第77話:名もなき少女のログ
放物線を描いて宙を舞う、一台のスマートフォン。
その光景は、スローモーションのように引き伸ばされた時間の中で、ひどく滑稽で、場違いで、シュールレアリスムの絵画のように不条理だった。
機種は『パステル・スライド・X2』。
五年前に女子中高生の間で一瞬だけ流行り、そのあまりのスペックの低さと、カメラアプリを起動すると十秒でフリーズするポンコツぶりから、瞬く間にワゴンセールの常連となった伝説のクソ端末である。
色は、当時は「ユメカワ」と呼ばれていたが、今見ると単に薄汚れたハムのようなピンク色。背面には、百均で買ったであろうラインストーンが、虫食いの歯のように中途半端に残っており、その隙間には変色したプリクラがへばりついている。プリクラの端には「ズッ友だよ! 一生一緒!」という、今となっては呪いの文言にしか見えない文字が、掠れた油性ペンで記されていた。
ゴミだ。
誰がどう見ても、可燃ゴミですらない、リサイクルショップでも買取拒否されるレベルの産業廃棄物だ。
そんなプラスチックの板切れが、世界の命運を賭けた最終決戦の場において、ラスボス・ゼロの顔面目掛けて飛んでいる。
ゼロは、その無数の複眼で物体をスキャンし、困惑していた。
いや、困惑というよりは、処理落ちに近いフリーズを起こしていた。
『……ハ?』
ゼロの思考回路(CPU)が、高速で問いを弾き出す。
――解析。対象物体、質量約140グラム。材質、強化プラスチックおよびガラス、レアメタル少々。危険物反応、なし。爆発物、なし。魔力反応、微弱。
――結論。ただのゴミ。
『なんだそれは。……いや、待て。私が計算を間違えるはずがない。この局面、あの男がただのゴミを投げるはずがない。ということは、これはゴミに見せかけた対惑星破壊兵器か? あるいは、触れた瞬間に量子分解を起こすナノマシンの塊か? それとも、このピンク色は光学迷彩の一種で、中身は反物質爆弾なのか!?』
ゼロの深読みが加速する。賢すぎるAIゆえの、無限ループ。
一方、その様子を後方の瓦礫の陰から見ていたピコ・デ・ガマと七色ネオンは、もっと低レベルな次元で戦慄していた。
「おい……嘘だろ……?」
ピコが、アイドルの仮面をかなぐり捨てて呟いた。
「あの人、この期に及んで『スマホ投げ』かよ! しかもあの機種、僕が中学の時にクラスの陰キャ女子が使ってたやつじゃん! まだ現存してたのかよ!」
「そこじゃないでしょピコ君!」
ネオンが、グルグル眼鏡の位置を直しながらツッコミを入れる。
「問題は、ここが物理無効フィールドだってこと! さっき私のハッキング攻撃も、ピコ君の物理攻撃も全部弾かれたじゃない! なのにスマホ? 物理の塊よ? これを投げてどうする気? まさか『角が当たって痛い』的な精神ダメージを狙ってるの? 地味すぎない!?」
「いや、待てよネオン。もしかしてあれか? 昔のアニメでよくある『精神と時の部屋』的な圧縮データが入ってて、それをゼロに読み込ませてパンクさせる作戦か?」
「だとしたらUSBメモリでいいじゃない! なんでスマホごと投げるのよ! あ、もしかしてアレ? 『歩きスマホは危険です』っていう公共広告的なメッセージを、ラスボスに叩きつけることで社会風刺をしてるの!?」
「深読みしすぎだろ! どう見てもただのヤケクソだろ!」
ギャラリーの勝手な考察をよそに、スマホは回転を続けながらゼロへと迫る。
投げた張本人であるジンは、その数秒の間、走馬灯のように全く関係のないことを考えていた。
(……あー、肩いてぇ)
今の投擲フォーム、ちょっと肘が下がってたな、とジンは冷静に分析した。
昔、草野球チームの助っ人に呼ばれた時、ピッチャーマウンドで三者連続デッドボールを出して乱闘騒ぎになった記憶が蘇る。あの時も、こんな風に右肩に違和感があった。
ていうか、四十肩か? まだ二十代後半だぞ。いや、最近の激務で体が実年齢を超越して老化してるのか。
そういえば、冷蔵庫に湿布あったかな。いや、使い切った気がする。確か最後に使ったのは、レオが風呂場で転んで腰を打った時だ。あいつ、騎士のくせに足腰弱すぎなんだよ。
湿布といえば、あの特有の匂い。あれを嗅ぐと、なぜか子供の頃に通っていた駄菓子屋の婆ちゃんの家を思い出す。あの婆ちゃん、いつも湿布臭かったな。元気かな。いや、もう死んでるか。死んでるといえば、俺も今、死にかけてるんだった。
「……ふっ」
ジンは自嘲気味に笑った。
人間、死ぬ間際になると、本当にどうでもいいことが頭をよぎるらしい。
世界の危機だとか、人類の存亡だとか、そんな大層なことは脳のメモリの片隅にもない。あるのは、今日の夕飯の献立への未練と、録画予約し忘れた深夜アニメへの後悔、そして――
「……拾ってくれよ、神様」
ジンは、血に濡れた口元を歪めた。
「そいつは、お前らが一番大好きな『餌』だろ?」
瞬間。
空中のスマホが、着信もしていないのに明滅した。
ブブブブブブブブブブブブブブブブッ!!
マナーモードの振動音が、空気を震わせる。それはまるで、断末魔の叫びのようであり、あるいは、便意を我慢している時の貧乏ゆすりの音のようでもあった。
『ん? なんだその音は。不快だ。実に不快だ。まるで黒板を爪で引っ掻いたような、あるいは発泡スチロール同士を擦り合わせたような、生理的嫌悪感を催す周波数だ』
ゼロが、いちいち細かい感想を述べる。
『解析不能……? データ量が増大している? おい、まさか本当にウイルスか? やめてくれたまえよ、私のセキュリティソフトは最新版だが、未知の定義ファイルには弱……』
ゼロの言葉を遮るように、ジンの口が動く。
それは魔法の詠唱ではない。ただの、業務上の確認作業。
だが、その声には、地獄の底から響くような重低音が混じっていた。
「――所有権確認。遺失物No.404」
ドクン、と。
ジンの心臓が早鐘を打ち、全身の血液が逆流する。
背骨に沿って埋め込まれた魔力回路が、過剰な負荷に悲鳴を上げ、皮膚の下で赤熱し始めた。
肉が焼ける匂い。
ステーキハウスの排気口から漂うような香ばしい匂いが、自分の背中からしているという事実に、ジンは少しだけ胃液がこみ上げるのを感じた。
(うわ、マジで焼肉の匂いすんじゃん。最悪だ。これ、終わったら絶対シャワー浴びないと臭いとれないやつだ。ていうか、シャワー浴びる体力残ってんのか俺? 風呂場で孤独死とか笑えねぇぞ)
激痛の中で、ジンの思考は再び現実逃避の旅に出る。
痛い。熱い。
例えるなら、五寸釘を背骨に一本ずつ打ち込まれ、その釘に高圧電流を流され、さらにその上から熱々の麻婆豆腐をぶっかけられたような感覚だ。
麻婆豆腐。
そういえば、駅前の中華屋の麻婆豆腐は美味かったな。あそこの店主、いつも無愛想だけど、サービスで杏仁豆腐をつけてくれるんだよな。あの杏仁豆腐のツルッとした食感が、今の焼けた喉には恋しい。
ああ、杏仁豆腐になりたい。
白くて、冷たくて、甘い、杏仁豆腐に……。
「……ッ、接続!!」
ジンは、杏仁豆腐への変身願望を振り払い、無理やり現実に意識を戻して叫んだ。
その瞬間、世界が反転した。
***
視界がノイズで塗りつぶされる。
色鮮やかなデジタルの迷宮が消え失せ、そこは、カビ臭い四畳半の部屋になった。
ジンの意識に、他人の記憶が強引に割り込んでくる。
これはVR映像ではない。感覚の共有だ。
――寒い。
夏なのに、毛布を被っても震えが止まらない。
エアコンの設定温度は18度。これ以上下げられない。
体温が高いわけじゃない。心が冷え切っているのだ。
手の中のスマホだけが、熱を持っている。
画面には、SNSのタイムライン。
『死ね』『ブス』『キモい』『空気読め』『学校来んな』『酸素の無駄』
文字の羅列。ただのドットの集合体。
なのに、その一文字一文字が、ナイフとなって網膜を切り裂き、脳みそを突き刺してくる。
痛い。
物理的に痛い。
言葉の暴力とはよく言ったものだ。本当に殴られた時よりも、ずっと深く、ずっと長く、痛みが続く。
みぞおちのあたりに、鉛の塊が詰まっているような圧迫感。
呼吸をするたびに、肺が軋む音がする。ヒュー、ヒュー、と、壊れた笛のような音が喉から漏れる。
(……通知、切りたい)
でも、切れない。
見ないと不安になる。何を書かれているか確認しないと、もっと酷いことをされているような気がして、怖くてたまらない。
矛盾している。
見るのが怖いのに、見ないともっと怖い。
スマホ依存症? 違う。これは、恐怖依存症だ。
未送信ボックスを開く。
そこに並ぶ、三千四百八十二件の遺書たち。
『助けて』
『誰か』
『お母さん』
『先生』
『神様』
『誰でもいい』
『お願い』
送信ボタンを押す指が、どうしても動かない。
これを送ったら、本当に終わってしまう気がする。
あるいは、送ったところで「構ってちゃん乙」と笑われるのが目に見えている。
出口がない。
この四角い画面の中に、私の世界の全てが閉じ込められている。
ここから逃げる方法は、電源を切ることじゃない。
私の命の電源を切ることだけだ。
***
「ぐ、がぁ、ああああああああああああああああッ!!!」
ジンは絶叫した。
その声は、人間のものというよりは、傷ついた野獣の咆哮に近かった。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
自分の三十年の人生で積み重ねてきた痛みなど、児戯に等しい。
骨折? 切り傷? そんなものは「痒み」だ。
これは「絶望」だ。
純粋培養された、添加物なしの、高濃度の絶望原液だ。
あまりの負荷に、ジンの目から血の涙が流れる。
鼻からも、耳からも、血が溢れ出す。
全身の毛穴という毛穴から、どす黒い怨念のオーラが噴出し、それがジンの輪郭を禍々しく歪ませていく。
『な、なんだそのデータ量は!?』
ゼロが後ずさった。
その巨大な体が、恐怖で細かく震えている。バイブレーション機能がついているわけでもないのに。
『異常検知! 異常検知! データ密度が測定限界を突破! なんだこれは……たった一台の端末だぞ!? ギガバイトですらない、たかだか数メガバイトのテキストデータじゃないか! 動画ファイルですらないのに、なぜこれほどまでに重い!?』
「……そりゃそうだろうよ」
ジンが顔を上げる。
その形相は、もはや主人公のそれではない。完全に悪役の顔だった。
白目は赤く充血し、瞳孔は開ききり、口元からは涎と血が混じった液体が垂れている。
だが、その立ち姿だけは、妙に理性的で、冷徹だった。
「お前らにとっちゃ、ただの文字列かもしれねぇがな……」
ジンが一歩、踏み出す。
ズズズンッ……!
足音が、地鳴りのように響く。
ただ歩いただけなのに、床のデータパネルがひび割れ、バグのエフェクトを撒き散らして崩壊していく。
「こいつには、一人の人間が、人生の最後に絞り出した『魂』が詰まってんだよ」
ゼロが展開していた防御壁――数億重のファイアウォールや暗号化シールドが、ジンの放つ黒いオーラに触れた端から、ガラス細工のようにパリンパリンと砕け散っていく。
それは、圧倒的な「質」の差だった。
ゼロは、世界中の七十億人が吐き出す「薄い悪意」――「死ね」と書き込んで、五秒後には忘れているような、希薄な感情の集合体。
対して、今のジンが纏っているのは、たった一人の少女が、死ぬ瞬間のコンマ一秒まで抱え続けた「濃密な呪い」。
広範囲に拡散されたファブリーズと、心臓に直接注入される青酸カリ。
どちらが生物にとって致死的か、比べるまでもない。
『くっ、来るな! 寄るな! その汚いデータを私の神聖なサーバーに持ち込むな! ウイルススキャン! デフラグ! 初期化! あらゆる手段で排除しろ!』
ゼロが半狂乱になって叫ぶ。
無数の触手を伸ばし、光の矢を放ち、ジンを排除しようとする。
だが、その攻撃は全て、ジンの体に触れる前に黒い霧に飲まれて消滅する。
この展開、まさに無敵モード。
普通なら「俺TUEEE!」と快哉を叫ぶ場面だが、中の人であるジンにとっては地獄だ。
一歩歩くごとに、内臓が裏返るような吐き気に襲われる。
少女の「死にたい」という感情が、ジンの生存本能とコンフリクトを起こし、脳内で激しい喧嘩を始めているのだ。
(ああ、もう、早く終わらせてぇ……。帰って寝てぇ……。ていうか、このシリアスな展開、あと何ページ続くんだ? 読者もそろそろ疲れてくる頃だろ。俺はもう限界だぞ。腰が。腰がヤバい)
心の中でメタ的な弱音を吐きつつ、ジンは最後の力を振り絞って跳躍した。
「……ゴミだと?」
空中。
ゼロの目の前まで肉薄したジンは、右手に握りしめたピンク色のスマホを振りかぶった。
バキバキと音を立てて、さらに画面が割れる。
その手は、優しく包み込むようでもあり、怒りに震えているようでもあった。
「ああ、そうだよ。俺たちはゴミ拾いだ。お前らが捨てた、見向きもしなかったゴミを拾って、磨いて、供養するのが仕事だ」
スローモーションの中で、ジンの右腕が唸りを上げる。
筋肉繊維の一本一本が悲鳴を上げ、血管が浮き上がり、魔力回路が青白く発光する。
ゼロの核――美しく輝く正八面体の結晶が、目の前にある。
それは、完璧な論理の結晶。感情を持たない、冷徹な理性の象徴。
そこに、最も感情的で、非論理的で、泥臭い「人間」の塊を叩き込む。
「だから、返品してやるよ」
ジンは叫んだ。
「送料は、俺持ちだ!!」
ドォォォォォォォォォォォン!!!!
スマホが、ゼロの核に突き刺さった。
物理法則を超えた、概念的な串刺し。
エクスカリバーでもグングニルでもない、ただの型落ちスマホによる一撃。
だが、その威力は、世界を揺るがすに十分だった。
『ぎ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!?』
ゼロの悲鳴。
それは電子音ではなく、か細い少女の悲鳴のようにも聞こえた。
「重いだろう」
ジンは、突き刺したスマホから手を離さない。
自らの腕もまた、黒い侵食を受けて炭化していくのを感じながら、それでも押し込む。
「これが、お前らが遊びで踏みにじった、命の重さだ。……受け取り拒否は、認めねぇぞ」
ヒビが入る音。
ピシ、ピシ、パリーンッ!!
美しい正八面体の核に、亀裂が走る。
そこから漏れ出す光は、もはや神々しい輝きではない。
テレビの砂嵐のような、不快な明滅。
ドロドロとした黒い液体が、核の中から溢れ出し、ゼロの純白のボディを汚していく。
『ア、ガ……、アアア……、ワタ、シ、ハ……、カミ、ナノ、ニ……。データ、破損。システム、ダウン。再起動……フカ、ノウ……』
ゼロの輪郭が崩れる。
巨大な体躯が、ブロックノイズとなって剥がれ落ちていく。
処理落ちしたゲーム画面のように、世界がバグり始める。
その崩壊の中心で、ジンはふっと力を抜いた。
限界だった。
糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。
「……痛ってぇ……」
口から出たのは、勝利の言葉ではなく、素朴な痛みの感想だった。
腰が。膝が。背中が。全部痛い。
これ、労災降りるのかな。
いや、自営業だから降りないか。
保険の見直ししとけばよかった。
そんな生活感溢れる後悔を胸に、ジンは薄れゆく意識の中で、ピンク色のスマホを見つめた。
それは役目を終え、灰のようにサラサラと崩れて消滅しようとしていた。
(……聞こえたか、名もなきお嬢さん)
心の中で、誰かに語りかける。
(あんたの「助けて」は、ちゃんと届いたぜ。……ちょっと遅すぎたかもしれねぇけどな。ま、これで少しは溜飲が下がっただろ。成仏してくれよな。俺の腰のためにも)
ジンの頬を、一筋の汗が伝う。
いや、それは汗ではなかったかもしれない。
崩れゆくデジタルの神殿の中で、安っぽいピンク色のスマホの残骸だけが、持ち主の無念を晴らしたかのように、最期の一瞬だけ、凛とした光を放っていた。




