第67話:疑惑のスクープ
ジャーナリズム。
かつてそれは、ペンを剣とし、巨悪を暴き、民衆に「真実」という名の松明を掲げる崇高な使命であった。
……というのは、教科書の中だけの綺麗事だ。
現代のネット社会におけるその本質は、もっと単純で、もっと下世話で、そして限りなく資本主義的だ。
すなわち――「切り取り」と「偏向」と「過激なサムネイル」で、情弱たちから広告収入を搾り取る錬金術。
そこに真実など必要ない。必要なのは「そう見えること」と、再生数という絶対正義のみである。
***
早朝。遺失物管理センター、洗面所。
まだ太陽も昇りきらない薄暗い廊下で、ピコ・デ・ガマは息を殺していた。
ドアのわずかな隙間から、最新型スマートフォンのカメラレンズだけを差し込む。その姿は、スクープを狙うパパラッチというよりは、獲物を狙うドブネズミに近い。
(……撮った。決定的瞬間だ)
レンズの先には、洗面台の鏡に向かう黒鉄ジンの背中がある。
ジンは、まるで殺人を犯した後のように重苦しい手つきで小瓶の蓋を開け、手のひらに山盛りの錠剤をぶちまけた。
赤、青、黄色。
毒々しい色のカプセルが、蛍光灯の下で不気味に輝く。
常人の致死量を優に超えているであろう量だ。
「……ッ」
ジンは水も飲まず、その大量の錠剤を一気に口の中に放り込んだ。
ガリッ、ボリッ、グシャッ。
静寂な洗面所に、硬いものを無理やり噛み砕く、生理的な嫌悪感を催す咀嚼音が響く。
鏡に映るジンの顔は、苦痛に歪み、額には玉のような脂汗が滲み出ている。喉の筋肉が痙攣し、身体の内側からの拒絶反応を精神力だけでねじ伏せているのが見て取れた。
(キタキタキタ! 見ろよあの顔! 完全に禁断症状じゃねーか!)
ピコは心の中でガッツポーズをし、思わず小躍りしそうになるのを堪えた。
あれはビタミン剤なんかじゃない。風邪薬でもない。
裏社会で流通している違法なドラッグか、あるいは身体能力を強制的に引き上げ、脳のリミッターを外す軍事用の劇薬に違いない。
でなければ、あんな「これから死ぬ人間」のような顔で薬を飲むわけがないのだ。
「……ふぅ、ぐぅ……ッ」
ジンは薬を強引に飲み下すと、蛇口を全開にし、冷水を顔にバシャリとかけた。
滴る水滴と共に、死んだ魚のような目に、わずかばかりの生気が戻る。いや、生気というよりは、「死なないために無理やり起動させた」機械のような冷たい光だ。
(タイトルは決まりだ。『【潜入】ダンジョン管理者の正体は重度のヤク中だった!? 震える手、焦点の合わない目……衝撃の実態を暴く!』)
ピコは邪悪な笑みを浮かべた。
これで勝てる。カエル動画で負けた屈辱を晴らせる。再生数100万回は堅い。
彼は震える指で、録画停止ボタンを押そうとした。
その時。
「……おい。そこで何してる」
背後を取られたわけではない。
鏡越しに。
水滴に濡れたジンの瞳が、正確に、ドアの隙間の「カメラレンズ」を射抜いていた。
「ひっ!? い、いや、これはモーニングルーティンの撮影で……たまたま通りかかったというか!」
ピコは悲鳴を上げ、スマホを取り落としそうになった。
なぜバレた? 気配は消していたはずだ。それに、鏡越しに目が合うなんてホラー映画かよ!
「朝からご苦労なこった。……ちょうどいい。今日は人手が足りねぇんだ。お前も手伝え」
「は? 手伝うって何を……俺はインフルエンサーだぞ? 肉体労働なんて……」
「『掃除』だ」
ジンは濡れた手で髪をオールバックにかき上げ、ニヤリと笑った。
その表情は、獲物を前にした獣のようであり、同時に、新入りのバイトを残業地獄に引きずり込むブラック企業の鬼上司のようでもあった。
***
ダンジョン第15階層、『腐敗の沼地』。
そこは、名前の通り、この世の全ての悪臭を煮詰めて、さらに一週間放置したような場所だった。
「おえぇぇぇぇッ! くっさ! なにこれ!? 鼻が曲がる! 俺の高級香水の香りが一瞬で硫黄臭にかき消されたんだけど!?」
ピコは鼻をつまみ、涙目で絶叫した。
足元は底なしの泥濘。
一歩歩くたびに、ズブ、ズブ、という不快な音がし、泥の中から正体不明のガスが噴き出す。
5万円の限定スニーカーは、すでに泥の塊と化していた。
「うるせぇぞ新入り。口を開けてると肺にカビが生えるぞ」
ジンは平然としていた。
彼は作業用マスクと厚手のゴム手袋を装着し、片手にはいつもの「業務用モップ(先端が金属で補強された特注品)」、もう片手には「特大ゴミ袋(90リットル・対魔獣用強化ポリ)」を持っている。
冒険者ではない。完全な清掃員のスタイルだ。
「おう! 待ってたぜジン! 相変わらずシケた面してやがるな!」
湿気の立ち込める霧の奥から、野太い声が響いた。
現れたのは、筋肉の鎧をまとったような、身長2メートルを超える巨漢のスキンヘッド。
第1巻でアリスの高枝切りバサミを運んだ、ダンジョン専門の運送業者『運び屋』チームのリーダー、ワンだ。
「ワンか。……状況は?」
「最悪だぜ。上層から落ちてきた『ベヒーモス(巨獣)』の死体がガスで膨らんで腐り始めてやがる。お陰で、鼻の利く厄介な連中が集まってきやがった」
ワンが親指で指し示した先には、小山のような巨大な肉塊が転がっていた。
そして、その周囲には、無数の赤い目がギラギラと光っていた。
「俺たち運び屋は荷物を運ぶのが仕事だ。害獣駆除は管轄外でな。……頼めるか?」
「ああ。追加料金は請求するがな。……ピコ、お前は後ろでゴミ袋を広げてろ」
ジンとワンが、男臭い握手を交わす。
ピコはその隙に、こっそりと懐から配信ドローン『ハエ男くん2号』を起動した。
超小型、光学迷彩、自動追尾。盗撮のために進化した科学の結晶だ。
(へっ、今はこき使われてやるよ。だがな、カメラは回ってるんだぜ? お前の無様な掃除風景を世界中に晒して、笑いものにしてやる!)
ピコはマスクの下で舌を出した。
配信スタート。
タイトル:『【閲覧注意】底辺職のリアル。泥まみれの現場に密着してみたw #ブラック企業 #放送事故』。
通知と共に、野次馬たちがコメント欄に雪崩れ込んでくる。
『うわ汚ねぇw』
『ピコくんこんな所いんの?』
『横のオッサン、武器持ってなくね? モップ?』
『これから掃除(物理)すんの?』
コメントが盛り上がり始めた、その時。
グルルルルル……!
ギャオオオオオッ!
湿地帯の茂みが一斉に揺れ、泥飛沫が上がった。
現れたのは、ハイエナとトカゲを悪魔合体させ、さらに腐った肉を貼り付けたような醜悪な魔獣――『コープス・イーター(死体喰らい)』の群れだ。
その数、およそ30体。
腐肉を求めて狂暴化した牙と爪が、ジンたちに向けられる。
「ひぃッ!? ま、魔獣!? しかも群れ!? おいオッサン! なんか魔法とか剣技とかで追い払えよ! 死ぬ! 俺の顔に傷がついたら国家予算レベルの損失だぞ!」
ピコが腰を抜かして叫ぶ。
これはチャンスだ。
もしジンが逃げ出せば「臆病者」として晒せるし、無様に戦って泥だらけになれば「雑魚」として笑える。
だが、ジンは動かなかった。
ただ、深く、心底面倒くさそうにため息をつき、モップの柄を短く持ち直しただけだ。
「……はぁ。燃えるゴミの日か」
ギャアアアアアッ!
先頭の魔獣が、弾丸のような速度でジンに飛びかかった。
鋭い爪が、ジンの無防備な喉元に迫る。
(死んだ!)
ピコが目を逸らそうとした瞬間。
タンッ。
乾いた音がした。
ジンの姿がブレた、ように見えた。
次の瞬間、飛びかかった魔獣は、空中で「くの字」に折れ曲がり、コマ送りのような不自然な挙動で回転し、地面に叩きつけられていた。
ジンがモップの柄の先端で、魔獣の鼻先(急所)を軽く叩いたのだ。
それだけで、突進の運動エネルギーが完全に殺され、ベクトルが逆転していた。
「――はい、一匹」
ジンは流れるような動作で、気絶して痙攣する魔獣の首根っこを掴み、持っていたゴミ袋に「スポッ」と押し込んだ。
そして、袋の口をキュッと縛る。
まるで、散らかった部屋で丸めたティッシュをゴミ箱に捨てるような、あまりにも日常的な手際だった。
「……は?」
ピコの思考が停止する。
だが、群れは止まらない。
残り29体が、仲間のやられた意味も理解できず、一斉に殺到する。
ここから、奇妙な「事務作業」が始まった。
右から迫る牙を、モップのブラシ部分で目隠しして逸らす。
左からの爪を、最小限のステップ(半歩)ですり抜ける。
すれ違いざまに、モップの柄を関節の隙間に差し込み、テコの原理で「ポキッ」と脱臼させる。
ドカッ、バキッ、スポッ。
タンッ、グチャッ、スポッ。
派手な魔法のエフェクトも、必殺技の叫びもない。
あるのは、骨が外れる乾いた音と、ゴミ袋が擦れる音だけ。
ジンは表情一つ変えず、襲い来る魔獣を次々と無力化し、袋詰めにしていく。
それは戦闘ではなかった。
工場のベルトコンベアの前で行われる、単純かつ高速な「仕分け作業」だった。
「……なんだこれ」
ピコは呆然と呟いた。
地味だ。
圧倒的に地味すぎる。
爆発もなければ、光の剣もない。血飛沫すら舞わない。
ただ、薄汚いオッサンが、モップで犬をあしらって袋詰めしているだけの映像。
「おいおい、なんだこのクソ動画! 映えねぇにも程があるだろ! もっとこう、ドラマチックな展開はないのかよ! ピンチになるとか!」
ピコはコメント欄を見て、視聴者と一緒に煽る準備をした。
『地味すぎワロタ』『放送事故』『やる気あんのか』……そんなコメントで埋め尽くされているはずだ。
だが。
画面に流れていたのは、ピコの予想を遥かに超えた反応だった。
『……え?』
『今の見た?』
『巻き戻して見ろ。0.1秒で三回突いてるぞ』
『モップの柄で、魔獣の重心を崩してる……』
『この足運び、古流武術の「縮地」じゃね?』
『いや、動きに無駄がなさすぎて、フレームレートが追いついてないだけだ。60fpsじゃ捉えきれてない』
ざわつくコメント欄。
素人のピコには「地味な作業」にしか見えない動きが、画面の向こうにいる「ガチ勢(魔物研究家、武術マニア、現役ランカー)」たちを戦慄させていた。
『これ、ただの清掃員じゃないぞ』
『魔獣の骨格と筋肉の付き方を完全に理解してないと、あんな芸当は無理だ』
『殺さずに気絶させて、袋に入れるタイミングが神がかってるwww』
『達人クラスだろこれ。いや、それ以上か?』
「は……? え、どこが? どこが凄いの?」
ピコは混乱した。
目の前で起きているのは、ただのゴミ拾いだ。
ジンの背中は猫背で、やる気がなくて、どう見てもヒーローじゃない。
しかし、現場の空気は違った。
巨漢のワンが、感心したように腕を組んで頷いている。
「さすがだな、ジン。……殺せば血の匂いでさらに仲間を呼ぶ。だから殺さずに無力化してパッキングする。相変わらず、一番難しいことを息をするようにやりやがる」
「うるせぇ。……おいピコ、ボーッとしてんな。袋がいっぱいになったぞ。新しいの出せ」
ジンが振り返る。
その足元には、パンパンに詰まった黒いゴミ袋(中身は生きたまま気絶している魔獣)が、山のように積み上げられていた。
30匹すべて処理して、所要時間はわずか3分。
ジンは汗一つかいていない。呼吸すら乱れていない。
「あ……はい」
ピコは反射的にゴミ袋を差し出した。
本能が告げていた。
この男を敵に回してはいけない。
下手に逆らえば、いつの間にか自分も「燃えるゴミ」として分別され、袋詰めされて出荷されてしまう、と。
配信画面では、同接数が静かに、しかし確実に伸び始めていた。
『謎のモップ無双』『清掃員の神業』という、新たなタグと共に。
疑惑のスクープ。
それは、ピコが意図した「ヤク中の醜態」ではなく、「底知れない実力者の片鱗」という、もっとタチの悪い真実を世界に発信してしまったのだった。




