第65話:底辺からの再出発
人間という生物は、酸素がなければ数分で死ぬ。水がなければ数日で死ぬ。食料がなければ数週間で死ぬ。
だが、現代社会には、それらと同等か、あるいはそれ以上に欠乏すれば即座に精神が壊死する「必須栄養素」が存在する。
――『承認』だ。
インターネットという名の電子ドラッグが脳髄に焼き付けた、他者からの肯定。称賛。羨望。
一度でもバズり、数万、数百万という数字の快楽を知ってしまった人間は、もはやただの人間ではない。
数字を啜らなければ呼吸すらままならない、哀れな「承認欲求ゾンビ」へと成り果てるのだ。
そして今ここに、そのゾンビが一体、腐臭を漂わせて転がっていた。
***
ダンジョン遺失物管理センター。その最奥にある、カビと埃の匂いが充満した元・倉庫。
窓から差し込む朝日は、希望の光などではなく、敗残者を炙り出す処刑場のサーチライトのようだった。
「……減ってる。また減ってる……ッ!」
万年床と化した高級羽毛布団(持参)の上で、ピコ・デ・ガマは痙攣していた。
彼が血走った目で凝視しているのは、スマホの画面だ。
SNSのフォロワー数カウンター。かつて「300万人」という黄金の輝きを放っていたその数字は、今や見るも無残な速度でカウントダウンを続けていた。
280万、250万、230万……。
リロードするたびに、数万人が消えていく。
それはまるで、自分の身体の肉が削ぎ落とされていくような、物理的な幻痛を伴っていた。
「ふ、ふざけんなよ……! 俺は被害者だぞ! ちょっと本音が漏れただけじゃねぇか! 鼻クソほじったくらいでガタガタ抜かすなよ! 人間味があっていいだろ!?」
ピコは絶叫し、スマホを布団に叩きつけた。
通知欄には、昨日までの「大好き!」という愛の言葉の代わりに、呪詛のような罵倒と、スポンサーからの『契約解除』『損害賠償請求』のメールが、呪いの御札のように並んでいる。
「クソッ……クソッ! どいつもこいつも掌返しやがって……! 昨日の敵は今日の友? 逆だよバーカ! 昨日のファンは今日のアンチだ!」
彼は髪を掻きむしり、爪を噛んだ。
呼吸が浅い。動悸がする。
このままでは終わる。
『国民の弟』から『国民の汚物』へと転落し、誰からも見向きもされず、路地裏の生ゴミとして朽ち果てる。
それだけは耐えられない。死ぬより辛い。
「……う、うぅ……」
部屋の隅から、また別のうめき声が聞こえた。
ピコがギロリと睨むと、そこにはジャージ姿の肉塊――七色ネオンが、膝を抱えて震えていた。
「……怖い。ネット怖い。エゴサしたら『ネオンの住所特定スレ』がパート50まで伸びてる……。もう死ぬ。ログアウトしたい……」
ネオンはガタガタと震えながら、徳用サイズのグミ袋に手を突っ込み、リスのように高速で咀嚼し続けている。
糖分で脳のパニックを抑えているようだが、その姿はどう見ても限界を迎えた小動物だ。
「おい陰キャ! いつまでビビってんだ! お前のハッキングで俺のフォロワー数戻せねぇのかよ! 数字だけ改ざんしろよ!」
「む、無理よ……バカ言わないで……。今はネットに接続した瞬間、国家保安局の逆探知が走るのよ……。回線繋ぐなんて自殺行為だわ……」
「チッ、使えねぇな! それでも『ネットの神』かよ!」
ピコは舌打ちをし、自身の美麗な顔を両手で覆った。
他力本願は無理だ。
ならば、自力で這い上がるしかない。
だが、どうやって?
今の自分は、地に落ちたアイドルだ。キラキラした王子様キャラで「おはよう」とツイートしたところで、「おはようクズ」と返されるのがオチだ。
「……待てよ」
ピコの脳内に、悪魔的な閃きが降りてきた。
王子様がダメなら。
汚れ役になればいい。
今の世の中、正義の味方よりも、悪を裁く「暴露系」の方が数字を取れる。
他人の不幸は蜜の味。正義という名の棍棒で誰かを殴るエンターテインメント。
「ターゲットは……このセンターの所長・黒鉄ジン」
ピコは立ち上がり、汚れた窓ガラス越しに、階下を見下ろした。
中庭のようなスペースで、ヨレヨレの作業着を着た男――ジンが、気だるげに竹箒を動かしている。
「あの死んだ魚のような目。絶対にカタギじゃねぇ」
ピコは確信していた。
国営の施設に住み着き、仕事らしい仕事もせず、昼間からゴロゴロしている男。
そのくせ、時折見せる鋭い眼光。
裏金? 横領? それともダンジョンの違法遺物を密売する闇ブローカー?
叩けば埃どころか、産業廃棄物が出てくるに違いない。
「見てろよ豚ども。この『底辺センター』の闇を暴いて、俺は『腐敗を許さない正義の告発者』として復活してやる!」
ピコの瞳に、ギラギラとした野心の炎が灯った。
それは再起への希望などではない。他人の足元を掬ってでも生き残ろうとする、浅ましい執念だった。
***
作戦名:『密着! 底辺管理職の黒い24時』。
ピコは、逃走時に持ち出した数少ない私物の中から、至高の相棒を取り出した。
手のひらサイズの超小型ドローン『ハエ男くん1号(改)』。
最新の静音ローターと光学迷彩機能を搭載し、羽音すら立てずに標的を追跡する、盗撮のためだけに生まれた悪魔のメカニズムだ。
「行け、1号! 奴の悪事を、4K画質・60fpsで暴き出せ!」
ピコがコントローラーを操作すると、ドローンは音もなく浮上し、換気口の隙間から外へと滑り出した。
モニターに映し出される、センターの外の世界。
ジンはちょうど、軽トラに乗って外出するところだった。
「ふっふっふ、のこのこと出かけおって。取引現場を押さえてやる」
ピコは倉庫の暗闇に潜み、スナック菓子を齧りながら追跡を開始した。
時刻は午前10時。
ジンを乗せた軽トラが到着したのは、古書店が立ち並ぶ神保町の一角だった。
古びた看板。埃っぽい路地。
いかにも「何か」がありそうな雰囲気が漂っている。
(来たな。古本屋の奥にある秘密の地下室で、禁断の魔導書や、政府転覆の計画書を取引する気だろ……!)
ピコは息を飲む。
画面の中のジンは、周囲を警戒するように左右を見渡し(ただの信号確認)、一軒の薄暗い古書店へと入っていった。
ドローンを慎重に店内へ侵入させる。
カウンターの奥。
妖怪のようなシワシワの店主と、ジンが対峙している。
重苦しい沈黙。
そして、店主が無言で茶封筒を差し出した。
「……例のブツだ。状態はいいぞ」
「助かる。……ずっと探していたんだ」
ジンが震える手で封筒を受け取る。
決定的瞬間だ。
ピコは録画ボタンを連打した。
「さあ見せろ! その中身を! 覚醒剤か!? 機密データか!?」
ジンが封筒を開け、中身を取り出す。
ビニールに包まれた、一冊の雑誌。
その表紙には――
『月刊・昭和のアイドル水着特集 ~あの頃、僕らは若かった~(復刻版)』
極めて露出度の低い、しかし妙にハイレグの角度が鋭い、昭和のアイドルが微笑んでいた。
「……おぉ……」
ジンが、感嘆の声を漏らす。
「見ろよこの角度。今のデジタル修正されたグラビアにはない、このアナログな肉感。……芸術だ」
「だろう? 最近の若いモンには分からんのさ、この『わびさび』が」
「違いねぇ」
二人は、まるで聖書でも読むかのような崇高な顔つきで、グラビアページをめくり、数百文字に及ぶ熱い(そして心底どうでもいい)議論を交わし始めた。
「…………は?」
ピコの思考が停止する。
カチカチとコントローラーを持つ手が固まる。
なんだこれは。
ただのスケベなオッサンじゃないか。
「い、いや待て! これはカモフラージュだ! 『木を隠すなら森の中』理論だ! こんな堂々とエロ本を買うことで、逆に怪しまれないようにしているに違いない!」
ピコは必死に解釈をねじ曲げた。
そうに決まっている。天下のダンジョン管理者が、勤務中にエロ本を買うためだけに神保町まで来るわけがない。
***
午後1時。
次なる舞台は、地域最安値を誇るスーパーマーケット『激安の殿堂』。
ジンは、精肉売り場の前で仁王立ちしていた。
その背中から立ち昇るオーラは、歴戦の剣士のそれだ。
周囲には、同じく殺気を放つライバルたち――近所の主婦(ベテラン勢)が、カートを武器のように構えて包囲網を敷いている。
(な、なんだこの殺気は……!? ここで抗争が始まるのか!?)
ピコはごくりと唾を飲み込んだ。
店内に、気だるげなBGM『ポポポポポ〜♪』が流れる中、一人の店員が現れた。
その手には、神の印章――『半額シール』が握られている。
店員が、豚コマ切れ肉のパックに手を伸ばした瞬間。
世界がスローモーションになった。
刹那。
ジンの姿が消えた。
否、速すぎるのだ。
縮地。あるいは神速の歩法。
主婦たちが「あらやだ!」と反応するよりも速く、ジンは流れるような動作でシールが貼られた瞬間のパックを掠め取り、カートへと放り込んだ。
ズシャァァァァッ!
残像すら残る鮮やかな手際。
100g78円の肉が、半額の39円になる瞬間を狙った、神業(職権乱用)。
「……勝った」
ジンは額の汗を拭い、勝利の笑みを浮かべた。
その顔は、魔王を倒した勇者よりも、あるいは30億円のダイヤを盗んだ怪盗よりも輝いていた。
「……ッ、地味すぎるぅぅぅぅッ!!!」
ピコは倉庫で絶叫し、タブレットを床に叩きつけそうになった。
なんだこの映像は。
需要ゼロだ。
誰が見るんだ、オッサンが39円の肉のために全力を出している動画なんて。
スパチャどころか、「働け」というコメントで埋め尽くされる未来しか見えない。
「映えねぇ……! 1ミリも映えねぇよ! もっとこう、路地裏で白い粉を取引するとか、血みどろの抗争に巻き込まれるとかしろよ!」
アイドルの常識(偏見)で叫ぶピコ。
だが、現実は非情だ。ジンの日常は、清々しいほどに「小市民」であり、同時に「底辺」だった。
***
時刻は夕方。
諦めかけたピコの目に、ようやく「それらしい」異変が飛び込んできた。
ジンが、人気の少ない高架下の薄暗い路地裏へ入っていく。
そこは、昼間でも日が差さない、犯罪の匂いがする場所。
待ち構えていたのは、白衣を着た怪しい男――闇医者ヤクモだった。
(……来た!)
ピコの直感が告げた。これだ。
今度こそ、間違いなく「黒い取引」だ。
エロ本でも、豚肉でもない。本物の「闇」だ。
ドローンを慎重に接近させる。
マイクの感度を最大にブーストする。雨上がりの湿った空気が、緊張感を媒介する。
「……持ってきたかい、例のブツは」
「ああ。……純度100%の特製品だ。効き目は保証するよ」
ヤクモが、小瓶に入った錠剤をジンに渡す。
ジンは周囲を警戒し、それを素早く懐にしまった。
「……金は?」
「ツケでいいさ。その代わり、君の『身体』で払ってもらうよ。君のデータは医学の宝だからね」
「チッ、強欲なヤブ医者だ」
会話が、完全にアウトだ。
薬物。身体での支払い。医学の宝(人体実験)。
これは言い逃れできない。決定的な証拠だ。
「勝った……! これだ、このスクープがあれば俺はV字回復だ! 社会的に死ぬのは俺じゃない、お前だ黒鉄ジン!」
ピコは歓喜に震えた。
もっと寄れ。手元のブツを、小瓶のラベルを鮮明に映せ。
彼はドローンを操作し、二人の顔の高さまで降下させた。
その時だった。
ベチャッ。
鈍く、湿った音が響いた。
カメラの視界が、突如としてピンク色の「肉の壁」に覆われた。
「……ん?」
映像が乱れる。
粘着質な、ヌメヌメとした質感。
ドローンが制御を失い、激しく回転しながら、何かの「体内」へと引きずり込まれていく。
そして、カメラが最後に捉えたのは――
巨大なカエルの、ドアップだった。
『ケロ(何見てんだ貴様)』
ヌラリと光る緑色の肌。
人間のような手足が生えた、不気味な巨大オタマジャクシ。
剣崎レオ(呪いの姿)だ。
彼は、空中にホバリングしていたドローンを「巨大な虫」だと認識し、その伸縮自在の長い舌で捕食したのだ。
「う、うわあああああっ!? なんだこの化け物!?」
ピコが絶叫する。
画面の中で、レオの口内映像がグルグルと回る。
並んだ歯、ピンク色の肉壁、そして大量の唾液。
咀嚼される直前の、生理的嫌悪感MAXの映像。
バキバキッ! グチャッ!
スピーカーから、プラスチックが砕ける音と、湿った咀嚼音が響き――
プツン。
『No Signal』。
通信が途絶えた。
***
数分後。
ピコは呆然と、真っ暗になったタブレットを見つめていた。
ドローン(30万円)は死んだ。
スクープ映像も撮れていない。
残ったのは、カエルの口内のグロテスクなアップと、粘液まみれのノイズ映像だけ。
「……終わった。俺の再起プラン、全滅……」
ピコは膝から崩れ落ちた。
もういい。
やけくそだ。
彼は、手元に残ったその「カエルの捕食映像」を、タイトルも適当に『謎の生物に食われた』として、動画サイトにアップロードした。
どうせ誰も見ない。
アンチが「ざまぁw」とコメントするだけだ。
そう思って、彼はふて寝した。
翌朝。
ピコを叩き起こしたのは、スマホの異常な振動だった。
ブブブブブブブブッ!
「……あ? なんだよ、また炎上かよ……」
寝ぼけ眼で画面を見る。
そこには、信じられない数字が並んでいた。
『急上昇ランク1位:【衝撃】都内地下に未確認生物(UMA)出現!?』
再生数、一晩で100万回突破。
『なんだこれ!? CGか?』
『いや、動きがリアルすぎる。新種のチュパカブラじゃね?』
『撮影者食われたの? 南無』
『キモいけどなんかクセになる顔してるwww』
『このヌルヌル感がたまらん』
バズっていた。
俺の計算し尽くされた笑顔でも、渾身のダンスでもなく、あのヌルヌルしたカエルのオッサン顔が。
「……ふざけんなよ」
ピコはスマホを握りしめ、ワナワナと震えた。
「なんでだよ! 俺は3時間かけてメイクして、照明焚いて、笑顔作ってんのに! なんでカエルの盗撮動画の方が数字取れるんだよ!」
プライドが、ズタズタに引き裂かれる音がした。
承認欲求の怪物は、満たされるどころか、より深く、歪な飢餓感に襲われていた。
カエルに負けた。その事実は、炎上よりも深くピコの心をえぐった。
「認めねぇ……! こんなの認めねぇぞ! 俺はピコ・デ・ガマだ! カエルごときに負けてたまるかァァァ!」
早朝のセンターに、元・アイドルの情けない絶叫が木霊する。
それを聞きながら、ジンはリビングで「……朝からうるせぇな」と布団を被り直し、幸せな二度寝へと落ちていくのだった。
底辺からの再出発。
その道のりは、果てしなく遠く、そしてヌメヌメとしていた。




