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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
電子の海と、虚構の王子

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第73話:タンクの覚醒

殺意とは、純粋なベクトルだ。

 それは愛よりも単純で、空腹よりも直線的で、そして通勤ラッシュ時のサラリーマンが改札に向かう足取りよりも速い。

 だからこそ、プロは見誤らない。

 たとえそれが、背後から音もなく迫る、洗脳された少年の震えるナイフであっても。

 いや、むしろ震えているからこそ、その軌道は予測不能であり、酔っ払いの千鳥足のようにタチが悪いのだ。


 ヒュンッ!


 空気を裂く鋭い音が、ジンの耳元の産毛を撫でた。

 あとコンマ一秒遅ければ、あるいはジンの朝食が納豆ではなくトーストで、血流がサラサラになっていれば、そのセラミック製の刃は頸動脈をホットなバターのように切り裂いていただろう。


 だが、ジンは振り返りもしなかった。

 彼が行ったのは、朝のラジオ体操よりも緩慢で、しかし針の穴を通すように精密な「脱力」だけだ。

 上半身を数センチだけ右へずらす。

 たったそれだけの動作で、必殺の一撃は虚空を切り、勢い余ったピコの体が前のめりになる。


「……あ、が……!?」


 ピコの喉から、潰れたカエルのような声が漏れる。

 その瞬間、ジンは背後へ手を回した。見えていないはずの手首を正確に掴み、雑巾を絞る要領で、関節の可動域限界を超えてねじり上げる。


 メキョッ。

 人体から鳴ってはいけない、湿ったプラスチックが折れるような音が響いた。


「がぁッ!? あ、ぎぃぃぃぃ!?」


 セラミックナイフが床に落ち、乾いた音を立てる。

 ジンはそのままピコの手首を離さず、ゆっくりと、まるで錆びついた扉が開くように振り返った。


「……おい。再生数稼ぎにしちゃあ、随分と手が震えてるじゃねぇか」


 見下ろすジンの瞳は、絶対零度だった。

 対するピコの瞳孔は開ききり、口元からは涎が垂れ、完全に「あちら側」へトリップしている。画面の向こう側の数千万人の悪意に乗っ取られた、哀れな受信機レシーバー


「……殺せ……ノイズ……排除……ア……アア……」

「言葉も通じねぇか。便利な世の中になったもんだな、指先一つで他人をラジコンにできるとは。これならPTAの役員決めもスムーズに行くってもんだ」


 ジンは深いため息をついた。

 その吐息には、タバコの煙と、世の中の理不尽に対する諦めが混じっている。

 彼は空いている左手を、ゆらりと振りかぶった。


 それは、暴力ではない。

 ましてや、折檻でもない。

 あえて名付けるなら、そう――「魂の再起動リブート」だ。


「目ェ覚ませ、クソガキッ!!!」


 ドゴォォォォォォォンッ!!!


 強烈な平手打ち(ビンタ)が、ピコの左頬に炸裂した。

 その衝撃音は、地下空間に雷鳴のように轟いた。

 昭和の頑固親父がちゃぶ台をひっくり返す時の遠心力と、プロ野球のピッチャーが全力投球する際のスナップ、そして「お前のそのふざけた根性を叩き直してやる」という無償の愛(物理)が込められた一撃。


「ぶべラッ!? ひでぶッ!?」


 ピコの身体が、物理法則を無視して独楽コマのように三回転半し、きりもみ状態で地面に叩きつけられた。

 顔面からコンクリートに激突する鈍い音。

 その瞬間、ピコの脳内に詰まっていたデジタルノイズが、物理的な衝撃によって強制的に弾け飛んだ。


 ***


(……痛っ! え、何これ、痛い! 熱い! 頬の骨が粉砕骨折した音が聞こえたんですけど!?)


 ピコの意識が、深海から急浮上する。

 視界には、チカチカと点滅する星屑が見える。

 

(え、ここプラネタリウム? それとも僕の走馬灯? あ、待って、走馬灯に変な映像が混じってる……)


 脳がシェイクされた影響で、どうでもいい記憶の断片がフラッシュバックする。

 ――五歳の誕生日、お母さんが作ってくれたハンバーグが生焼けで、翌日トイレから出られなかった記憶。

 ――中学の修学旅行、寝ている間に友達に眉毛を全剃りされ、翌日の集合写真で一人だけモナリザみたいになっていた記憶。

 ――初めての配信で、緊張のあまり「みなさんこんにちは、ピコです」と言うつもりが「みなさんこんピコ、にちはです」と謎の造語を生み出してしまい、それが黒歴史としてネットの海に残った記憶。


(なんでロクな思い出がないの!? 僕の人生、もしかしてギャグマンガ!? もっとこう、初恋の甘酸っぱい思い出とかないわけ!?)


 頬の激痛と、口の中に広がる鉄錆(血)の味が、彼を無理やり現実へと引き戻す。


「……ッ、はぁッ!?」


 ピコがガバッと顔を上げた。

 視界がクリアになる。耳をつんざくような不快な高周波も消えている。

 目の前には、右手をブラブラさせながら「ったく、骨の硬いガキだ」と悪態をついているジンと、涙目でこちらを見ているネオン。そして、床に転がる凶器のナイフ。


「……え、僕、なにを……? あ、あれ? なんでナイフなんて……。これ、通販で買って一回も開けてなかった『魔除け』の……」

「夢遊病で料理でもしようとしたんだろ。だが残念だったな、俺は肉料理より魚派だ。それも刺身じゃなく煮付けな」

「煮付け……? え、何の話……?」


 混乱するピコを尻目に、ジンは再びモニターの方へ向き直った。

 その背中は、「まあ、よくあることだ」とでも言いたげに平然としているが、ピコの手首には、まだ彼の手の熱さと、握り潰されそうになった痛みが鮮明に残っていた。


『……チッ』


 広大な空間に、増幅された舌打ちが響き渡った。

 モニターの中の「スマイルマーク」――AR管理者ゼロのアバターが、口元の線を不愉快そうに歪めている。


『やはり旧式アナログの個体は野蛮だね。暴力による強制再起動ハードリセットとは。……せっかく私が演出した、感動的な「悲劇のエンディング」だったのに』

「エンディングなんざテメェで勝手に作ってろ。俺たちの物語シナリオは、いつだって打ち切り寸前の自転車操業なんだよ」

『強がりを。……まあいい。精神ソフトが壊せないなら、物理ハードを粉砕するまでだ。リソースの無駄遣いだが、仕方ない』


 ゼロが指を鳴らすような音を立てた。

 その乾いた音は、死刑執行の合図だった。


 ガション、ガション、ガション……!

 ウィィィィン……!


 天井のハッチが次々と開き、そこから無数の「死」が顔を覗かせた。

 六本の銃身を束ねた、自律制御型ガトリング砲(M134ミニガン)。それが四機。

 さらに壁面の格納庫がスライドし、銀色のボディを持った人型ロボット――警備用アンドロイドが十数体、軍隊のように整列して行進してくる。


「……う、嘘でしょ……? ガトリングって……ここ日本だよ? 銃刀法違反とかそういう次元超えてるじゃん! 一分間に六千発とか撃つやつでしょ!? 僕たちの身体、ミンチになっちゃうよ!?」


 正気に戻ったばかりのピコが、腰を抜かして後退る。

 ネオンもPCを抱えてガタガタと震え上がっている。

 ハッキングでどうにかできる数ではない。物理的な弾幕ファイアウォールの前では、天才ハッカーもただの眼鏡っ娘だ。


「おいネオン、ピコ。後ろに下がってろ。……流れ弾に当たりたくなかったら、床のシミになれ」


 ジンが一歩、前に出た。

 愛用のデッキブラシを構える。

 相手は最新鋭の殺戮兵器群。対する彼は、ホームセンターで買った掃除用具を持った中年男性。

 戦力差は絶望的だ。だが、彼の纏う空気は、まるで「散らかった部屋を片付ける」前の清掃員のように静かで、そしてどこか楽しげですらあった。


「……久しぶりの大掃除だ。少し派手にやるぞ。……残業手当は請求させてもらうがな」


 そう言って、ジンが踏み込もうとした、その時だった。


 ドクンッ。


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 予兆? いや、そんな生易しいものではない。

 まるで心臓の内側に小さな爆弾を仕掛けられ、それが今まさに起爆したかのような、内臓を直接ひっくり返される衝撃。


「――がッ!?」


 ジンの動きが、コマ送りのように停止した。

 視界がブラックアウトする。

 肺の中で、何かが破裂する音が聞こえた。

 気管支を逆流してくる、生温かくてドロリとした液体。それはまるで、煮詰めすぎたトマトジュースのような、鉄錆の味がする「命」そのもの。


「……ごふッ……!!」


 ジンは口元を押さえたが、指の隙間から鮮血が噴水のように溢れ出した。

 膝から崩れ落ちる。

 カラン……。

 デッキブラシが手から滑り落ち、乾いた音を立てて転がった。


「……ボス!?」

「ジンさん!?」


 ネオンとピコの悲鳴が、水中にいるように遠く聞こえる。

 身体が動かない。指一本動かせない。

 背中の古傷――『死者の共鳴』によって焼き焦げた魔力回路が、限界を超えて悲鳴を上げているのだ。

 長年の無茶。未練の吸収。そして今夜のドローン迎撃。

 全ての負荷が、ヤクモに宣告された「余命半年」という砂時計を、ハンマーで叩き割る勢いで削り取っていく。


(……っ、今かよ……クソが……!)

(空気読めよ、俺の身体……! 今はシリアスな戦闘パートだぞ……! ここで倒れるのは、死亡フラグ回収しすぎだろ……!)


 ジンは血塗れの口で悪態をついた。

 タイミングが悪すぎる。神様がいるとしたら、間違いなく性格の悪い脚本家だ。

 目の前には、銃口を回転させ始めたガトリング砲。

 迫り来るアンドロイドの群れ。彼らのセンサーは、無慈悲に「無力化した脅威」をロックオンしている。


『おや? 寿命かな?』


 ゼロの嘲笑う声が、脳に直接響く。


『ポンコツにはポンコツがお似合いだ。……さあ、掃除の時間だよ。ゴミはゴミ箱へ、英雄は墓場へ』


 ウィィィィン……!

 ガトリング砲のモーター音が最高潮に達する。

 キュイイイイン……!

 死の雨が降るまで、あと数秒。いや、コンマ数秒。


「……ひッ!」


 ピコは反射的に身体を翻した。

 逃げなきゃ。

 死ぬ。ここで突っ立っていたら、間違いなく蜂の巣になって、肉片になって、明日には「正体不明の有機物」として処理される。

 僕には関係ない。僕はただの被害者だ。巻き込まれただけだ。

 このオッサンが勝手にカッコつけて、勝手に限界迎えて倒れただけだ。自業自得だ。

 僕だけでも逃げれば、もしかしたら助かるかもしれない。入り口までは五十メートル。全力ダッシュなら五秒で行ける。


 本能が「走れ」と叫ぶ。

 足は出口の方を向いている。

 お気に入りのスニーカーが、キュッ、と床を擦る音を立てた。

 

 だが。


「……っ、う……」


 逃げようとしたピコの視界の端に、うずくまるジンの背中が映り込んだ。

 激しい発作で苦しむ彼の背中。

 めくれ上がったシャツの隙間から、見えてはいけないものが見えてしまった。


 それは、皮膚ではなかった。

 

 炭化し、ひび割れ、どす黒く変色し、まるで溶岩が冷え固まったかのような「何か」。

 古傷? 火傷? いや、そんなレベルじゃない。

 それはまるで、三十年間燃え続けたバーベキューの炭の残骸のような、あるいは、地獄の業火に焼かれ続けた罪人のような、見るもおぞましい「代償」の痕跡だった。


(……な、なんだよ、あれ……)


 ピコは足を止めた。心臓が早鐘を打つ。

 知らなかった。

 いつも偉そうで、強くて、理不尽で、口を開けば減らず口ばかり叩くこの男が、服の下にこんな「死」を隠していたなんて。


(……こんな身体で、僕たちを庇ってたのか? あんな、冷蔵庫みたいに重いドローンを叩き落として? 僕を背負ってここまで歩いて?)


 走馬灯のように、ここ数日の記憶が蘇る。

 ――炎上して、全てを失って、ゴミ捨て場で膝を抱えていた自分。

 ――「契約成立だ」と言って、汚い手を差し伸べてくれた瞬間。

 ――そして先ほど、洗脳された自分がナイフを振り下ろした時、殺さずに、ただのビンタで済ませてくれた不器用な優しさ(物理的には星が見えるほど痛かったが)。


 ――逃げるのか?

 ――また、見捨てて逃げるのか?

 ――お前は、一生そうやって、安全な場所から他人を踏み台にして、自分だけ可愛いまま生きていくのか?


 脳内で、もう一人の自分が問いかける。

 その声は、かつて自分が裏切ってきたファンたちの声であり、そして何より、自分自身が一番嫌いな「自分」の声だった。


「……ふざけんな」


 ピコは歯を食いしばった。

 ガチガチと歯が鳴る。膝が笑う。膀胱の括約筋が限界を訴えている。

 でも。


「……ふざけんなよ……! 僕の再生数(数字)稼ぎを……こんな湿っぽいシーンで終わらせてたまるかぁぁぁ!!」


 ピコの中で、何かがブチリと音を立てて切れた。

 それは「保身」という名の安全装置であり、「常識」という名のブレーキだった。

 彼は逃げるために向けていた足を、無理やり反転させた。

 摩擦でスニーカーのソールが削れる音がする。


 ダダダッ!


 全力で地面を蹴り、うずくまるジンの前へと飛び出した。


「……おい、馬鹿、やめろ……!」


 ジンの掠れた制止を無視し、ピコは仁王立ちになった。

 目の前には、回転するガトリング砲。

 赤いレーザーサイトが、ピコの華奢な身体に無数のドットを描き、まるで病気の斑点のように染め上げる。


 怖い。死ぬほど怖い。

 ちびりそうだ。いや、もうちょっとちびってるかもしれない。

 だからこそ、彼は笑った。

 配信者として培った、最高に嘘くさくて、最高に挑発的で、そして最高に輝いている「営業スマイル」で。


「――おいカスパソコンどもォォォ!!!」


 ピコは両手を広げ、天井のカメラ(ゼロ)に向かって絶叫した。

 その声は、恐怖で裏返っていたが、確かに戦場を支配する「センター(主役)」の響きを持っていた。


「僕を見ろ! 他の誰でもない、この僕を見ろ! 僕はピコ・デ・ガマだぞ! チャンネル登録者数三〇〇万人(炎上前)、世界一可愛くて世界一性格の悪い美少年だぞ!」


 彼は懐から、画面がヒビ割れた自分のスマホを取り出し、インカメラを自分に向けた。

 配信はまだ続いている。

 洗脳が解けた視聴者たちが、混乱しながらも見守っている画面の向こうへ、彼は魂を込めて叫ぶ。


「見てるかお前ら! これが伝説だ! 僕はいま、丸腰でマシンガンの前に立っている! スパチャなんか要らねぇ! 高評価も要らねぇ! ただその眼球に焼き付けろ! 僕の! 最高の! 死に様をぉぉぉ!!」


 瞬間。

 ピコの身体から、赤黒いオーラのようなものが噴き出した。

 それは魔力ではない。

 彼が生まれ持った、どうしようもない才能ギフト

 他人の神経を逆撫でし、注目を集め、あらゆる敵意を自分一点に集中させる、究極の「釣り」スキル。


 固有能力ユニークスキル:『憎悪集積ヘイト・コレクション』発動。


 ブォンッ!!!

 空間が歪むほどの「ウザさ」が拡散される。

 それは物理的な挑発信号となって、敵のAI判断ロジックを強制的に書き換えた。


『……警告。優先排除対象を変更。……脅威レベル:最大。……対象:ピコ・デ・ガマ』


 システム音声が無機質に告げた。

 ガトリング砲の銃口が、アンドロイドの視線が、全てジンの背中から外れ、ピコの眉間へと吸い寄せられる。

 何十もの殺意が、たった一人の少年に降り注ぐ。


「ははっ……! すげぇ人気者じゃん、僕……! 全盛期より注目されてるかも……!」


 ピコは涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、ニカっと笑った。

 それは彼の人生で初めて見せた、計算のない、本当の笑顔だったかもしれない。


「来いよポンコツ! 僕の顔に傷一つ付けたら、ファンクラブが黙ってないぞオラァァァァ!!」


 ウィィン……ダダダダダダダダッ!!!


 銃声が轟く。

 マズルフラッシュが暗闇を焼き尽くす。

 少年は、自分を守るためではなく、誰かを守るための「タンク」となって、光の嵐の中へと消えていった。


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