第74話:炎上より痛いもの
人生における「痛み」のランキングを作成するとしたら、栄えある第一位は何か。
多くの現代人は、したり顔でこう答えるだろう。
「恋人にフラれた時の心の痛み」や「足の小指をタンスの角に全力でぶつけた時の悶絶」、あるいは「深夜テンションで投稿した渾身のポエムが、翌朝見たら黒歴史確定で『いいね』もゼロだった時の精神的ダメージ」だと。
甘い。
砂糖漬けのハチミツに練乳をかけて、さらにガムシロップで煮込んだホットケーキくらい甘い。
そんなものは痛みではない。「くすぐったい」のカテゴリーだ。
ピコ・デ・ガマは今、人類の到達点として、そして実験台として断言できる。
ランキング第一位は、間違いなく――**「時速三千キロで飛んでくる鉛の塊が、耳の皮一枚を掠めていった時の、熱した鉄ごてを押し当てられたような灼熱」**であると。
「ぎゃああああああ! 痛い痛い痛い痛い! 熱い! 耳が! 僕のチャームポイントの福耳がァァァ!!」
地下鉄廃トンネルの最深部。
テニスコート十面分の広さを誇るサーバー室は今、光と轟音の狂ったディスコホールと化していた。
主役(DJ)はピコ。
観客は、殺意満々のアンドロイド軍団と、天井から生えた四機のガトリング砲だ。
チュンッ! バシュッ! ガガガガガッ!
ドゴォォォォォォォン!
無数の銃弾とレーザー光線が、ピコという一点に集中豪雨のように降り注ぐ。
彼が展開した簡易障壁(ペラペラの魔力シールド)は、チーズおろし器にかけられた大根のようにガリガリと削り取られ、防御しきれない余波(衝撃波)が彼のジャージを、皮膚を、容赦なく切り裂いていく。
「ふざけんな! なんだよこの『痛み』は! 聞いてないよ! 炎上より痛いじゃん! アンチのクソリプなんて、これに比べたらただの挨拶みたいなもんじゃん! 物理ってこんなに痛いの!? 現実の解像度高すぎでしょ!?」
ピコは涙目で叫びながら、カエル跳びで右へ左へと逃げ回る。
彼の頬を、鋭利なコンクリート片が掠めた。
ツツッ、と赤い筋が走る。
その瞬間、彼の脳内で「請求書」が発行される。
「ひぃッ!? 顔! 顔はやめて! 商売道具! これ維持するのに月三十万かけてんの! ヒアルロン酸とかビタミンC誘導体とか、カタツムリのエキスとか、色々染み込んでる高級な皮膚なの! 傷一つで査定額が暴落するのぉぉぉ!」
叫べば叫ぶほど、アンドロイドたちの赤いセンサーが激しく明滅する。
彼の固有スキル『憎悪集積』は、彼の悲鳴すらも「極上の煽り」として敵のAIに認識させるのだ。
――コッチヲ見ロ。
――コノ五月蝿イガキヲ黙ラセロ。
――優先順位:最大。
――殺セ。殺セ。殺セ。
アンドロイドたちが、機械的な唸り声を上げてピコに群がる。
その光景は、タイムセールのワゴンに群がるバーサーカー主婦のようであり、あるいは握手会で推しに群がるゾンビのようでもあった。
(……死ぬ。これ絶対死ぬ。走馬灯のストックもうないよ!? さっき使い切ったよ!?)
ピコの脳内で、緊急警報が鳴り響く。
痛み。恐怖。そして何より、この状況の理不尽さ。
――なんで僕がこんな目に?
――僕はただ、チヤホヤされたかっただけなのに。
――楽して稼いで、タワマンで猫を飼って、休日はウーバーイーツでタピオカ頼んで優雅に暮らしたかっただけなのに。
あまりにも俗物的な願望が、銃弾の雨の中で儚く散っていく。
左腕に激痛が走る。流れ弾が掠めたのだ。
焼けるような痛み。骨に響く振動。
かつて、紙で指を切っただけで「もうピアノが弾けないかも(弾けないけど)」と大騒ぎして救急車を呼ぼうとした自分を殴りに行きたい。あれは怪我じゃない。ただの痒みだ。本物の痛みとは、肉が裂け、神経が焼き切れ、脳味噌が「ここ壊れましたよ!」と全力でエラーメッセージを吐き出し続ける、この感覚のことだ。
「うぅ……あぁ……ママぁ……帰りたいよぉ……」
足がすくむ。
このままうずくまって、「ごめんなさい」と謝れば、許してもらえるだろうか?
いや、相手はロボットだ。慈悲はない。
なら、逃げるか? 僕だけ逃げれば……。
その時。
ピコの背中にある「視線」が、彼をその場に釘付けにした。
スマホのカメラだ。
割れた画面の向こうにいる、数千万人の視聴者たち。
そして何より、自分の背後に倒れている、あの不愛想で、口が悪くて、でも自分を拾ってくれた掃除屋の存在。
(……見られてる。……いま、世界中が僕を見てる)
その事実が、震える膝に鉄芯を入れる。
彼はプロだ。たとえクズでも、見世物小屋の猿でも、ステージに立っている限りは「主役」を演じなければならない。
それが、三百万人の登録者を抱えるトップ配信者の矜持。
あるいは、ただの意地。
「……見ろよ! もっと僕を見ろ! スパチャ投げてる暇があったら弾丸投げてこいよ! 全部受け止めてやるからさぁぁぁ!!(※嘘です無理です助けてママァァァ!)」
虚勢と本音が混ざり合った絶叫。
その姿は、あまりにも無様で、滑稽で、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、そしてどうしようもなく、誰かを守るための「タンク(盾役)」だった。
***
その喧騒の裏側で。
一人の男が、地獄の縁から這い上がろうとしていた。
「……ゼェ……ハァ……」
ジンは、血の海の中で膝をついていた。
ピコが敵の全ヘイトを引き受け、文字通り「踊る的」になってくれたおかげで、彼に向けられる銃口は一つもない。
その数秒の猶予が、彼に呼吸をする時間を与えた。
肺が焼けるように熱い。
気管支に詰まった血塊を、ゴフッ、と吐き出す。
コンクリートの床に、赤い花が咲く。その赤は、彼の命の色そのものだ。
「……いい度胸だ、三流芸人……」
ジンは震える手で、懐から小さなピルケースを取り出した。
中に入っているのは、ヤクモから処方された特製の鎮痛剤。
成分不明。認可外。モルヒネの十倍の鎮痛作用と、覚醒剤並みの興奮作用があり、副作用として「寿命の前借り」を要求する、悪魔の契約書のような劇薬だ。
本来なら水で飲むべきその白い錠剤を、彼は二粒まとめて口に放り込み、奥歯でガリッと噛み砕いた。
ジャリッ。
嫌な音が脳に響く。
強烈な苦味が口いっぱいに広がる。まるでバッテリー液を飲んだような、舌が痺れる化学物質の味。
「……ぐ、ぅ……!」
飲み込んだ瞬間、胃袋から熱塊が爆発した。
脳内麻薬が強制的に分泌され、脊髄を焼き尽くしていた激痛が、冷水に浸されたように急速に麻痺していく。
切れた神経が無理やり繋がり、止まりかけた心臓が強制的に再点火される。
「……ふぅー……」
ジンは長く、深く息を吐いた。
白い呼気と共に、死神が「チッ」と舌打ちをして去っていく気配がした。
視界の歪みが治る。
指先の震えが止まる。
ただし、これは治癒ではない。壊れた機械にニトロをぶち込んで無理やり動かしているだけだ。戦闘が終われば、反動で今度こそ動けなくなるだろう。
だが、今はそれでいい。
「……チップを弾んでやらねぇとな」
ジンは床に転がっていたデッキブラシを拾い上げ、ゆらりと立ち上がった。
その瞳に、捕食者の光が戻る。
彼が狙うのは、敵の「死角」のみ。
***
「もう無理! 限界! キャパオーバー! 誰か代わって! シフト交代の時間だよぉぉぉ! 労働基準監督署に訴えてやるぅぅぅ!」
ピコの悲鳴が最高潮に達した時だった。
一体のアンドロイドが、ピコの目の前まで肉薄していた。
人型でありながら、関節を無視した動きで迫る銀色の死神。
振り上げられた鋼鉄の拳。
それがピコの鼻梁を粉砕する軌道を描いた、その刹那。
ズドォォォォォンッ!!!
横合いから、黒い影が奔った。
アンドロイドの頭部が、何か硬い棒状のもので真横からカチ上げられ、首のジョイントごと景気よく吹き飛んだのだ。
プシュァァァッ! とオイルが噴き出す。
「……え?」
ピコが目を見開く。
首なしになったアンドロイドが、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる。
その背後に立っていたのは、口元を血で赤く染め、しかしニヤリと凶悪な笑みを浮かべたジンだった。
「お疲れさん、客寄せパンダ。……客席は満員御礼だな」
「ボ、ボス……!? 生きてたの!? ていうか顔色悪いよ! ゾンビ映画の特殊メイクみたいになってるよ! ハロウィンは先月だよ!?」
「失礼な。これは『血色が良い』って言うんだよ」
ジンはデッキブラシを一回転させ、肩に担いだ。
鎮痛剤の効果で、一時的に全盛期の動きを取り戻している。だが、その肌は白蝋のように白く、冷や汗が滝のように流れている。蝋燭が燃え尽きる前の、最後の輝き。
「ピコ。そのまま踊り続けろ」
「はぁ!? 鬼かあんた! 僕もうHP1だよ!? スライムに触られただけで死ぬよ!? 『ひのきのぼう』で叩かれても即死だよ!?」
「1残ってりゃ十分だ。お前が派手に騒げば騒ぐほど、こいつらの高性能な目は節穴になる。……その隙に、俺が全部叩き壊す」
ジンは短く告げると、再び影のようにステップを踏んだ。
ピコは一瞬、呆気に取られたが、すぐにその意味を理解した。
共同作業。
光と影。
目立ちたがり屋の承認欲求モンスターと、日陰者の掃除屋。
水と油のように相容れない二人の性質が、この戦場においてのみ、奇跡的な「噛み合い(シナジー)」を生んでいるのだ。
「……ちくしょう! 分かったよ! やればいいんでしょ! ブラック企業め! 僕の美声で敵の鼓膜を破壊してやるよ!」
ピコは開き直った。
涙を拭い、鼻水を袖で拭き、カメラに向かって、そして迫り来るロボット軍団に向かって、中指を立てる。
「おい鉄屑ども! よそ見してんじゃねぇぞ! 僕の肌ツヤを見ろ! この毛穴レスな美肌は、お前らの安っぽいメッキ塗装とは格が違うんだよォォォ!」
意味不明な挑発。
だが、効果は絶大だ。
ロボットたちが一斉にピコを振り向く。AIにとって「理解不能な高エネルギー反応(ただの自己顕示欲)」は、最も警戒すべき対象だからだ。
その瞬間。
彼らの背後に、致命的な「死角」が生まれた。
「隙あり」
ジンの姿がブレた。
縮地。
人間離れした速度で懐に潜り込み、デッキブラシの先端――魔力を纏わせて鋼鉄以上に硬化させた穂先を、ロボットの関節部(膝、肘、首、動力パイプ)に正確に突き刺す。
ガシャァッ! バキィッ! ドゴォッ!
「硬い装甲を殴る」のではない。「装甲の継ぎ目を穿つ」精密攻撃。
一体、また一体。
ピコに気を取られたロボットたちが、何が起きたのかも理解できないまま、スクラップへと変わっていく。
「すげぇ……! あのオッサン、人間じゃねぇ……! 動きがフレーム飛びしてる……!」
ピコは戦慄した。
目の前で展開されるのは、掃除という名の解体ショーだ。
だが、感心している暇はない。
頭上のガトリング砲が、再び回転を始めている。
「うわっ、まだあるの!? ちょっと、タイム! CM入ります! ……って言っても止まってくれないよねぇぇぇ!」
ピコが泥臭く転がる。
その直後を大口径の弾丸が穿つ。
ジンが壁を蹴り、重力を無視して天井近くまで跳躍する。
空中でデッキブラシを大回転させ、ガトリング砲の銃身を力任せに叩き曲げる。
グニャリ。
鉄パイプが飴細工のように曲がる嫌な音。
暴発した弾丸が内部で爆発し、ガトリング砲が黒煙を吹いて沈黙した。
「一丁あがり」
着地と同時に、ジンは残りのアンドロイドを薙ぎ払った。
ズシャァァァァ!
戦闘時間、わずか三分。
圧倒的な暴力の嵐が過ぎ去った後には、部品を撒き散らして痙攣する鉄屑の山だけが残されていた。
***
シーン……。
戦闘後の静寂。耳鳴りだけが、キーンと残響している。
サーバー室のLEDライトが、チカチカと明滅していた。
「……はぁ……はぁ……」
ピコは、瓦礫の山の上にへたり込んでいた。
自慢のブランドジャージはボロボロ、髪は爆発し、顔は煤と涙と鼻水と血で、泥人形のようになっている。
身体中が痛い。
特に、掠り傷を負った耳と頬が、ジンジンと脈打つように熱い。
アドレナリンが切れ始め、痛覚が仕事をし始めたのだ。
(痛い……。マジで痛い……。これ、跡残るかな……。整形費用いくらかかるんだろ……。保険降りるかな……いや、テロ行為だから免責か……?)
ネガティブな思考が渦巻く。
だが、彼はプロだった。
あるいは、救いようのない配信中毒者だった。
震える手でスマホを持ち上げ、割れた画面の向こうへ、精一杯の「キメ顔」を作ったのだ。
たとえそれが、引きつった笑顔だとしても。
「……ふぅ。汗かいちゃったな。……みんな、見た? 僕の華麗なる回避テクニック。……まあ、これくらい余裕だけどね(震え声)」
その声は裏返り、膝は生まれたての子鹿のようにガクガクと笑っている。
誰がどう見ても、余裕なんてない。泣きべそをかいた迷子だ。
しかし。
スマホの画面を流れるコメント欄は、今までとは違う空気を帯び始めていた。
『え、今のガチ?』
『CGじゃなくね? 火花とかリアルすぎだろ』
『ピコ、後ろ出血してるぞ』
『顔に傷入ってる……痛そう』
『あいつ、逃げなかったな』
『性格クズだけど、根性はあるんじゃね?』
『無事か?』
かつての「殺せ」「死ね」という罵倒の嵐が消え、代わりに困惑と、そしてほんの少しの「心配」が混じり始めている。
悪意という名の炎上が、物理的な痛みを伴うリアリティを前にして、鎮火しつつあったのだ。
人は、安全圏から石を投げることはできても、血を流して戦う人間に対しては、本能的に畏敬の念を抱くものだ。
それがたとえ、嫌いな奴であっても。
「……へへっ。……なんだよ、アンチ共……。急に優しくなんなよ……。調子狂うじゃん……」
ピコは鼻をすすり、画面に向かって弱々しく笑った。
その時、背後から大きな手が伸びてきて、ピコの頭を鷲掴みにした。
「おい。いつまで撮影会やってんだ」
ジンだ。
彼もまた、全身血塗れでボロボロだが、その表情はいつもの不機嫌なものに戻っていた。
その手が、乱暴に、しかしどこか労るように、ピコの髪をクシャクシャとかき混ぜる。
「行くぞ。……この騒ぎで、親玉のお出ましだ」
ジンの視線の先。
サーバー室の最深部にある、巨大なメインコンソール。
そのモニターに映っていたスマイルマークが消え、代わりにノイズ交じりの映像が表示された。
そこには、現実の風景――パニックに陥る渋谷のスクランブル交差点を見下ろす、あるビルの屋上が映し出されていた。
そして、そこに立つ人影も。
『……素晴らしい。実に素晴らしいショーだったよ、旧人類たち』
ゼロの声が、歓喜に震えて響き渡った。
物語は、モニターの向こう側から、現実の空の下へと移行しようとしていた。
しかし、その前に一つだけ、ピコには言っておきたいことがあった。
「……ねえボス。これ、労災降りるよね?」
「知るか。自腹で治せ」
「鬼ィィィ!!!」




