第66話:ハッカーと幽霊と泥棒猫
この世には、決して触れてはならない「パンドラの箱」というものが存在する。
開ければ最後、あらゆる災厄が飛び出し、世界を混沌の渦へと叩き込む禁断の函。
神話の時代なら、それは魔王の封印だったり、核ミサイルの発射スイッチだったりしたかもしれない。
だが、現代社会において、その箱はもっと身近で、もっと地味で、そして遥かにストレスフルな形で存在する。
すなわち――『実家の物置から出てきた、やたら動作が重い旧型パソコン』である。
***
ダンジョン遺失物管理センター、地下資料室。
カビと湿気、そして昭和から堆積した埃が舞うこの魔窟で、天才ハッカー・七色ネオンは、人生最大の強敵と対峙していた。
「……な、なによこれ。石板?」
ネオンの目の前に鎮座しているのは、パソコンと呼ぶのもおこがましい電子の化石だった。
日焼けして黄ばんだ、奥行きがありすぎるCRTモニター。
キーを叩くたびに「ガチャン! ガチャン!」とタイプライターのような音が鳴る、無駄に分厚いキーボード。
そして、マウスを裏返せば、そこには懐かしの「ゴムボール」が埃を噛んで埋まっている。
極めつけは、そのスペックだ。
OSは、サポートが終了して久しい『Windows XP(のエロゲ割れ版)』。
メモリは驚異の256MB。
HDDの空き容量は、昨今のスマホの写真数枚分しかない。
「ふ、ふざけないでよ! 私は『NO-NAME』よ!? 秒間で億単位のデータを処理し、国防総省のサーバーで縄跳びをする神よ!? なんでこんな『ソリティア』起動するだけでフリーズする産業廃棄物を使わなきゃいけないのよ!」
ネオンは頭を抱え、バンバンと机を叩いた。
現在、彼女は国家規模の指名手配犯だ。自前のハイスペックPCをネットに繋げば、その瞬間に逆探知され、特殊部隊が窓からこんにちはしてくる。
ゆえに、このセンターの回線と、この化石PCを経由してIPを偽装するしかないのだが……。
「遅い……! 遅すぎる! 起動してからデスクトップ画面が出るまでに、カップラーメンが伸びて冷製パスタになっちゃうわよ!」
ブフォオオオオオオ!!
PC本体からは、離陸直前のジャンボジェットのような爆音が響いている。排気ファンが悲鳴を上げているのだ。
「ええい、こうなったらやるしかない! 天才の力で、この石板をスーパーコンピューターに進化させてやるわ!」
ネオンは狂ったようにキーボードを叩き始めた。
カカカカカカカッ!
指先が残像を生む。
彼女が行っているのは、OSのカーネル(核)部分の強制書き換えと、ハードウェアの限界を無視した違法なオーバークロック(ドーピング)。
「要らない機能は全部削除! イルカのアシスタント、お前は消えろ! スクリーンセーバー、お前もだ! リソースの全てを演算に回せ! 燃えろCPU! 唸れメモリ! お前らの限界なんて知ったことか! カタログスペックの1000倍の速度で回れぇぇぇ!」
キュイイイイーン!
PC本体から、もはや電子機器が出してはいけない音が響き始める。
排気口から黒煙が上がり、モニターの画面が激しく明滅する。
その時だった。
「……痛いっ!」
突然、モニターの中から「白い手」がニュッと伸びてきて、ネオンの頬を思い切りつねったのだ。
「ふぎゃっ!? な、なに!?」
「痛いのはこっちよ! 勝手に人の部屋を模様替えしないでくれる!?」
モニターのノイズが一点に集束し、画面の中に一人の少女が現れた。
銀髪に白いワンピース。
ただし、低スペックPCのデータ容量制限のせいか、頭身が縮んで二頭身のSDキャラになっている。
このセンターの住人にして、電子の地縛霊――マシロだ。
「あ、あんた誰!? ていうかウイルス!? 画面から出てくるな! 貞子かよ! 3D対応してないでしょこのモニター!」
「失礼ね! 私はここの家主よ! あんたこそ何よ、ゴミ箱のアイコンを勝手に『燃えるゴミ』に変えたり、マイコンピュータを『奴隷』に書き換えたり! 私のこだわりのアイコン配置がぐちゃぐちゃじゃない!」
マシロは画面の中でプンスカと怒り、ネオンが打ち込んだコードを霊力で物理的に消しゴムのように消し始めた。
「やめろ! せっかく最適化したのに! ショートカットは左側に寄せるのが常識でしょ!?」
「うるさい! 私は右利きなの! それに、壁紙はデフォルトの『草原』じゃなくて、ジンの寝顔コレクション(隠し撮り)にするって決めてるのよ!」
「キモッ! 何そのこだわり!? 重いからやめて! ビットマップ形式で保存するな!」
キーボードによる論理攻撃と、霊力による物理干渉。
次元を超えた、仁義なきPC支配権争いが勃発した。
ネオンがエンターキーを叩くたびに、マシロが画面の中からキーボードに頭突きをして妨害する。
PC本体からは火花が散り、CPUの温度はフライパンなら目玉焼きが焼けるレベルに達していた。
***
その混沌とした戦場に、第三の勢力が介入したのは、PCから本格的に煙が出始め、火災報知器が作動する5秒前だった。
「あら。……随分と賑やかね、ここ」
鈴を転がすような声と共に、地下資料室の重い鉄扉が開いた。
そこには、猫耳のついた黒いフードを目深に被った少女――怪盗アリスが立っていた。
手にはコンビニ袋を提げ、口にはポテトチップス(コンソメパンチ)を咥えている。まるで自分の家に帰ってきたかのように、完全にくつろいだ様子だ。
「……ひっ」
ネオンの動きが凍りついた。
知らない人間。
しかも、気配を全く感じさせなかった。
極度の対人恐怖症(コミュ障)であるネオンは、反射的に椅子の下に潜り込もうとするが、腰が抜けて動けない。
だが、アリスは怯えるネオンには目もくれず、火花を散らすモニターを興味深そうに覗き込んだ。
「へぇ。……このスパゲッティコード、あんたが書いたの?」
アリスは、画面を流れる高速の文字列を目で追い、感心したように口笛を吹いた。
「すごいわね。古いXPのカーネルを土台にして、仮想メモリを無限増殖させてる。……これ、ダークウェブで1億ビットコインの賞金がかけられてる『NO-NAME』独自の署名じゃない。まさか、あの伝説のハッカーがこんな湿気た地下室にいるなんてね」
「……ッ!?」
ネオンの顔色が、青を通り越して透明になった。
バレた。
一瞬で正体がバレた。
殺される。賞金目当てに、どこかの犯罪組織か、あるいは国家機関に売り飛ばされる。
目の前の少女が、急に死神に見えてくる。
ガタガタと音を立てて震えるネオンを見て、アリスはニヤリと笑った。
それは獲物を狙う猫のような、しかしどこか悪戯っぽい笑みだった。
「安心しなさいよ。あたしも似たような稼業だし? ……それに、今のあんた、使えるわ」
アリスはポテチをバリボリと豪快に噛み砕き、画面の中のマシロに声をかけた。
「マシロ。いつまで痴話喧嘩してるのよ。……こいつ(ネオン)と手を組みなさい」
「はぁ!? 嫌よ! 私の神聖なデスクトップを荒らす不法侵入者よ!? 今すぐデリートしてやるわ!」
「バカね。あんたは霊体だから、ソフトの中には入れるけど、ハードウェアの熱暴走はどうにもできないでしょ? 見てみなさい、もうファンが止まりそうよ」
アリスが指差した先。PCの排気ファンは、悲鳴のような異音を上げながら、今にも停止寸前だった。
「こいつなら、あんたが全力で暴れても壊れない『最強の道路』を作れるわ。……そうね、例えるなら、あんたがF1カーで、こいつがサーキットの整備士よ」
アリスの提案は、シンプルかつ合理的だった。
マシロの「電子憑依能力」は、どんなセキュリティもすり抜ける最強のウイルスだが、器となるPCが耐えられない。
ネオンの「ハッキング能力」は、廃材からスーパーコンピューターを作り出せる最強の構築力だが、実行する端末がショボすぎて本気が出せない。
ならば。
ネオンがハードを極限まで強化・冷却し、その上でマシロという「意思を持ったウイルス」が暴れれば――?
「……ふーん。F1カーねぇ。まあ、泥棒猫の言うことにしては一理あるわね」
マシロが腕を組み、上から目線でネオンを見た。
「おい、陰キャ。……私のスピードについてこれる?」
「……は、はい。……たぶん。……いや、やってみせる。……グミさえあれば」
ネオンはおずおずと、リュックから秘蔵のグミ袋を取り出し、一気に口へ流し込んだ。
糖分が脳に回り、瞳孔が開く。
「……行くわよ」
カチッ。
ネオンがエンターキーをッターン! と弾いた瞬間。
世界が変わった。
***
『Connect: World Wide Web』
『Target: PICO_Flame_Source (ピコ炎上元)』
「……うそ」
ネオンは息を飲んだ。
速い。
自分の指が追いつかないほどの速度で、マシロがネットの海を泳ぎ回っている。
モニター上のコンソール画面が、滝のように流れていく。
通常、ハッキングには手順が必要だ。ポートスキャン、脆弱性の探索、パスワード解析、バックドアの設置……。
だが、マシロにはそれが必要ない。
彼女は電子の幽霊。パスワードの壁をすり抜け、ファイアウォールを無視し、直接サーバーの魂に触れることができる。
「右! 海外サーバー経由の攻撃が来るわ!」
「了解! 3番ポート遮断! ダミーIPをばら撒く!」
ネオンが瞬時にコードを打ち込み、マシロの退路を確保する。
PCのCPU温度が危険域に達すると、即座にクロック数を調整し、ファンの回転数を制御する。
物理的な負荷はネオンが支え、論理的な攻撃はマシロが粉砕する。
この世に存在しないはずの、物理と霊力のハイブリッド・ハッキング。
それは、電子の海における暴走族のような無法ぶりだった。
数秒後。
画面には、世界地図上のとある一点を示す赤いマーカーが表示されていた。
ピコを炎上させた工作業者のメインサーバーの場所だ。
「特定完了。……早すぎる。私が本気を出しても3時間はかかるのに……わずか3秒?」
ネオンは呆然と画面を見つめた。
指先が熱い。PCも熱い。だが、それ以上に胸の奥が熱かった。
一人きりの孤独な戦いではない。背中を預けられる相棒がいる感覚。
「す、すごい……。幽霊って、最高のコンピュータウイルスじゃん……」
「人聞きが悪いわね! 『電子の妖精』と呼びなさいよ!」
マシロが画面から飛び出し、ドヤ顔でVサインをした。
その顔には、満足感と、ほんの少しのネオンへの信頼が浮かんでいた。
「……ま、そういうこと」
アリスは満足げに頷き、ポテチの袋を逆さにして残りのカスを口に流し込んだ。
そして、空になった袋をネオンの頭にポンと乗せた。
「はい、仲直り。……これで『最強の検索チーム』の結成ね」
「……うん。悪くないかも」
「ふん、まあ家賃分くらいは働かせてあげるわよ。……あ、ちなみにこのPCの壁紙、やっぱりジンの寝顔に戻していい?」
「絶対ダメ!」
薄暗い地下室。
ハッカーと、幽霊と、泥棒猫。
社会から弾き出された三人の少女たちは、ジャンクパーツの山の中で、奇妙な共犯関係を結んだ。
外では雨が上がっていたが、彼女たちの電子の旅は、まだ始まったばかりだった。




