンに向かって突進する。

 無数の触手が、槍のように鋭く変形し、ネオンの心臓を貫こうと迫る。

 

 時間が引き伸ばされる。

 コンマ一秒の世界。

 ネオンの目には、迫り来る触手の先端がスローモーションで見えた。

 先端のテクスチャの粗さ、ポリゴンの継ぎ目、漂う紫色のエフェクト。

 

 速い。

 ピコでは反応できない。彼はまだツッコミの姿勢のままだ。

 マシロでは防げない。彼女は霊体だからすり抜けてしまう。

 ネオンは、死を覚悟して目を閉じた――わけがない。彼女はエンターキーを押すことに全集中しており、迫る死に気づいてすらいなかった。

 「今、エンターキーを押す角度は45度がベストか、それとも垂直に叩き込むべきか」などという、どうでもいいことを真剣に考えていた。


 ドガァァァァァァァァン!!


 爆音が響く。

 衝撃波が、ネオンの前髪を巻き上げる。

 ネオンが目を開けると、目の前に「背中」があった。

 炭化し、ひび割れ、赤い蒸気を噴き上げる、ボロボロの背中。

 焦げた臭い。肉が焼ける匂い。そして、染み付いた安っぽい缶コーヒーとタバコの匂い。


「……っ、ジ、ジンさん!?」


 ジンが、ゼロの触手を素手で受け止めていた。

 ジュウジュウと肉が焼ける音がする。

 ステーキを焼くような音だが、焼けているのは人間の腕だ。

 だが、ジンは一歩も引かなかった。


「……やれ、ネオン」


 ジンが、血の泡を吹きながら言った。

 その声は、ガラガラで、聞き取りにくい。

 でも、不思議と芯が通っていた。


「文句なら、俺が聞いてやる。……ここじゃない、あの世でな!」


『どけぇぇぇぇ! この、時代の遺物がァァァ!!』


 ゼロが絶叫し、さらに力を込める。

 ジンの膝が折れそうになる。

 ミシミシと骨が鳴る。骨粗鬆症の老人なら粉砕骨折しているレベルの負荷。


(あー、重てぇ……。ネットの重みってやつか? 世界中の「いいね!」の数だけ重くなってんのか? くだらねぇ……。腰に来る。これ絶対ヘルニアになるやつだ。労災降りねぇかな。いや、それよりこの後、整骨院行く金あるかな。保険証どこだっけ……)


 ジンの視界はもう真っ赤で、ネオンの姿もぼやけて見える。

 網膜に焼き付いた残像と、現実の映像が入り混じり、世界がサイケデリックな色に染まっている。

 でも、彼女が何かしようとしていることだけはわかる。

 あいつがPCに向かってニヤついている時は、いつだってろくでもないことを企んでいる時だ。

 そして、それが最高の結果を出すことも、知っている。


「押せェェェェ!! ネオンンンン!!」


 ジンの咆哮。

 喉が裂け、血飛沫が舞う。

 それが、スタートの合図ピストルだった。


「うあぁぁぁぁぁぁ!! 知るかボケェェェェェェ!!」


 ネオンが叫んだ。

 日頃の鬱憤、コミュ障のストレス、ガチャ爆死の怨念、マナー講師への不満、リア充への嫉妬、そして仲間を傷つけられた怒り。

 その全てを右人差し指に込めて。

 

 ターンッ!!


 キーボードが砕けんばかりの勢いで、エンターキーが叩き込まれた。

 物理的な打鍵音が、銃声のように響く。

 画面上の『実行中...』のプログレスバーが一瞬で100%になる。


 その瞬間。


 プツン。


 音が、消えた。

 ゼロの断末魔も。

 サーバーの駆動音も。

 空調の音も。

 ジンの荒い呼吸音さえも、闇に吸い込まれたかのように。


 世界中のスマホが、圏外になった。

 PCの画面が、一斉に『接続エラー』を表示した。

 渋谷のスクランブル交差点の巨大ビジョンが、プンッという音と共にブラックアウトした。

 ニューヨークのタイムズスクエアが、闇に包まれた。

 ロンドンの証券取引所の株価ボードが、消灯した。

 ユーチューバーの生配信が、ゲームの実況が、アイドルのインスタライブが、すべて唐突に切断された。


 地球上が、数十年ぶりに「静寂」を取り戻した瞬間だった。

 情報というノイズが消え、ただの風の音と、人々の戸惑う声だけが残る世界。


『ア、ガ……? 供給パス……が……? バックアップ……同期、不……能……?』


 ゼロの動きが止まる。

 その身体から、ノイズが消えていく。

 再構成されようとしていたポリゴンが、空中で霧散していく。

 供給を断たれた映像。

 実体のない幻影。

 電源を抜かれたテレビのように、その存在が急速に薄れていく。


 配信は停止した。

 一二〇〇万人の視線も、罵倒も、称賛も、すべて遮断された。


 そこに残ったのは、ただの薄暗い地下室と、息を切らした4人の馬鹿たち。

 そして、ただの「データファイル」に成り下がった、元・神様の残骸だけだった。

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