第78話:バズの代償
世界が、白く染まっていく。
それは、日曜朝の子供向けアニメの最終回でよく見るような、予算不足をごまかすためのホワイトアウトにも似ていたし、あるいは古いブラウン管テレビの電源を突然引っこ抜いた時の、中心に向かって収束していく光の点のようでもあった。
だが、この現場におけるそれは、もっと物理的で、暴力的で、そしてデータ量の飽和による描画エンジンの悲鳴だった。
『あ、あが、が……! 私が……消え……!?』
ラスボス・ゼロの声が、リミックスされたDJのスクラッチ音のように途切れる。
彼の構成要素である「悪意」の黒い泥が、ジンによって注入された「悲しみ」の透明な水によって希釈され、中和され、そして浄化されていく様は、さながら泥水を入れたコップに水道水を全開で注ぎ込み続ける実験のようだった。
最初は黒かった水が、灰色になり、やがて透明になって溢れ出す。
溢れ出した感情は、行き場を失って空間そのものを溶かしていく。
『理……解……不能……。エラー……、感情パラメータ……オーバーフロー……。ワタ、シ、ハ……カミ、デハ、ナカッ、タノ、カ……?』
ゼロの身体が、桜の花びらのように散っていく。
いや、よく見ればそれは花びらなどという詩的なものではなく、無数の「0」と「1」の羅列だった。
バイナリ・スノー。
美しくも無機質な最期。
まるで、Windows95がフリーズし、ブルースクリーンを経てシャットダウンしていく瞬間の、あの何とも言えない徒労感と物悲しさを伴う光景だ。
シュゥゥゥゥゥ……。
サーバー室の空調が、ここぞとばかりに再稼働し、熱を持った空間を冷却し始める。
舞い上がっていた埃が、静かに床へと降り積もる。
静寂。
耳が痛くなるほどの、完全なる静寂が訪れた。
通常、このようなバトルの直後には、「終わったな……」「ああ……」といった渋い男たちの会話が交わされるのが相場だ。あるいは、ヒロインが涙を流して駆け寄るのがテンプレートだ。
だが、この『ダンジョン遺失物管理センター』という物語において、そんな美しい余韻など許されるはずもない。
その静寂を切り裂いたのは、やはりこの男だった。
「――よっしゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
ピコ・デ・ガマ。
現代の英雄にして、空気の読めないことに関しては世界ランキング一位、いや殿堂入りを果たした男。
「見たかァァァ! 世界! これが『アンラッキー・サーティーン』の実力だ! そして何より、この僕、ピコ様の完璧なカメラワークと実況があったからこその勝利だァァァ! 今のラストシーン見た!? あの角度! あの照明! あそこでズームインした僕の判断力! アカデミー賞撮影賞モノだろこれェェェ!!」
ピコは、スマホに向かってガッツポーズを決め、ブレイクダンスのウィンドミルのような動きで喜びを表現していた。
その顔は、勝利の喜びに満ち溢れているようでいて、実は脳内で高速で電卓を叩いている顔だ。
(勝った! マジで勝った! これで世界は救われたし、何より僕のチャンネル登録者数は爆上がり確定! 同接数? もう数え切れねぇ! 『100万人突破』の通知が止まらなくて画面が見えねぇよ! あー、スーパーチャットの嵐でスパチャ読みが終わらねぇ幻覚が見える!)
ピコの思考は、完全に「皮算用モード」に突入していた。
アドレナリンと共にドーパミンが噴出し、彼の脳内で壮大な「お買い物リスト」が生成されていく。
(まず、今日の晩飯は叙々苑だ。いや、銀座で寿司か? 回らないやつな! ウニを、こう、箱ごとスプーンですくって食うやつな! それから、ゲーミングチェアを新調しよう。今のやつ、三時間座ってると腰が痛くなるんだよな。もっといいやつ、NASAが開発した無重力クッションみたいなやつを買おう。いや、いっそ椅子じゃなくて酸素カプセルを買うか? 配信しながら酸素吸入とか、健康意識高い系アピールになって好感度上がるんじゃね? あと、防音室もグレードアップだ。今の部屋、隣のババアが壁ドンしてくるからな。「夜中に奇声を発するな」って。奇声じゃねぇよ、ファンへの愛の叫びだよ! よし、引っ越そう。タワマンだ。最上階だ。夜景を見下ろしながら「愚民どもが」ってワイングラスを揺らすんだ!)
欲望がノンストップで暴走する。
彼はプロだ。
どんな感動的な場面でも、常に「経費」と「売上」と「税金対策」を考えている。
「おい、ネオン! 今の撮れてたよな!? アーカイブ残ってるよな!? もし録画ミスってたら、お前のPCの冷却ファンに納豆詰めて、キーボードの隙間にポテチのカスを埋め込んでやるからな!」
「ひっ、やめてよその地味かつ精神的ダメージのでかい嫌がらせ! 撮れてるわよ! 4K60fpsでバッチリよ! ていうか、まだ配信中だから! 素の顔が出てるわよピコ君!」
ネオンが、へたり込みながらキーボードを叩いている。
彼女もまた、極限の集中力から解放され、今はただの引きこもりのオタクに戻っていた。グルグル眼鏡がズレ落ち、ジャージの裾がめくれ上がっているが、気にする余裕もない。
「はぁ……はぁ……終わった……。マジで死ぬかと思った……。脳みそが沸騰しすぎて、いま耳から蒸気出てる気がする……。糖分……糖分が足りない……。誰か私の口にマシュマロをねじ込んで……いや、マシュマロじゃ足りない。羊羹だ。一本丸ごとの羊羹を、恵方巻きみたいに無言で食らいつきたい……」
ネオンの思考もまた、現実逃避の旅に出ていた。
彼女の脳内では、羊羹とグミとチョコレートが踊り狂う「お菓子天国」が展開されていた。
(ああ、帰ったらまず新作のアニメを見なきゃ。今期まだ3話溜まってるんだよな。ネタバレ踏まないようにツイッター封印してたけど、もう解禁していいよね? あ、でもその前に推しのソシャゲのイベント周回しなきゃ。あと30分でイベント終了じゃん! スタミナ漏れる! 世界救ってる場合じゃないよ! 私のスタミナ回復アイテム返してよゼロ!)
安堵の空気が流れる。
誰もが、終わったと思った。
大団円。
あとはエンディングテーマが流れて、スタッフロールが流れて、「提供:〇〇製菓」のテロップが出るだけ。
視聴者も、コメント欄で「88888(パチパチパチ)」と打ち込みながら、トイレに行ったり風呂の準備を始めたりしている頃だろう。
だが。
現実は、編集された動画のように綺麗には終わらない。
CMに入って空気を変えることもできない。
「……あれ?」
ネオンが、PCのモニター越しに、ある異変に気づいた。
配信画面。
そこに映っているのは、勝利の余韻に浸りながら視聴者に「高評価とチャンネル登録よろしく!」と媚びを売るピコと、その背後で立ち尽くすジンの姿。
ジンは、動かなかった。
ゼロの消滅した空間の中心で、ピンク色のスマホの残骸を足元に落とし、幽霊のように揺らめいていた。
その背中から、ゆらりと陽炎のようなものが立ち上っている。
「ジン……さん?」
ネオンの声が震える。
糖分不足の幻覚かと思った。あるいは、PCのグラフィックボードが熱暴走して、画面にノイズが走っているのかと思った。
だが、違う。
ピコも、その異変に気づいて振り返った。
「おいおい、なんだよおっさん。いつまでキメ顔してんだよ。もう終わったぞ? ほら、カメラに向かってピースとか、サムズアップとか……あ、そうだ、今のうちに『この動画が面白かったらグッドボタン!』って言ってくれよ。おっさんの渋い声で言われると、主婦層のファンが喜ぶんだよ」
ピコが、軽口を叩きながらスマホのカメラをジンに向ける。
最新鋭の4Kカメラが、高性能なオートフォーカス機能を作動させ、ジンの姿を鮮明に捉える。
無慈悲なほどに高画質なレンズが、その「背中」をズームアップした。
「――ひっ」
ネオンが、短く悲鳴を上げた。
ピコの喉の奥で、カエルが潰れたような引きつった音が鳴る。
ジンの着ていた作業用の安物シャツは、『共鳴』の際の高熱で焼き尽くされ、背中部分が大きく欠損していた。
灰色の布地が焦げ落ち、その下に隠されていた、代償の全貌が露わになる。
そこには、人間の皮膚はなかった。
炭だ。
バーベキューの後に放置された木炭のように、あるいは火災現場から運び出された焼死体のように、皮膚が炭化し、黒く変色し、ボロボロにひび割れていた。
その亀裂の奥から、マグマのような赤い光が漏れ出している。
脈動に合わせて、赤光が明滅する。
ドクン、ドクン、と。
心臓が動くたびに、炭化した皮膚が剥がれ落ち、灰となって床に散る。
少女の死因。
ビルからの飛び降りによる全身打撲。
そして、ネットの炎上による、精神の焼き討ち。
その全てを、ジンは「物理的」に受け止めたのだ。
比喩ではない。
彼の肉体そのものを避雷針として、少女の痛みと熱を中和した結果が、これだった。
グチャリ。
嫌な音がした。
見ると、ジンの背中から、何かが「沸騰」していた。
魔力と血液が混ざり合い、気化して、赤い蒸気となって噴き出しているのだ。
肉が焼ける匂いが、鼻をつく。
それは、食欲をそそる焼肉の匂いと、生理的嫌悪感を催す死体の匂いが混ざり合った、この世で最も不快な臭気だった。
「……う、そ……」
ピコの手から、スマホが滑り落ちそうになる。
だが、インフルエンサーとしての悲しい習性が、無意識に手ブレ補正を効かせ、その惨状を世界中に中継し続けていた。
ジン本人は、そんな周囲の戦慄など気づいていないようだった。
彼の意識は、熱による脳の機能障害と、激痛によるショック状態で、朦朧としていた。
視界が明滅し、現実と幻覚の区別がつかなくなっている。
(……あー、熱ぃな……)
ジンは、ぼんやりと思った。
背中が熱い。
まるで、真夏の炎天下のアスファルトに背中から叩きつけられたみたいだ。
いや、違うな。これは、子供の頃にストーブに背中をくっつけすぎて親に怒られた時の感覚に近い。
あの時は、セーターが焦げて、婆ちゃんに縫ってもらったんだっけ。
(……あー、やっぱり焦げたか、このシャツ。先週のセールで買ったばっかなのにな。七八〇円だぞ。消費税入れたら八五八円だ。勿体ねぇ……)
痛みは、もう通り越していた。
脳が痛みの信号を遮断したのか、あるいは痛覚神経そのものが焼き切れたのか。
ただ、身体の半分が消し炭になったような、奇妙な浮遊感だけがある。
自分の背中が、自分のものではないような。
背負っていた重い荷物をようやく下ろせたような、あるいは、背骨ごと引っこ抜かれて空洞になったような。
(……ていうか、今日の晩飯、何にするつもりだったっけ。冷蔵庫に卵と牛乳があったな。プリンでも作るか。いや、カラメルソース作るの面倒くさいな。砂糖焦がすと鍋洗うの大変なんだよな。焦げるといえば、俺の背中も焦げてるな。鍋の底みたいにガリガリになってるのかな。金たわしで擦ったら落ちるかな。落ちるわけねぇか。ハハッ……)
思考が、断片化していく。
走馬灯のように、どうでもいい日常の風景が脳裏を過る。
冷蔵庫のモーター音。
未払いの電気代の請求書。
事務所のソファの沈み具合。
レオがいびきをかいて寝ている姿。
アリスが隠れてお菓子を食べている音。
マシロがテレビに向かってツッコミを入れている声。
それらが、走馬灯の回転に合わせて、キラキラと輝いて消えていく。
(……レオのやつ、ちゃんと飯食ったかな。あいつ、一人だとカップ麺しか食わねぇからな。栄養バランス考えろっていつも言ってるのに。アリスは……また俺の財布から小銭抜いてねぇだろうな。五〇〇円玉貯金してるのバレてないと思ってるけど、バレバレなんだよな。マシロは……ちゃんと成仏できるかな。いや、あいつは地縛霊だから無理か。腐れ縁だな……)
意識が、泥の中に沈んでいく。
自分の身体を支えている感覚がなくなる。
「ごふっ」
ジンの口から、大量の血が吐き出された。
それは鮮血ではない。
どす黒く、凝固した、タールのような汚血。
内臓が熱で溶け、炭化した血液と混ざり合ったものだ。
ドサッ。
糸が切れた操り人形のように、ジンが膝から崩れ落ちる。
その衝撃で、背中の炭化した皮膚がさらに剥がれ落ち、赤い粉塵となって舞った。
「おい!!」
ピコが叫んだ。
カメラを止めることすら忘れ、配信中であることすら忘れ、駆け寄る。
「なんだよそれ! なんだよその身体!? おい、おっさん! しっかりしろ! これ、演出だよな!? ドッキリだよな!? 『ドッキリ大成功』の看板持ったスタッフが出てくるんだろ!? 血糊だよな!? ケチャップだよな!?」
ピコは、ジンの身体に触れようとして、手を止めた。
触れられない。
触れたら、崩れてしまいそうで。
あまりにも高温で、手が溶けてしまいそうで。
そこにあるのは、人間ではなく、燃え尽きる寸前の焚き火の残骸のようだった。
「……おい、起きろよ! 勝ったんだぞ!? ハッピーエンドだろ!? なんでそんな……ゾンビ映画のバッドエンドみたいなナリになってんだよ!!」
ピコの悲痛な叫びが、マイクを通して世界中に響き渡る。
彼はエンターテイナーだ。虚構を見せるのが仕事だ。
だが、目の前にあるこれは、あまりにも残酷で、加工不可能な「現実」だった。
その横で、地面に落ちたスマホの画面には、猛烈な勢いでコメントが流れていた。
それは、さっきまでの称賛の嵐とは、全く質の異なる濁流だった。
『え』
『なにこれ』
『グロ』
『放送事故?』
『特殊メイクすごくね?』
『いや、これマジじゃね?』
『背中やばい』
『見てられない』
『吐きそう』
『ジンさん!?』
『嘘でしょ』
『これ、死んでる……?』
『笑えない』
『カメラ止めろよ!』
『救急車! 誰か救急車!』
『これが代償……?』
『今までこんな状態で戦ってたの?』
さっきまでの「草(w)」や「8888(拍手)」の弾幕は消え失せた。
代わりに画面を埋め尽くすのは、純粋な恐怖と、困惑と、そして遅すぎる理解。
ピコは、呆然と画面を見た。
流れるコメントの一文字一文字が、自分を責めているように見えた。
――お前が笑っている間に。
――お前が「映え」とか言っている間に。
――お前が数字を稼いでいる間に。
――お前が「寿司食いたい」とか考えている間に。
この男は、独りで燃えていたのだ。
誰にも言わず、誰にも見せず、ただ静かに、他人の痛みを喰らって、自分の命を灰にしていたのだ。
それを俺は、コンテンツとして消費しようとしていたのか。
この焼け焦げた背中を、「サムネ映えする」と思って見ていたのか。
「……ふざけんなよ……」
ピコの目から、涙が溢れ出した。
それは演技の「ウソ泣き」ではない。
悔しさと、情けなさと、そしてどうしようもない恐怖の涙だ。
自分の浅ましさが、ジンの崇高な自己犠牲と対比されて、内臓が裏返るほど気持ち悪い。
「こんなの……映えるわけねぇだろ……ッ!!」
ピコは、拳を床に叩きつけた。
ドンッ!
その音は虚しく響き、倒れたジンの浅い呼吸音だけが、不気味なほど大きく聞こえていた。
ヒュー、ヒュー、と、壊れたフイゴのような音がする。
それは、命の灯火が消える寸前の、カウントダウンの音にも聞こえた。
画面の向こうの数百万人の視聴者は、初めて目撃したのだ。
正義の味方の戦いが、アニメのように綺麗なものではなく。
ただひたすらに痛く、汚く、臭く、そして残酷な「自己犠牲」の上に成り立っているという現実を。
配信は、まだ終わらない。
誰も、切ることができない。
凍りついたコメント欄と、炭化した背中。
この地獄のような光景を、世界はただ、息を呑んで見つめ続けるしかなかった。




