第71話:アンロック・コード
世界には二種類の人間がいる。
USB端子を一発でポートに挿せる「選ばれし者」と、必ず裏表を間違えて「ん? 入らない?」とひっくり返し、それでも入らず「あれ? やっぱりさっきのが正解?」ともう一度ひっくり返し、結果的に端子周りをガリガリと傷だらけにする「我々」だ。
これはマーフィーの法則ではない。神が与えた試練であり、人類の業そのものだ。
そして今、七色ネオンは、人生最大級にして最凶の「USB一発挿し」という業に挑んでいた。
場所は、地下鉄の廃トンネル最深部。
湿度は九十パーセント超。カビと鉄錆、そしてどこかで死んだネズミの腐臭が混ざり合った空気は、肺に入れるだけで寿命が縮みそうな味がする。
ネオンの膝の上には、ステッカーだらけの愛機(ノートPC)。そこから伸びる一本の黒いケーブルが、目前にそびえる巨大な防護扉の接続ポートに向けられている。
「……ふぅー……ふぅー……」
ネオンは深呼吸を繰り返していた。
心臓の鼓動がうるさい。BPMで言えば180を超えている。もはやハードコア・テクノの領域だ。あと少し上がればガバ・キック(高速重低音)になって肋骨を内側から粉砕するかもしれない。
「おい、いつまで精神統一してんだ。座禅なら寺でやれ」
頭上から、ジンが無慈悲なツッコミを投げかける。
彼は悠々とタバコ(電子ではなく、貴重な紙巻き)を口にくわえ、デッキブラシで自分の肩をトントンと叩いている。この男には緊張感という機能が欠落しているのだろうか。
「……静かにしてよボス。これ、儀式なの……。ハッキングは精神スポーツ……。呼吸を整えて、チャクラを練り上げて、宇宙と一体化しないと指が動かないの……」
「お前の職種、魔法使いだったか? ただのタイピングだろ」
「ただのタイピング!? これだからアナログ人間は! いい!? これから私が挑むのは軍用レベルの暗号化障壁だよ!? 失敗したらどうなるか分かる!?」
ネオンは血走った目でジンを睨み上げた。
「私のPCが逆探知されて、脳みそが電子レンジでチンされたみたいに沸騰して、鼻と耳から煙出して廃人になるの! あるいは、即座に警察の特殊部隊(SAT)が突入してきて、私の部屋にある『薄い本』のコレクションごと押収されるの! 死ぬより辛い社会的死が待ってるの!」
「知るか。薄い本は事前に燃やしとけ」
「バカ言わないで! あれは私の魂ジェム! 燃やしたら私が魔女化するわ!」
どうでもいい問答を繰り広げながらも、ネオンの手は震えていた。
コネクタを持つ指先が、汗で滑る。
このケーブルを繋げば、もう後戻りはできない。
向こう側にいるのは、ただのプログラムではない。殺意を持った「番犬」だ。
(……やるしかない。……私の今月の家賃と、限定ガチャの課金代のために……!)
ネオンは覚悟を決め、コネクタをポートに突き刺した。
カチリ。
その小さな音が、開戦のゴングだった。
エンターキーを叩く。
ッターン!
瞬間。
ネオンの視界が、警告色一色に染まった。
「――ッ!?」
ブォンッ!!!
空間が歪むような重低音。
扉の前の虚空から、膨大な光の粒子が噴き出し、一つの巨大な「形」を形成していく。
それは、警告メッセージなんて生易しいものではなかった。
三つの首。
燃え盛るような紅蓮の瞳。
全身を漆黒のデータ装甲で覆った、神話級の猛獣。
「グルルルルル……!」
地獄の番犬、ケルベロス。
ホログラムなのに、その吐息からは硫黄の臭いすら感じる。
圧倒的な「圧」。
それはネオンの網膜を経由して、直接、大脳辺縁系の「恐怖中枢」を鷲掴みにした。
「ひっ……!?」
ネオンは息を呑み、PCを取り落としそうになった。
怖い。
シンプルに、デカくて怖い。
だが、ハッカー特有の悲しい性で、恐怖の瞬間に脳裏をよぎったのは、あまりにもメタ的な分析だった。
(うわ、ポリゴン数えぐい……! 何これ、無駄に4Kテクスチャ貼ってない!? 毛並みのシェーダー処理だけで私のPCのGPU焼けるんですけど! ていうか、こんな凝ったデザインにする予算あるならセキュリティホールの修正にお金使いなさいよ! 無駄遣い行政かよ!)
現実逃避気味に突っ込んでいる間にも、ケルベロスの中央の首が、バカっと大口を開けた。
喉の奥で、致死性の攻撃プログラム――神経破壊ウイルス(ニューロ・バスター)が圧縮されていく音がする。
キュイイイイン……!
「あ、死んだ。これ終わった」
ネオンの脳内で、走馬灯が高速回転を始めた。
しかし、そこに映し出されたのは、家族との思い出でも、美しい風景でもなかった。
(やばい、HDDの「隠しフォルダ」消してない! 中身見られたら死んでも死にきれない! フォルダ名『確定申告用資料』に偽装してあるけど、中身は全部あのアニメの二次創作(R18)なのに! しかも未完成の原稿もある! よりによって一番恥ずかしい『魔法少女が触手と和解する回』の書きかけが! あれを見られたら私は霊界でも引きこもる自信がある!)
「うわああああ! やめて! 私の尊厳を殺さないで! 物理的な死よりも精神的な死のほうがダメージでかいのぉぉぉ!」
頭を抱えて絶叫するネオン。
ケルベロスが、その無防備な脳天に牙を突き立てようとした、その時。
「うるせぇな。黙ってタイピングしてろ」
ドガァッ!!!
横合いから伸びてきたデッキブラシが、ケルベロスの横顔(右の首)をフルスイングでぶち抜いた。
いや、ぶち抜こうとした。
ブラシの穂先は、ホログラムの頭部を虚しくすり抜け、コンクリートの床を叩いただけだった。
「……あ?」
ジンは眉をひそめ、手応えのないブラシを見つめた。
ケルベロスの映像が、ノイズのように一瞬だけ乱れ、すぐに再構築される。
物理無効。
当然だ。こいつは質量を持たない、純粋な殺意のデータなのだから。
「チッ、実体なしかよ。最近の番犬は躾がなってねぇな。噛みつくなら噛みつき返される覚悟を持って来い」
「無茶言わないでよボス! こいつは『概念』みたいなもんだよ! 幽霊を物理で殴ろうとするようなもんだって!」
「幽霊なら、毎日お前らがうろちょろしてるだろ」
ジンが舌打ちをした瞬間、胸ポケットの通信機が震えた。
アリスだ。
彼女の声は、スピーカーが音割れするほどの剣幕だった。
『――おいポンコツハッカー! 何フリーズしてんのよ! あんたの脳みそは飾り!?』
通信越しの怒声に、ネオンがビクリと震える。
『そいつはハッカーの脳を焼くための「攻性防壁」よ! まともにやりあったらあんたの貧弱な前頭葉なんて一瞬でコゲるわ!』
「じゃ、じゃあどうすればいいのさアリスちゃん! 助けて! 私まだ死にたくない! 来週の新作グミの発売日までは生きたい!」
『……チッ、しょうがないわね。――マシロ! 出番よ!』
アリスの矛先が、宙に浮く幽霊少女に向けられた。
『あんた、霊体化してネオンのPCに飛び込みなさい! データ回線を通ってサーバー内部に侵入して、内側からその駄犬の気を逸らすのよ!』
その指示に、マシロが「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと! 何その雑な扱い! 私をコンピュータウイルス扱いしないでよ! 私、清純派アイドルの幽霊よ? 電子の海なんて泳いだら、肌(霊体)が荒れるじゃない!」
『は? 何言ってんの?』
「だってぇ! デジタル空間って解像度がカクカクしてて嫌なのよ! 昔のゲームみたいにドット絵になったらどうすんの!? 私のチャームポイントの『潤んだ瞳』が、ただの四角いドット二個になったら訴えるわよ!」
マシロは空中で腕を組み、プイッと顔を背けた。
一刻を争う事態なのに、この美意識へのこだわり。
「ていうか、この展開、なんか既視感あるんだけど! あれでしょ、私が囮になってる間に主人公がトドメを刺すやつ! 私、また『便利なアイテム』扱い!? もっとこう、ドラマチックな詠唱とかないの!?」
『うるさいわね! 尺がないのよ尺が! 文字数稼いでないでさっさと行きなさい! これ以上グダグダしてたら読者がブラウザバックするわよ!』
「ひぃッ!? ブ、ブラウザバックは嫌ぁぁぁ! ランキング落ちるぅぅぅ!」
メタ的な脅しが効果覿面だった。
マシロは涙目で覚悟を決めると、ネオンのPCに向かってダイブの姿勢を取った。
「もー! 分かったわよ! 行ってやるわよ! 見てなさい、私の『ゴースト・ダイブ・4Kリマスター版』の実力を!」
シュゴォォォォォ……!
マシロの体が、青白い光の奔流となって分解されていく。
彼女は掃除機に吸い込まれる塵のように、ネオンのPCの画面の中へと吸い込まれていった。
***
――電子世界。
そこは、0と1の数値が緑色の雨のように降り注ぐ、マトリックスな空間……ではなく。
驚くほどチープな、8ビット風の荒野だった。
「……嘘でしょ。やっぱりドット絵じゃん!」
画面の中に表示されたマシロは、完全に二頭身のSDキャラ(スーパーデフォルメ)になっていた。
目は縦棒二本。口はへの字。あざとい可愛さは微塵もない、レトロゲームのモブキャラのような姿だ。
「最低! 私の繊細なビジュアルが! これじゃファミコン時代の隠しキャラよ!」
マシロがピコピコと電子音を立てて文句を言っていると、前方から巨大な影が迫ってきた。
現実空間から追いかけてきたケルベロスだ。
ただし、こいつもこいつで、ポリゴン数が激減し、カクカクしたローポリゴンの塊になっている。
「グルルッ!(ピコピコ音)」
「あら、あんたも画質落ちてるじゃない。予算削減? それとも処理落ち?」
マシロはニヤリと笑い(ドット絵なので分かりにくいが)、手元にデータで構成された「猫じゃらし」を生成した。
「よし、遊んであげる! こっちよワンちゃん! 高級AI搭載の自律プログラムなんでしょ? まさかこんなアナログな挑発に乗ったりしないわよ……ねッ!」
ブンッ!
マシロが猫じゃらしを振る。
瞬間、ケルベロスの三つの首が、完全に猫じゃらしの動きに合わせて「右、左、右」と首を振った。
「乗るんかーい! ちょろい! AIちょろい!」
「グルルルル! ワンッ! ワンッ!(意訳:ボール! ボール投げろ!)」
電子世界の片隅で繰り広げられる、高度な情報戦(という名のペットとのふれあい)。
だが、この数秒が、現実世界の勝敗を決める決定的な時間を生んだ。
***
「……今だ」
現実世界。
ネオンの眼鏡が、キランと鋭い光を放った。
ケルベロスの注意が逸れた一瞬。恐怖という名の呪縛が解け、代わりに彼女の中に眠る「怪物のスイッチ」が入ったのだ。
カチャカチャカチャカチャッ!
バババババババッ!
そのタイピング音は、もはや楽器演奏だった。
ピアノの速弾き? いや、マシンガンの掃射音だ。
彼女の十本の指が、残像を残してキーボードの上を舞う。
「……構造、解析。……第7ポート、脆弱性あり。……バックドア発見。……パスワード暗号化方式、古ッ! これ10年前の規格じゃん! アップデートサボってんのバレバレだよ管理担当者!」
ネオンの口から、早口の独り言(オタク特有の高速詠唱)が漏れ出す。
彼女の瞳からハイライトが消え、ディスプレイに流れるコードだけを映す鏡と化している。
だが、代償はすぐに訪れた。
「……っ、熱ッ……!」
脳内沸騰。
頭蓋骨の中で、脳みそが直火で炙られているような感覚。
たとえるなら、真夏のサウナの中で、激辛麻婆豆腐を食べながら、熱湯風呂に入っているような状態だ。
思考回路が焼き切れそうになる。
視界の端がチカチカと点滅し、極彩色のノイズが走る。
耳の奥で、キーンという耳鳴りが大音量で鳴り響く。
(……やばい、処理落ちする……。頭が……溶ける……。もんじゃ焼きみたいに……ドロドロに……)
意識が飛びかける。
ふと、全く関係のない記憶がフラッシュバックする。
――コンビニのレジ。
『お弁当、温めますか?』と聞かれて、勇気を出して『はい』と言ったのに、店員が聞き逃してそのまま袋に入れられた時の、あの絶望的に冷たい弁当の重み。
――小学校の給食。
好きだった揚げパンを床に落としてしまい、3秒ルールを適用しようとしたら先生に見つかって没収された時の、世界の終わりのような無力感。
どうでもいいトラウマが、走馬灯のように駆け巡る。
ダメだ。私はやっぱりダメな奴なんだ。
ここで気絶して、全部終わるんだ。
『――ネオン! 早くしなさい! この犬、しつこい! ヨダレでデータがベトベトよ!』
PCのスピーカーから、マシロの悲鳴が聞こえた。
『あんたが諦めたら、誰があんたの代わりに「推し」を推すのよ! 来週のライブのチケット、無駄にする気!?』
「……ッ!!!」
その言葉が、溶けかけたネオンの脳に電流を走らせた。
推し。
ライブ。
チケット代、一万二千円(手数料込み)。
「……無駄に、できるかぁぁぁぁぁ!!!」
ネオンは咆哮した。
鼻からツーっと赤い血が垂れる。
眼鏡が汗でずり落ちる。
なりふり構っていられない。彼女は残った全ての脳のリソースを、最後の一撃に注ぎ込んだ。
< sudo unlock_gate /force /user:GUEST /password:admin1234 >
(パスワードが『admin1234』だった時の脱力感は今は忘れろ!)
「開け、ゴマァァァァッ!!!」
ッダァァァァァァァァァンッ!!!
渾身の力で叩き込まれたエンターキー。
その衝撃で、キーボードの『Enter』ボタンがパコーンと外れて宙に舞った。
その瞬間。
画面の中のケルベロスが、ピガガガガッ! とバグったような音を立てて静止した。
そして、無数の光の粒子となって霧散する。
シュゥゥゥン……。
マシロが画面から飛び出し、現実空間へと転がり出てくる。
そして。
ズゥゥゥゥゥゥン……。
腹の底に響くような重厚な駆動音と共に、目の前の巨大な防護扉のロックが外れた。
プシューッ! という排気音と共に、扉がゆっくりと左右にスライドしていく。
PCの画面には、緑色の文字で『ACCESS GRANTED(ようこそ、管理者様)』と表示されていた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
ネオンはPCを抱きしめたまま、ずるずるとその場にへたり込んだ。
顔面は蒼白。鼻血は顎まで垂れ、目は半開き。
完全に終わった人の顔だ。
「……見た、か……。これが……私の……底力……」
震える手でピースサインを作ろうとして、指がつって失敗する。
「……おう、よくやった。ただし鼻血を拭け。ホラー映画の犠牲者みたいになってるぞ」
ジンが無造作にポケットから出したティッシュ(くしゃくしゃになったやつ)を、ネオンの顔に投げつけた。
そして、彼女の頭に手を置き、ガシガシと乱暴に撫でる。
「合格だ。……お前がいなきゃ、ここは通れなかった」
その不器用な言葉に、ネオンはへへっ、と力なく笑った。
冷却シートよりも、その手の温度のほうが、少しだけ熱かった気がした。
「……さあ、行くぞ。この奥にいるネズミの親玉に、不法投棄の罰金を請求しにな」
ジンがデッキブラシを担ぎ直し、開かれた闇の奥へと足を踏み出す。
マシロも「やれやれ」と肩をすくめながら、その後を追う。
ネオンはよろめきながら立ち上がり、ずれた眼鏡を直した。
PCの画面がフツリと消える。
静寂が戻った地下通路に、三人の足音だけが響いていった。




