第63話:エピローグ・余命一年
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があるが、ここ『遺失物管理センター』においては、喉元を過ぎても熱さは消えないし、むしろ新たな火種が食道あたりで再燃するのが常である。
数日後。
ダンジョンB3F、センターのリビング(壁はまだベニヤ板)。
平和な朝の光景……と呼ぶには、いささか硝煙の匂いと殺気が濃すぎた。
ガシャァァァン!!
盛大な音を立てて、窓ガラス(昨日入れたばかりの新品)が砕け散った。
そこから飛び込んできたのは、銀色の髪をなびかせた小柄な影――アリス・ファントムハイヴだ。
「おっはよー! おじさーん! 遊びに来てあげたよー!」
アリスは土足でテーブルの上に着地し、手にしたコンビニ袋(たぶん万引きではない、と思いたい)を高々と掲げた。
「今日の朝ごはんは、高級デパートの『限定クロワッサン』だよ! 開店ダッシュで勝ち取ってきたの!」
「……おい。玄関から入れと言ったはずだぞ、泥棒猫」
俺、黒鉄ジンは、ソファでコーヒーを啜りながら、死んだ魚のような目で言った。
この数日、こいつは毎朝こうやって不法侵入を繰り返している。
ストーカー被害届を出そうにも、相手が指名手配犯の怪盗では警察も呼べない。
「だってぇ、鍵かかってるんだもん。……ほら、あーんして?」
アリスがクロワッサンをちぎり、俺の口元に差し出してくる。
その顔は、満面の笑みだ。
遊園地で見せた涙など無かったかのように、小悪魔的な明るさを振りまいている。
「あーん、なんてしないわよ! この泥棒猫!」
バチバチバチッ!!
そのクロワッサンを、青白い電撃が黒焦げにした。
キッチンから、鬼の形相でフライパンを持ったマシロ(エプロン姿)が浮遊してくる。
「ジンの朝食は、私が作った『栄養満点・特製青汁ホットケーキ』って決まってるのよ! 余計なカロリーを与えないで!」
「げっ、ユーレイ女。……またそんな緑色の物体を食べさせる気? おじさんがカエルになっちゃうよ?」
「誰がユーレイよ! 秘書よ! ……それに、あんたこそ何なの? いつまでここに居座る気? 家賃請求するわよ?」
「いいじゃん別に。おじさんは『あたしが拾った』んだから、あたしが世話する権利があるの!」
「はぁ!? 拾ったのは私よ! 5年前から私の所有物よ!」
ギャーギャーと始まる、朝の定例会議。
俺はため息をつき、黒焦げになったクロワッサンと、毒沼のように泡立つホットケーキを見比べた。
どっちも食いたくない。
「……平和だねぇ」
部屋の隅で、薬師寺ヤクモがコーヒーを飲みながら他人事のように呟く。
そして、その足元の水槽には――。
「……ピギィ(腹減った)……」
一匹の、巨大なオタマジャクシが泳いでいた。
黒く、ぬるりとした流線型のボディ。申し訳程度に生えた小さな手足。
元・白銀の騎士、剣崎レオの成れの果てである。
「……ピギッ、ピギギ(いつ人間に戻れるんだ、これ……)」
レオ(オタマジャクシ)が水面から顔を出し、悲しげに泡を吐く。
3分間の無双の代償は、あまりにも大きかった。
ヤクモ曰く、「再進化」までにはあと一ヶ月はかかるらしい。それまでは、この水槽が彼の城であり、俺たちのペットだ。
「おいレオ、餌だぞ」
俺は食パンの耳をちぎって水槽に投げ入れた。
レオはプライドを捨ててそれに食らいつく。
パクパクと必死に食べる姿は、涙を誘うと同時に、どこか愛嬌があった。
「……さて。現実を見るか」
俺は騒がしい食卓を放置し、郵便受けから取ってきた一通の封筒を開けた。
中に入っているのは、今回の依頼――遊園地での「オルゴール奪還任務」の請求書に対する回答だ。
ペラッ。
そこには、たった一行、無機質なスタンプが押されていた。
『宛先不明により返送』
「……は?」
俺の手が震える。
依頼主は、紅蓮騎士団が用意したダミー会社だった。
当然、アジトを壊滅させられた今、会社など跡形もなく消えている。
つまり。
「……ぜ、ゼロ……?」
報酬、300万円。
経費(修理費、爆薬代、治療費)、500万円。
差し引き、マイナス200万円。
借金総額、一千五百五十万円。
「ふざけんなァァァァァッ!!!」
俺の絶叫が、センターの天井を突き抜けた。
マシロとアリスが喧嘩を止め、レオが水槽の底へ逃げ込む。
「またタダ働きかよ! 体張って、命削って、ガキ拾って、カエル飼って……その結果がこれかよ!」
俺は請求書をビリビリに破り捨て、床に叩きつけた。
紙吹雪が舞う中、ヤクモだけが楽しそうに笑っていた。
「やれやれ。……骨折り損のくたびれ儲けとは、まさにこのことだねぇ。でもまあ、命があっただけマシだと思いなよ。……『今のところ』はね」
ヤクモの意味深な言葉に、俺は動きを止めた。
***
その日の夜。
騒がしい同居人たちが寝静まった頃。
俺は、ヤクモの診察室(元・倉庫)のパイプ椅子に座っていた。
部屋には、青白いシャーカステンの光だけが灯っている。
そこに貼られているのは、俺の胸部と背中のレントゲン写真、そして魔法的なスキャン画像だ。
「……で? どうなんだ、ヤブ医者」
俺は上半身裸のまま、煙草に火をつけた。
紫煙が、重苦しい空気に溶けていく。
ヤクモは、いつものふざけた態度はなく、真剣な眼差しで写真を見つめていた。
彼は白衣のポケットから指示棒を取り出し、俺の背骨のあたりを指し示した。
「……驚いたね。正直、生きてるのが不思議なくらいだ」
ヤクモの声は、低く、冷徹だった。
「見てごらん。この黒い影。……背骨に沿って、神経と魔力回路が癒着し、炭化している」
写真に映る俺の背骨は、まるで黒い蔦が絡みついたように、異様な影に覆われていた。
『死者の共鳴』。
遺品に触れ、死者のスキルと想いを引き出す能力。
その代償として、俺の身体は死者の「苦痛」と「死因」をフィードバックされ続けてきた。
「5年間。……君は、何百人もの死者の人生を背負って戦ってきた。その負荷が、限界を超えているんだ」
ヤクモが俺の背中に触れる。
そこには、幾何学模様のような、赤黒い「呪い傷」が刻まれていた。
脈打つたびに、焼けるような熱さが走る。
「内側はもうボロボロだ。……内臓も、筋肉も、継ぎ接ぎだらけの布切れみたいになっている。今の君を動かしているのは、生命力じゃない。『意地』だけだよ」
「……そうか」
俺は短く答えた。
驚きはなかった。
自分の体のことだ。とうに気づいていた。
最近、朝起きるのが辛いのも、手の震えが止まらないのも、全部こいつのせいだと分かっていた。
「……あと、どれくらいだ?」
俺は煙を吐き出しながら聞いた。
ヤクモは一瞬沈黙し、そして残酷な事実を告げた。
「このまま能力を使い続ければ……あと1年。いや、半年かもしれない」
余命宣告。
死刑判決にも等しい言葉。
「治療法は?」
「ないね。……唯一あるとすれば、もう二度と能力を使わず、ベッドの上で植物のように生きることだけだ。そうすれば、数年は延びるかもしれない」
「……はん。お断りだ」
俺は笑い飛ばした。
植物になって長生き? 冗談じゃねぇ。
俺にはまだ、やらなきゃならないことがある。
拾わなきゃならない「忘れ物」が、山ほどあるんだ。
「1年か。……十分だ」
俺はシャツを羽織り、立ち上がった。
背中の傷が、ドクンと赤く脈打つ。
それは死へのカウントダウンではなく、俺を突き動かすエンジンの鼓動のように感じられた。
「散らかしたゴミを片付けるには、十分すぎる時間だ」
「……死に急ぐつもりかい? マシロちゃんが悲しむよ」
「あいつには言うなよ。……俺がくたばるその瞬間まで、あいつには『最強の飼い主』の背中を見せてやりてぇんだ」
俺はニヤリと笑い、診察室を出た。
廊下に出ると、窓から月が見えた。
その光は、5年前のあの日と同じように、冷たく、そして優しく俺を照らしていた。
アリスが加わり、賑やかになったセンター。
借金は増え、体はボロボロで、敵は増える一方だ。
だが、悪くない。
この泥沼のような日常が、今の俺には愛おしい。
「……待ってろよ、最下層」
俺は拳を握りしめた。
5年前に置いてきた、本当の「忘れ物」。
それを拾いに行くまでは、地獄の閻魔様だって俺を連れて行くことはできねぇよ。
俺たちの夜明けは、まだ遠い。
だが、歩き続ける足は、もう止まらない。




