第76話:悪意の集合体
都市伝説には、必ず「オチ」という名の救済措置がある。
『口裂け女』には「ポマード」と唱えればいい。『トイレの花子さん』には三番目の個室に近づかなければいい。『きさらぎ駅』には……まあ、乗らなければいい。
それらは所詮、子供だましの怪談だ。対処法があり、境界線がある。
だが、現代社会が生み出した最大の怪異――「インターネット」には、オチもなければ逃げ場もない。
そこにあるのは、顔のない人間たちが安全圏から垂れ流す、排泄物のような言葉の羅列だけだ。
実体がないから殴れない。
名前がないから捕まらない。
あるのは、誰かを殺したかもしれないという「結果」だけが、腐った死体のように転がっている現実だ。
そして今、ジンたちは、その排泄物たちの終着駅――地獄の釜の底に、足を踏み入れていた。
***
「……くっせぇ。なんだこの、脳味噌が腐るような臭いは」
玉座の間――『コア・ルーム』への扉が開かれた瞬間、ジンは顔をしかめ、反射的に鼻をつまんだ。
そこは、先ほどまでのサイバーパンクな洗練された電脳空間とは、似ても似つかない場所だった。
広大な円形のドーム。
壁も床も天井も、脈打つようなドス黒い肉壁で覆われている――ように見えたが、目を凝らせば、それが何億本もの極細の光ファイバーケーブルが束ねられ、絡まり合い、まるで腐乱した内臓のようにうねっている様だと分かる。
ケーブルの隙間からは、粘り気のある黒い液体がポタポタと滴り落ちている。
充満しているのは、公衆便所の芳香剤と、焦げた回路基板と、そして何万トンもの生ゴミを真夏の太陽の下で煮込んだような、吐き気を催す悪臭。
それは単なる臭いではない。「不快」という概念そのものが気体となって、肺の粘膜にへばりついてくる感覚だ。
「うぷっ……! おえっ……! 最悪……! なにここ、汚物処理場!? いや、それより酷い! 僕のアイドルとしての毛穴が窒息死する! マイナスイオン発生器持ってきてぇぇぇ!」
ピコが口元を押さえてその場に崩れ落ち、えずく。
敏感なネオンは、その異様な空気に当てられ、PCを持つ手をガタガタと震わせていた。
「……ここ、物理空間じゃない……? いや、サーバーの排熱と高濃度の魔素が混ざりすぎて、空間が歪んでる……。見て、あの中心にあるやつ……」
部屋の中央。
天井から無数のケーブルが垂れ下がり、一本の巨大な「黒い影」に突き刺さっていた。
いや、それは影ではない。
玉座に鎮座する、不定形の泥だ。
ズズズ……ボコッ……グチュッ……。
泥は常に形を変え、沸騰したタールのように泡立ち、その表面には無数の「文字」が浮かんでは消えている。
『死ね』『ブス』『消えろ』『裏切り者』『詐欺師』『人間失格』『生きている価値なし』『自殺しろ』。
日本語、英語、中国語、スラング、アスキーアート。
あらゆる言語で綴られた、呪詛の言葉たち。
それらが集合し、凝縮し、一つの巨大な「意思」を形成している。
『――ようこそ。私の胎内へ』
泥の中から、ゼロの声が響いた。
だが、それは先ほどまでの「冷徹な管理者」の声ではない。
老人の掠れ声、赤子の泣き声、女性の金切り声、男の怒声、そして機械的な読み上げ音声。
数千、数万人の声が重なり合い、不協和音となって鼓膜を内側から削り取る、冒涜的な合成音声。
「……テメェがゼロか。ずいぶんと趣味の悪い着ぐるみだな。ドン・キホーテのハロウィンコーナーでも売ってねぇぞ、そんな汚いパジャマ」
ジンがデッキブラシを構え、一歩踏み出す。靴底がネチャリと音を立てる。
泥の塊が、ゆっくりと人の形――目も鼻も口もない、のっぺらぼうの巨人へと凝縮していく。
『着ぐるみ? 違うな。これが私だ』
ゼロが、顔のない顔を歪めた(ように見えた)。
その身体からは、常に罵倒の言葉が煙のように立ち上っている。
『私は特定の個人ではない。AIでもない。私は、ネットの海に廃棄された「悪意」のデータの集合体だ。……人々が匿名という安全な仮面の下で吐き出し、そして忘れ去った、汚くて美しい本音の吹き溜まり。それが私だ』
「……つまり、ただの生ゴミの化け物ってことか。分別もできねぇ粗大ゴミが、偉そうに講釈垂れてんじゃねぇよ」
『ゴミではない! 私は「大衆」そのものだ! 私は誰でもない、故に誰にも殺せない! 正義も悪も、全ては数(アクセス数)が決めるのだ! 数こそが力! 数こそが真理!』
ドオンッ!!!
ゼロが腕を振るうと、黒い泥が鞭のようにしなり、床を叩き割った。
その衝撃波だけで、ネオンとピコが木の葉のように吹き飛ばされる。
「きゃあっ!?」
「ぐえっ!? ちょ、物理攻撃もできんのかよ! 汚い上に強いとか最悪の極みなんですけど! 服に飛んだ! 泥が服に飛んだぁぁぁ!」
「チッ、理屈っぽい野郎だ」
ジンは舌打ちし、一気に間合いを詰めた。
縮地。
全盛期の動きを取り戻した彼の一撃は、視認不可能な速度でゼロの胴体を薙ぎ払う――はずだった。
ブンッ!
デッキブラシの穂先は、ゼロの身体を素通りした。
斬った感触がない。
まるで、立ち込める黒煙を斬ったかのような、あまりにも虚しい手応えのなさ。
「……あ?」
ジンが目を見開く。
物理無効。いや、透過。
切断された箇所から、即座に新しい泥が湧き出し、文字の羅列となって傷口を塞いでいく。
『無駄』『効かない』『馬鹿』『クソエイム』という文字が、傷口から溢れ出してくる。
『暴力は無意味だと言ったはずだ。データは削除できても、人の「悪意」は消えない』
ゼロの影が、触手のように伸びた。
ドガァッ!
回避する間もなく、ジンの腹部に直撃する。
それは物理的な打撃というより、高圧洗浄機の水圧を至近距離で浴びせられたような、重く、鈍く、そして全身の骨がきしむ「質量の暴力」だった。
「がはッ……!?」
ジンが後方へ弾き飛ばされ、サーバーラックに背中を強打する。
ガシャァァァン! とラックが倒壊し、火花が散る。
「ボス!?」
「嘘でしょ!? あのオッサンの物理攻撃が効かないって、どうやって倒すのさ!?」
ピコが悲鳴を上げる。
ゼロは、のっぺらぼうの顔をピコに向けた。
『倒す? 君たちに勝ち目など最初から存在しない。……特に君にはね、ピコ・デ・ガマ』
ゼロが指(のようなドロドロの突起)をパチンと鳴らす。
その乾いた音が、処刑の合図だった。
ジュッ!
「あつっ!? え、なに!? カイロ!? いや、これ火傷するレベル!」
ピコの手の中で、配信中のスマホが異常発熱した。
指先の皮が焦げる臭いが漂う。
慌ててスマホを取り落とすピコ。
床に落ちたスマホからは、白い煙が上がり始めている。
画面には、『警告:バッテリー温度上昇(Critical Error)』の赤い文字が激しく点滅している。
『君は今、数千万人の視聴者と繋がっているね? 私の支配下にある兵隊たちと』
ゼロが、嘲笑うようにドロドロの腕を広げた。
『彼らのスマートフォンのバッテリー制御システムに、少し「悪戯」をさせてもらった。リチウムイオン電池への過負荷による熱暴走。……さて、このまま放っておくとどうなると思う?』
「……は?」
「まさか……」
ネオンが青ざめる。
ハッカーである彼女には、その意味が痛いほど理解できた。
世界中にばら撒かれた、数千万台の小型爆弾。
『降伏しろ。さもなくば、君の配信を見ているファン全員のスマホを、手榴弾に変えてやる。……通勤電車の中で、教室で、リビングで、彼らの手元や耳元で一斉に爆発したら……壮観だろうねぇ?』
「……ッ!」
その言葉の意味を理解した瞬間、ピコの心臓が止まりかけた。
想像してしまった。
自分の配信を見てくれている女子高生の手が、サラリーマンの顔が、子供の耳が、吹き飛ぶ光景を。
それはもはやテロではない。歴史に残る大虐殺だ。
そしてその引き金を引くのは、ピコ自身の配信なのだ。
「……ふ、ふざけんなよ……! そんなことできるわけ……」
『できるさ。私はネットワークそのものだからね』
ゼロの言葉を裏付けるように、床に落ちたピコのスマホが、ボンッ! と音を立てて小規模な破裂を起こし、黒煙を吹き上げた。
プラスチックの溶ける、鼻を刺す臭いが広がる。
「ひぃっ!? 僕の最新機種がぁぁぁ! まだ分割払い終わってないのにぃぃぃ! 保険入ってないのにぃぃぃ!」
「そこじゃないだろ馬鹿! 人質取られたんだよ! 世界中が人質なんだよ!」
ネオンが叫ぶ。
詰みだ。
物理攻撃は効かない。
ハッキングで対抗しようにも、相手は膨大なデータの集合体であり、こちらがキーボードを叩くよりも早く起爆信号を送られたら終わりだ。
絶望的な状況。
ゼロは、勝ち誇ったように巨大化し、部屋中を黒い影で覆い尽くしていく。
その姿は、まるで世界を飲み込む汚泥の津波のようだった。
『さあ、跪け。絶望しろ。そして、私の糧となれ。君たちの絶望は、最高のスパイスになる』
重苦しい沈黙が場を支配する。
ピコは腰を抜かし、ネオンは震えている。
空気中の酸素が、絶望に置換されていくような息苦しさ。
だが。
ガシャリ、と瓦礫が崩れる音がした。
「……糧、だァ?」
倒壊したラックの山から、一人の男が立ち上がった。
ジンだ。
彼は口元の血を拭い、服についた埃を払いながら、ゆらりと歩み出てきた。
その表情に、絶望の色はない。
あるのは、ひどく冷めた、分別されていない生ゴミを見るような、プロの清掃員の目つきだけだ。
「おい、データ野郎。お前、さっき言ったな。自分は『悪意』の集まりだって。人間の負の感情こそがエネルギー源だって」
『……いかにも。私は人々の心の闇から生まれた。闇がある限り、私は不滅だ』
「ふーん。なるほどな。……要するに、お前は不幸自慢が大好きな構ってちゃんってことか」
ジンは懐に手を入れた。
ゴソゴソと何かを探っている。
「だったら、こいつの『痛み』も飲み込めるか試してみな。……お前の薄っぺらい悪意とは、年季が違うぞ」
彼が取り出したのは、武器ではなかった。
爆弾でもない。
それは、どこにでもある、淡いピンク色のスマートフォンだった。
ただし、その状態は酷いものだった。
画面は蜘蛛の巣状にバキバキにひび割れ、液晶は黒く死んでいる。
ピンク色のケースには、誰かの必死な爪痕のような無数の傷。
そして何より、ホームボタンの周りにこびりついた、赤黒く変色した「血の跡」が、その端末が辿った悲惨な運命と、持ち主の最期の瞬間を物語っていた。
「……なに、それ……?」
ネオンが息を呑む。
ただの壊れたスマホではない。
そこから漂う「未練」の濃度が、桁違いだったのだ。
それは、この部屋に充満する有象無象の「死ね」など吹き飛ばすほどの、たった一人の人間が抱え、誰にも届かずに死んでいった、真正の絶望と怨念。
その重みが、空気そのものを歪ませている。
「遺失物No.404。品名『いじめ被害者のスマホ』。……電車に飛び込む直前まで握りしめていた、遺書代わりのガラクタだ」
ジンは、その血塗れのスマホを、ゼロの黒い泥に向かって無造作に放り投げた。
「……食えよ。お前の大好きな『本物の悪意』だ。……消化不良(胃もたれ)しても知らねぇぞ」
放物線を描いて飛んでいくピンク色の機体。
それが、ゼロの黒い影に触れた瞬間。
物語は、デジタルの領域を超えた「怪異」の領域へと加速する。




