第68話:契約成立
「炎上」という言葉は、本来、比喩表現として使われることが多い。
インターネットという名の広大な電子の海で、不用意な発言という種火が、集団心理というガソリンによって爆発的に延焼する現象。
それは通常、モニターの向こう側で起きる、実体のない祭りだ。
指先一つで参加でき、電源を切れば消滅する、安全圏からの私刑。
だが、時としてそれは、比喩の枠を超え、物理的な熱量と破壊力を伴って、現実の窓ガラスを叩き割ることがある。
ガシャァァァァン!!
遺失物管理センターのリビングに、鼓膜を引き裂くような鋭い破砕音が響き渡った。
投げ込まれたのは、火のついた煉瓦ブロック。
油の染み込んだ布が、メラメラと赤い舌を出し、ジンが愛用している安物のカーペット(しまむらで購入)を焦がし始める。
それに続いて、部屋の固定電話が狂ったように鳴り響く。
ジリリリリリ! ジリリリリリ!
ベルの音が、まるで空襲警報のように神経を逆撫でする。
さらに、FAXが紙詰まりを起こしそうな勢いで、無限に呪詛を吐き出し始めた。
「ひぃぃぃッ!? な、なに!? 空襲!? 第三次世界大戦!?」
押入れの中で体育座りをしていた七色ネオンが、悲鳴を上げて更に奥の布団の中へと縮こまった。
彼女の周りには、吐き出された大量のFAX用紙が雪のように散乱している。
そこに印字されているのは、明朝体の極太フォントで書かれた悪意の数々。
『死ね』『出て行け』『IP抜いたぞ』『住所特定完了』『今から行く』。
インクのツンとする匂いと、焦げ臭い硝煙の匂い。
モニター越しではない、生の、温度を持った悪意。
それが、彼女の唯一の聖域(引きこもり部屋)を、物理的に侵食していた。
「あらあら、派手にやってるわねぇ」
ソファでポテトチップスを食べていた怪盗アリスは、割れた窓から吹き込む風で銀髪を揺らしながら、まるで映画でも観るように呟いた。
その瞳は笑っているが、奥底は絶対零度のように冷え切っている。
「ピコちゃんの配信が合図になったみたいね。……あんたを追ってる連中、本気でここを『物理的に潰す(物理フォーマット)』気よ?」
アリスの視線の先。
部屋の隅で、ピコ・デ・ガマが青ざめた顔で立ち尽くしていた。
その手から、最新型のスマートフォンがスローモーションのように滑り落ち、床で鈍い音を立てた。
「お、俺のせい……?」
ピコの脳裏に、昨日の自分がフラッシュバックする。
『モップ無双』動画。
あれがバズりすぎた。
承認欲求という名の怪物は、彼の冷静さを奪い、自己顕示欲を満たすために「位置情報」という命綱を自ら切らせてしまったのだ。
その結果が、この惨状だ。
(やべぇ……。これ、しゃれになんねぇぞ……)
ネットの炎上なら、涙ながらの謝罪動画を出して、坊主にして、半年ほど活動自粛という名のバカンスを楽しめば復帰できる。
だが、これは違う。
明確な殺意を持った「暴力」だ。
画面の向こうのアンチが、キーボードではなくナイフを持って、家のドアを蹴り破ろうとしているのと同義だ。
「ちっ、これじゃ配信どころじゃねえ! ズラかるぞ!」
ピコは反射的に動いた。
恐怖がプライドを上書きし、生存本能がサイレンを鳴らす。
自分の高級ブランドバッグ(ルイ・ヴィトン)に、最低限の現金と、命の次に大事な化粧ポーチを無造作に詰め込む。
「お、おい! どこ行くの!? 私たちを置いていく気!?」
ネオンが布団から顔だけ出して叫んだ。
だが、ピコは振り返らない。
「逃げるに決まってんだろ! ここにいたら殺される! 俺はアイドルなんだよ、こんなゴミ溜めで死ねるか! 悪いな陰キャ、自分の身は自分で守れ! 俺は俺のファン(金)のために生き残るんだよ!」
ピコはネオンの制止を振り切り、裏口の錆びついた鉄扉を蹴り開けた。
外は夕暮れ。
路地裏の湿った空気と、雨上がりのアスファルトの匂い、そしてドブ川の腐敗臭が流れ込む。
だが。
その自由への一歩目は、絶望的な轟音によって強制的に止められた。
ブゥゥゥゥン……。
腹の底に響く、不気味な重低音。
それは、巨大な蜂の羽音のようであり、同時に死神が鎌で風を切る音にも似ていた。
「……あ?」
ピコが顔を上げる。
裏口の狭い路地を埋め尽くしていたのは、無数の赤い光点だった。
空飛ぶ殺意の群れ。
武装ドローン部隊。
機体には、ピコがよく知る正規の軍事企業のロゴマークではなく、もっと得体の知れない、黒いスプレーで雑に描かれた「髑髏」のエンブレムが刻まれている。
非合法な殺し屋集団。あるいは、ネットの闇が生み出した自律型の処刑部隊。
カシャッ、ウィーン。
先頭のドローンから、ガトリングガンの銃口がせり出し、ピコの眉間に正確に照準を合わせた。
逃げ場はない。
右も左も、上空も、すべて「死」で埋め尽くされている。
「……嘘、だろ?」
ピコの膝から力が抜けた。
ガクリ、とその場に崩れ落ちる。
ブランドバッグが泥水の中に落ち、中身が散らばる。ファンデーションの粉が、泥と混ざって汚く濁る。
「詰んだ……。終わった……。こんな、あっけなく……」
走馬灯が見える。
初めてステージに立った日。ファンからの歓声。
そして、裏垢で「死ね」と書き込んだ日々。
鏡の前で笑顔の練習をした何千時間。
全部が、この無機質な銃口の前では無価値だ。
俺の人生、結局なんだったんだ。
虚飾で塗り固め、誰かを騙し、誰かを見下し、最後は誰にも愛されず、ゴミのように処理されるのか。
『Target Locked. Exterminate (対象ヲ、殲滅シマス).』
無慈悲な機械音声が死刑を宣告し、銃身が回転を始めた。
キュイイイイイ……!
「う、うわああああああッ!! 死にたくない! ママぁぁぁぁッ!!」
ピコが顔を覆い、情けなく絶叫した瞬間。
ズドォォォォォォン!!
爆音と共に、先頭のドローンが粉々に砕け散った。
飛び散るパーツと火花。オイルの焼ける臭い。
銃弾ではない。ミサイルでもない。
飛んできたのは――使い古されて柄がひび割れ、毛先がすり減った、どこにでもある薄汚れた「デッキブラシ」だった。
カラン、コロン……。
物理法則を無視した威力でドローンを撃墜したブラシが、アスファルトの上を転がる。
「……おい」
硝煙の向こうから、一人の男が歩いてきた。
ボロボロの作業着。
無精髭。
そして、その口元からは、一筋の鮮血が流れている。
黒鉄ジン。
この掃き溜めの主。
「……俺の店先で花火遊びとは、いい度胸だな。消防法違反と、不法投棄と、騒音公害で現行犯逮捕だ」
ジンは砕けたドローンの残骸を踏みつけ、新たなデッキブラシ(予備)を構えた。
その背中には、無理やり剥がしたような包帯の跡が滲んでいる。
昨日の戦闘、そして持病(呪い)によるダメージ。
満身創痍なんて言葉では生ぬるい。立っているのが医学的に奇跡のような状態。全身の細胞が悲鳴を上げているのが、ピコにすら伝わってくる。
「な……何してんだよ!」
ピコが泣き叫んだ。
安堵よりも先に、理解不能な怒りが湧き上がってきた。
なんで助ける? なんで立つ? お前はもうボロボロじゃないか。
「なんで助けるんだよ! 俺たちは疫病神だぞ!? 俺が動画なんて上げたから、こんなことになったんだ! 見捨てろよ! 俺なんか、ただの性格悪いクズで、ファンを金ヅルとしか思ってない最低野郎だぞ! 助ける価値なんてねぇんだよ!」
そうだ。
自分たちは「ゴミ」だ。
ネオンも、俺も。
社会から弾き出され、誰からも愛されず、勝手に燃え尽きるだけの産業廃棄物だ。
命を懸けて守る価値なんて、1ミリもない。
だが、ジンはピコを見ようともしなかった。
ただ、口元の血をゴクリと飲み込み、ニヤリと笑ったのだ。
「……バーカ」
その笑顔は、優しさなど微塵もなく、どこまでも不敵で、傲慢で、そして理不尽なほどにカッコよかった。
「うちは『遺失物管理センター』だぞ? 誰にも要らないと言われた『ゴミ』を拾うのが仕事だ」
ジンはブラシの柄で、コンクリートの地面をドンッ! と叩いた。
その音が、ピコの心臓を直接叩いたように響いた。
「お前らがどんなクズで、どんなに性格が悪くて、どんなに過去が汚れてようが知ったことか。……俺のテリトリー(ゴミ捨て場)に落ちてきた以上、それは俺の『所有物』だ」
ジンはドローンの大群を見据え、宣言した。
「――お前らの『クソみたいな人生』も、まとめて俺が拾ってやる」
風が吹いた。
その瞬間、ピコの中で何かが壊れ、そして何かが繋がった音がした。
承認欲求でも、金でもない。
ただ、「ここにいていい」と言われたような気がした。
たとえゴミとしてでも、拾ってくれる場所があるなら。
「……っ」
ジンが懐からスマートフォンを取り出し、血の付いた指で画面をタップした。
「マシロ! アリスの言ってた『ユニゾン』、実戦投入だ。準備はいいな?」
『あったりまえよ! 待ちくたびれたわ! あんたの武器、私の霊力で魔改造してあげる! ……死なないでよ、バカジン!』
スマホのスピーカーから、マシロの勇ましい声が響く。
同時に、画面から溢れ出した白い光が、ジンの持つデッキブラシへと吸い込まれていく。
ボロボロのブラシが、白銀のオーラを纏い、神話の聖剣のように輝き始める。
「ネオン! いつまで押し入れで震えてる! 回線を開け! 敵の制御システムを乗っ取るぞ! お前は『神様』なんだろ!?」
「……っ、は、はい!」
部屋の奥から、ネオンが飛び出してきた。
涙目で、鼻水を垂らしながらも、その手にはしっかりとPCが握られている。
膝は震えている。まだ怖い。
でも、ここで戦わなければ、二度と「居場所」は手に入らない。
「やってやる……! 私の居場所を壊すなァァァ!」
ネオンがエンターキーをッターン! と叩く。
同時に、不可視の電子干渉波が放たれ、上空のドローンの数機が制御を失い、ふらつき始めた。
「あはは! 面白くなってきたじゃない!」
アリスも窓枠に飛び乗り、ナイフのようなカードを指先で展開した。
「あたしも混ぜなさいよ。家賃分くらいは働いてあげるわ。……こいつらのCPU、高く売れそうだしね」
ジン、マシロ、ネオン、アリス。
バラバラだった「ゴミ」たちが、一つの戦場に並び立つ。
それは、世界で一番底辺で、世界で一番厄介なチームの誕生だった。
「……ははっ、馬鹿じゃねえの」
ピコは涙を袖で乱暴に拭い、鼻をすすった。
泥だらけの手で、震えるスマホを拾い上げ、カメラアプリを起動する。
逃げるのはやめだ。
アイドルの仕事は、ステージを降りることじゃない。
一番輝く瞬間を、世界に見せつけることだ。
たとえそれが、自分ではなく、泥だらけの清掃員だとしても。
「撮ってやるよ……! 特等席で、お前らの雄姿を!」
ピコは叫び、録画ボタンを押した。
もう、フォロワー数なんてどうでもいい。
ただ、この光景を、この馬鹿げた戦いを、記録に残したいと魂が叫んでいた。
「負けんじゃねえぞ! 僕の飼い主!」
ジンがデッキブラシを一閃させる。
光の刃が、夕暮れの空を切り裂き、迫りくるドローンの群れへと突き進んでいった。
契約成立。
掃き溜めの底から、反撃の狼煙が上がる。




