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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
第1章:遺失物管理センター、本日も営業中

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第6話:スマホ越しの幽霊と、初めての外出

 遺失物管理センターの朝は、絶望的な「無」から始まった。


 冷蔵庫の扉を開ける。

 そこには、シベリアの寒波も裸足で逃げ出すような、虚無という名の冷気だけが循環していた。

 卵ポケットは更地。野菜室にはミイラ化したネギの欠片が一つ。冷凍庫には、いつ買ったか分からない保冷剤が化石のように鎮座しているだけだ。


「……ない」


 俺、黒鉄ジンは、冷蔵庫の前で亡霊のように立ち尽くしていた。


「糖分が……ない。カフェオレのストックも、非常用の羊羹ようかんも、隠しておいた板チョコも……全てが消失している」


「私のせいにしないでよ。あなたが昨日、夜食に全部食べたんでしょ」


 背後から、呆れ返った声が飛んでくる。

 振り返ると、マシロが空中に浮きながら、家計簿(俺がチラシの裏で作ったやつ)を睨みつけていた。


「おはよう、オーナー。残念なお知らせよ。現在の当センターの財政状況だけど……昨日の報酬をあなたがカッコつけて『学生割引だ』なんて返金したおかげで、残金が『三百六十八円』のままよ」


「……ぐふっ」


 俺は胸を押さえてその場に崩れ落ちた。

 言わないでくれ。その数字は俺のライフポイントだ。


 あの時は良かった。夕日に照らされ、泣いている少女の涙を拭う俺。去り際に小銭だけ受け取り、背中で語る俺。完璧なハードボイルドだった。

 だが、その代償がこれだ。

 餓死。

 現代日本において、ダンジョン探索者が餓死。あまりにも情けなくて涙も出ない。カッコよさで腹は膨れないという現実リアルが、俺の胃袋を雑巾絞りにしている。


「ジン。床でダンゴムシごっこしてないで、働きに行きなさい。日雇いのバイトでも何でもして」


「無理だ……糖分が足りなくて脳がシャットダウン寸前だ……。今の俺のIQはミジンコ以下だ。思考するあしではなく、ただの腐った海藻だ……」


「元から海藻みたいな頭してるくせに」


 マシロは家計簿を閉じ、ため息をついた。

 彼女は半透明な指でこめかみを押さえ、何かを考え込むように宙を漂う。


「……ねえ、ジン」


「なんだよ。遺言なら聞くぞ」


「スマホ、貸して」


「あ?」


 俺は重いまぶたを持ち上げた。


「私のスマホが欲しいの。今の時代、情報収集にはネットが不可欠でしょ? それに、あなたが外に出ている間、連絡が取れないと不便だし」


「却下だ。そんな金どこにある。三百円でスマホが買えるなら、俺は今すぐアップル社の本社前で土下座してやるよ」


「新しいのじゃなくていいわよ。……そこに、古いのがあるじゃない」


 マシロが指差したのは、部屋の隅にあるガラクタ箱――通称『過去の遺物入れ』だった。

 そこには、俺が数年前に使っていた、画面がバキバキに割れた旧式のスマートフォンが放り込まれていた。


「あー……あれか。電源入るか怪しいぞ。バッテリーもヘタってるし」


「いいから、貸して。ちょっと『試したいこと』があるの」


 マシロの目が、怪しく光った。

 嫌な予感がする。この幽霊が「試したいこと」と言って、ろくな結果になった試しがない。

 だが、今の俺に抵抗する気力は残っていなかった。


「……へいへい。好きにしろ」


 俺は這いつくばってガラクタ箱を漁り、埃まみれのスマホを取り出した。

 充電ケーブルをコンセントに差し込み、端子をスマホに向ける。


「パスコードは『5364(ゴミムシ)』だ」


「自虐?……じゃあ、いくわよ」


 マシロはスマホの前に浮遊し、深く息を吸い込んだ(吸う空気はないが)。


「『憑依接続インストール』ッ!!」


 シュゥゥゥゥン!!


 彼女の全身が光の粒子となって分解され、スマホの充電ポートへと吸い込まれていく。

 俺は恐る恐る、ケーブルをスマホの穴に挿し込んだ。


「……んっ、ぁ……!」


 突然、スピーカーから艶めかしい声が漏れた。


「……おい、なんだ今の声」


『……だ、だって、いきなり高圧電流が流れてくるから……んくっ、あ、熱い……電気が、身体の奥まで満たされてくぅ……』


「変な声出すな! ただの充電だろ! ご近所に誤解されるだろうが!」


 俺が叫ぶと同時に、バチッ、バチチッ! と画面が激しく明滅した。

 ノイズが走り、画面上のアイコンが勝手に動き出す。

 そして。


『――ふぅ。……あー、テステス。聞こえる?』


 スマホのスピーカーから、ようやく落ち着いたマシロの声が響いた。

 画面を見ると、待ち受け画面の中に、2Dキャラクターのようにデフォルメされたマシロ(SDキャラ)が表示され、ペコペコと動いていた。


「……うわぁ」


 俺は思わずスマホを取り落としそうになった。


「なんだそれ。育成ゲームか? 餌をやらないと死ぬたまごっちか?」


『失礼ね! 最新鋭の「モバイル・ゴースト」と呼びなさい!』


 画面の中のマシロが、プンプンと怒って画面を内側から叩くエフェクトを見せる。

 どうやら、マシロの能力『憑依』は、物理的な武器だけでなく、電子機器にも干渉できるらしい。霊体と電気信号は相性がいいのか?


『すごいわジン! これならネットにも繋げるし、カメラで外も見られる! それに……』


 画面の中のマシロが、ニヤリと笑った。


『これで私も、あなたと一緒に「外」に出られるわ』


 その言葉に、俺はハッとした。

 そうか。

 地縛霊に近い彼女は、これまでこのセンターから出ることができなかった。

 だが、この「依りスマホ」に入れば――。


「……なるほどな。引きこもりの幽霊が、ついに社会復帰か」


 俺はスマホを持ち上げた。

 ずしり、とした重みを感じた。

 それは単なるプラスチックと金属の塊(150グラム)ではない。

 ほんのりと熱を帯びた、確かな「命」の重さのようなものが、掌を通して伝わってくる。


「いいだろう。連れてってやるよ、幽霊秘書。……ただし、パケット代は自腹で払えよ」


『払えるわけないでしょ! ほら、行くわよ! 目指すは「スーパー・タマデ」の特売日よ!』


 俺は温かいスマホを胸ポケットにしまい込んだ。

 心臓のすぐ近くで、微かに駆動音がリズムを刻んでいる。

 こうして、俺と、スマホになった幽霊との、奇妙な外出が始まった。


 ***


 街は、昼時の喧騒に包まれていた。

 ダンジョン産業によって発展したこの都市は、冒険者、商人、観光客が入り乱れ、常に熱気と欲望が渦巻いている。


 俺はポケットにスマホ(マシロ)を入れ、人混みを縫うように歩いていた。

 イヤホンを耳に挿しているから、独り言を言っても怪しまれない……はずだ。


『ねえジン、右を見て! あの服、可愛くない? あ、左のクレープ屋さんも美味しそう! 匂いがデジタル変換されて届かないのが悔しいわ!』


 イヤホン越しに、マシロの興奮した声が響き続ける。

 彼女はカメラレンズを通して外界を見ているのだが、まるで初めて遊園地に来た子供のようにはしゃいでいた。


「うるせぇな。キョロキョロすんな、酔うだろ」


『いいじゃない! 私にとっては数年ぶり……いや、記憶がないから「初めて」のシャバなのよ! あ、見て見て! あそこの大型ビジョン、レオが映ってる!』


 大通りの街頭ビジョンには、またしても剣崎レオのCMが流れていた。

 『ダンジョン保険なら、安心の騎士団印!』と爽やかに微笑むレオ。


「……ケッ。どこに行ってもあいつの顔かよ。ストーカーか」


 俺は舌打ちをして、帽子を目深に被り直した。

 今の俺は、ただの貧乏な清掃員だ。あんな煌びやかな世界とは無縁だ。


『……ふーん。やっぱり、気になる?』


「ならねぇよ。……さてと」


 俺は交差点で足を止めた。

 目的地はスーパーだ。

 だが、俺の足(と欲望)は、自然と別の方向へと向こうとしていた。


 右へ行けば、スーパー。

 左へ行けば――『魔導パチンコ・ラスベガス』。


(……三百六十八円。これじゃあスーパーに行っても卵1パック買えるかどうかだ。だが、パチンコなら? この三百円が三万円に化ける可能性ポテンシャルを秘めている……!)


 俺の脳内で、悪魔的な計算式が成立した。

 そうだ。これは投資だ。未来への種まきだ。

 俺はさりげなく、左足を踏み出した。


 ブブブブブッ!!


 その瞬間。

 ポケットの中のスマホが、削岩機のように激しく振動した。

 いや、ただの振動じゃない。太ももの大腿四頭筋をピンポイントで刺激する、低周波治療器のような嫌なパルスだ。


「うおっ!? なんだ!?」


『ルートを再検索します。――目的地は「スーパー」です。直進してください』


 イヤホンから、マシロの冷徹なナビ音声(合成音声風)が流れる。


「いや、ちょっと寄り道をだな……トイレに行きたくて……」


『却下します。トイレならスーパーにあります。――ルート修正。強制誘導を開始します』


 ブブブッ! ビビビビッ!

 俺の意思とは無関係に、筋肉が収縮する。

 右足が勝手に上がり、スーパーの方角へと一歩を踏み出した。


「痛ぇよ! なんだこの機能! 俺の体はラジコンじゃねぇぞ!」


『最新アプリ「ダメ人間矯正ナビ」よ。GPSであなたの位置を監視し、パチンコ屋へ向かおうとすると電気ショック(物理)が流れます』


「鬼か! 管理社会の末路かよ!」


『うるさい! 三百円を溶かす前に、卵を買うの! ほら、右向け右!』


 俺はスマホに操られる操り人形のように、カクカクとした動きでスーパーの方角へと歩かされた。

 すれ違う人々が「うわ、あの人ロボットダンスしてる……」と奇異の目を向けてくる。

 くそっ、覚えてろよ幽霊秘書。


 ***


 スーパー『タマデ・ダンジョン支店』。

 そこは、主婦と貧乏冒険者たちの戦場コロシアムだった。


 店内には、独特の激安BGMがエンドレスで流れ、極彩色のポップが視覚を攻撃してくる。

 『ポーション(賞味期限切れ間近) 10円!』

 『ゴブリンの腰布(ウエス用) 詰め放題!』


「……相変わらず、カオスな店だ」


 俺はカゴを手に取り、戦場へと足を踏み入れた。

 狙うは一点。

 『タイムセール・新鮮卵 1パック98円(お一人様一点限り)』。


 今の残金で買える、唯一にして最高の栄養源。

 だが、その棚の前にはすでに、歴戦の猛者たち(オバチャン)が鉄壁の布陣を敷いていた。


『ジン、12時の方向! 敵影多数! ピンク色のヘアカラーの老婆(ボス級)が、卵パックを二つ確保しようとしてるわ!』


 スマホの画面上で、マシロがAR(拡張現実)のように敵の戦力を分析し、赤いターゲットマーカーを表示する。

 便利だなオイ。スカウターかよ。


「チッ、ルール違反だろ。お一人様一点だぞ」


『甘いわジン。ここは戦場よ。奪うか、奪われるか。……行くわよ! 演算開始!』


 ピピピピッ!

 画面上のマシロが高速でキーボードを叩く。


『敵の死角を解析。――ルート算出。あのオバチャンの右肘が上がった瞬間、脇の下をくぐり抜けて確保できる確率は87%!』


「マジか。……やってやる」


 俺は呼吸を整えた。

 かつて「剣聖」と呼ばれた身体能力を、たかだか98円の卵のために解放する。


 オバチャンが、隣の客を牽制するために肘を上げた、その一瞬。


「『すりステルス・ステップ』!」


 シュッ。

 俺は音もなく滑るように移動し、オバチャンの懐へと潜り込んだ。

 そして、残された最後の卵パックへ手を伸ばす――。


 ガシッ!


 その手を、横から伸びてきた別の手が掴んだ。


「!?」


 見ると、そこには眼光鋭い、ジャージ姿の男が立っていた。

 無精髭。死んだ魚のような目。

 ……同業者ニートか。


「……兄ちゃん。悪いが、それは俺の獲物だ」


「……譲れねぇな。こちとら、背後にうるさい幽霊カミさんがいるんでね」


 俺たちの間に、バチバチと火花が散る。

 力づくで奪い合えば、卵が割れる。

 これは、卵を傷つけずに相手の手を離させる、高度な心理戦と技術戦だ。


『ジン! 相手の筋肉量をスキャンしたわ! 握力は45kg。でも、左足首に古傷がある!』


 マシロのサポート音声。


『右へフェイントを入れて、左へ回り込んで! 相手の重心が崩れた瞬間に、パックを「撫でる」ように回収するの!』


了解ラジャー!」


 俺は右へ動くと見せかけ、相手が反応した瞬間に左へステップを踏んだ。

 男の体勢が崩れる。

 その隙に、俺は卵パックの底を優しくすくい上げ、赤子の頬を撫でるようなソフトタッチで確保した。


「なっ……!?」


 男の手が空を切る。

 俺はそのまま回転し、レジへと華麗に着地した。


「勝負ありだ」


『ナイスよ、ジン! 完璧なミッション・コンプリートだわ!』


 スマホの画面で、マシロが万歳をして喜んでいる。

 俺はレジの店員に98円を叩きつけ、勝利の余韻に浸りながら店を出た。


 たかが卵。されど卵。

 この小さな勝利が、今の俺たちにはたまらなく輝いて見えた。


 ***


 帰り道。

 夕日がビルの隙間から差し込み、街を茜色に染めていた。


 俺は公園のベンチに座り、戦利品の卵パックを膝に乗せて一息ついていた。

 ふと、ポケットのスマホを取り出す。


「……おい、マシロ。生きてるか?」


 画面の中のマシロは、ぐったりと座り込んでいた。

 そして、画面の右上のバッテリーアイコンが、赤く点滅している。

 『残り 3%』。


『……ふぅ。意外と疲れるわね、これ。GPSと画像処理をフル稼働させたら、あっという間に電池切れよ』


 マシロの声も、少しノイズ混じりで遠い。

 古いスマホのバッテリーが、彼女のハイスペックな霊力演算に耐えられなかったらしい。


「無茶しやがって。……ほら、今日はもう戻れ。消えちまうぞ」


『……もう少しだけ』


 マシロは首を横に振った。


『もう少しだけ、見ていたいの。この……夕日を』


 彼女はカメラ越しに、沈みゆく太陽を見つめていた。

 画面の中の彼女の顔が、夕日でオレンジ色に染まる。


『私、ずっと暗い地下にいたから。……外の世界がこんなに眩しいなんて、忘れてた』


 その声には、喜びと、そして深い寂しさが滲んでいた。

 記憶のない彼女にとって、このありふれた景色は、世界と繋がる唯一の糸口なのかもしれない。


「……悪くねぇだろ、シャバも」


 俺は缶コーヒー(スーパーで買った30円の安物)を開け、一口飲んだ。


『ええ。……悪くないわ』


 マシロが微笑む。

 その笑顔は、画面越しでも十分に美しかった。

 画素数の荒い液晶画面の中で、彼女の魂だけが高解像度で輝いているようだった。


『ねえ、ジン』


「ん?」


『ありがとう。……連れ出してくれて』


 素直な言葉に、俺は少しだけ居心地が悪くなって視線を逸らした。


「……勘違いすんな。荷物持ちが必要だっただけだ」


『ふふっ。素直じゃないわね』


 プツン。


 唐突に、音が途切れた。

 画面が暗転し、中央に『Battery Low』の文字が表示される。


「……切れやがった」


 俺は真っ黒になった画面に映る、自分の間抜けな顔を見つめた。

 静寂が戻る。

 だが、スマホ本体はまだ、ほんのりと温かかった。

 まるで、彼女の体温がそこに残っているかのように。


「……帰るか」


 俺はスマホを大切にポケットにしまい、卵パックを抱えて立ち上がった。

 今夜は卵かけご飯だ。

 マシロには食えないが、まあ、線香代わりの湯気くらいは吸わせてやろう。


 そう思って歩き出した俺の背中に、夕日が長く影を落としていた。


 これが、俺たちのささやかな休日。

 嵐が来る前の、最後の穏やかな一日だった。


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