第61話:オルゴールの中の迷子
雨が降っていた。
冷たく、色のない、灰色の雨だ。
そこは、世界が終わった後の廃墟のような街だった。
空は重い鉛色の雲に覆われ、太陽など最初から存在しなかったかのように薄暗い。ビル群は墓標のように立ち並び、ひび割れたアスファルトの隙間からは、鉄錆色の雑草が力なく生えている。
音がない。
降り注ぐ雨音さえもしない。
ただ、世界全体が「サーッ」という、放送終了後のテレビ画面のような、乾いた砂嵐の音だけに包まれていた。
ここは、銀のオルゴールの中。
あるいは、アリス・ファントムハイヴという少女が、心の奥底に作り上げた「安全地帯」の成れの果て。
「……誰も、来ないで」
路地裏の、ゴミ捨て場の陰。
幼い姿のアリスは、錆びついたドラム缶と腐ったコンクリート塀のわずかな隙間に体を押し込み、膝を抱えて震えていた。
着ている服はボロボロで、銀色の髪は泥と埃にまみれ、かつての輝きを失っている。
その姿は、世間を騒がせる神出鬼没の怪盗ではなく、5年前に施設の前で置き去りにされた、ただの無力な「捨て子」だった。
寒い。
指先の感覚がない。
冷たい雨が肌を叩き、体温を奪っていく。でも、この寒さだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚だった。
(……ここなら、安心だ)
アリスは膝に顔を埋めた。
ここは世界の掃き溜め。忘れ去られた場所。
誰もあたしを見つけない。誰もあたしを利用しない。
「すごい才能だ」なんて褒めておいて、用が済んだらゴミのように捨てる大人たちは、ここにはいない。
誰にも期待されず、誰にも失望されない。
ただ静かに、ガラクタの一部として腐っていける。
――5年前の記憶が、ノイズの向こうで明滅する。
雨の日だった。
大きな鉄格子の前。
『ここで待っていなさい』と言って背を向けた、母のコートの赤色。
一度も振り返らなかった。
あの日、アリスは知ったのだ。自分は「愛されるべき子供」ではなく、「処理されるべき荷物」だったのだと。
だから、盗んだ。
宝石を。絵画を。注目を。
価値のあるものを盗めば、自分にも価値が生まれるような気がした。
警察に追われ、世間に騒がれる時だけ、あたしは透明人間じゃなくなった。
でも、盗んだ宝石を部屋に並べてみても、胸に開いた風穴は塞がらなかった。
冷たくて、硬くて、綺麗なだけの石ころ。
それらは、あたしの体温を吸い取って、余計に寒くさせるだけだった。
「……消えちゃえばいいのに」
誰が?
世界が? それとも、あたしが?
どっちでもいい。全部、なくなってしまえばいい。
『……見つけた』
不意に、ノイズ混じりの声が響いた。
アリスはビクリと肩を震わせ、顔を上げた。
雨の向こうから、一つの影が近づいてくる。
灰色の世界で唯一、淡い光を帯びた「白」い影。
その光は、この死に絶えた世界にはあまりにも異質で、眩しく、そして恐ろしかった。
「……誰?」
アリスは威嚇するように睨みつけた。
来るな。入ってくるな。
ここはあたしの世界だ。あたしだけの、惨めな王国の領土だ。
土足で踏み込んで、勝手に光を灯さないで。
影が近づく。
カツ、カツ……というヒールの音が、音のない世界に波紋を広げる。
現れたのは、長い黒髪の女性――マシロだった。
彼女は傘もささずに、降り注ぐ灰色の雨を受け止めながら、悲しげな瞳でアリスを見下ろしていた。
その瞳は、深海のように静かで、底知れない優しさを湛えている。
「……迷子さん。こんなところに隠れてたの」
「あっち行って!」
アリスは叫んだ。
喉が張り裂けそうなほどの絶叫。
その声は、拒絶の刃となって空気を切り裂き、雨粒を弾き飛ばした。
「嘘つき! 大人なんてみんな嘘つきだ! 『愛してる』とか『必要だ』とか言って、最後は捨てるんでしょ!? あたしが役に立たなくなったら、ゴミみたいに捨てるくせに!」
アリスの感情が爆発する。
恐怖。猜疑心。憎悪。
それらが混ざり合い、形を成す。
彼女の足元の影から、無数の「黒い茨」が噴き出した。
拒絶の具現化。
自分を守るための壁であり、近づく者すべてを傷つけるための矛。
シュバッ!!
生き物のように蠢く鋭利な棘を持った茨が、マシロに向かって襲いかかる。
物理的な攻撃ではない。
アリスのトラウマそのものが、刃となって相手の魂を抉り取る、呪いの攻撃だ。
「消えろぉぉぉッ!!」
アリスは目を閉じて叫んだ。
殺意はない。ただ、怖いのだ。
誰かに触れられるのが。
優しくされて、信じて、また裏切られるのが、死ぬほど怖い。
傷つくくらいなら、先に傷つける。
孤独になるくらいなら、最初から一人でいる。
それが、この5年間でアリスが学んだ、唯一の生存戦略(処世術)だった。
ドスッ。
鈍い音がした。
茨が、何か柔らかいものを貫く音。
「……っ、う……」
アリスは恐る恐る目を開けた。
そして、息を呑んだ。
マシロは、避けていなかった。
逃げてもいなかった。
茨の先端は、彼女の身体――霊体であるその白い肌を深々と貫き、胸や肩から青白い光の粒子(血)を散らせていた。
「な、んで……?」
アリスの声が震える。
なんで避けないの? なんで怒らないの?
幽霊なら、物理攻撃なんてすり抜けられるはずなのに。
どうして、わざわざ実体化して、あたしの「拒絶」を受け止めてるの?
「……痛いわね」
マシロは顔をしかめた。
それは演技ではない。魂を直接削られる激痛が、彼女の霊核を揺さぶっているのだ。
けれど、彼女は一歩も退かなかった。
むしろ、茨が食い込むのを無視して、さらに一歩、アリスの方へと歩を進めた。
ズズッ……。
茨が肉を裂き、さらに深く食い込む。
彼女の魂が削れる音が、キリキリとアリスの脳内に直接響いてくる。
「あんたの『拒絶』……随分と鋭く研いであるじゃない。……あいつ(ジン)のハサミと、いい勝負よ」
「来ないで! 痛いよ! あたしに近づくと、傷つくんだよ!?」
「平気よ。……幽霊だもの。死ぬことなんてないわ」
マシロは強がって笑った。
その笑顔は、痛みに耐えながらも、相手を安心させようとする大人の顔だった。
どこか、あのおじさん――ジンに似ていた。
不器用で、損な役回りばかり引き受けて、それでも他人のために血を流す、馬鹿な大人の顔。
マシロは、アリスの目の前で膝をついた。
泥水に濡れるのも構わず、彼女の目線に合わせる。
そして、胸に刺さった茨ごと、アリスの小さな体を抱きしめた。
ギュッ。
「……ッ!?」
アリスの全身が硬直した。
温かい。
幽霊なのに。体温なんてないはずなのに。
冷たい雨の中で、その腕の中だけが、陽だまりのように温かかった。
それは、マシロの魂が燃える熱さだったのかもしれない。
茨の棘が、マシロの胸に突き刺さる。
抱きしめれば抱きしめるほど、棘は深く食い込み、マシロを傷つける。
それでも、彼女は力を緩めない。
むしろ、自分自身の痛みを確かめるように、強く、強く抱きしめてくる。
「離して……! あたしは泥棒だよ!? 汚いんだよ!?」
「バカね。……泥棒猫が泥だらけなのは当たり前でしょ」
マシロが耳元で囁く。
その声は、雨音にかき消されそうなほど小さいけれど、アリスの心臓に直接届いた。
「痛い……痛いわよ、ほんとに」
マシロの吐息が震えている。
「でもね……『一人』でいる方が、もっと痛いでしょ?」
「……あ、あぁ……」
その言葉が、アリスの心の殻を叩き割った。
最後の一撃だった。
痛い。
そうなのだ。ずっと痛かった。
茨で他人を刺すたびに、その反動で自分自身の心も血を流していた。
誰にも見てもらえないこと。誰にも触れてもらえないこと。
世界中から無視されて、透明人間みたいに生きることが、どんな拷問よりも痛くて、寒くて、寂しかった。
「……う、うわぁぁぁぁぁッ!!」
アリスの瞳から、涙が溢れ出した。
それは灰色の雨ではなく、熱を持った、透明な雫だった。
何年も何年も、心の奥底に溜め込んでいた泥水が、決壊したダムのように溢れ出す。
ポタ、ポタ……。
涙がこぼれ落ちるたびに、奇跡が起きた。
涙が触れた黒い茨が、ガラス細工のようにひび割れ、砕け散っていく。
呪いが解けていく。
アリスを縛り付け、世界から隔離していた拒絶の壁が、ガラガラと音を立てて崩れ、純粋な魔力の光となって空へ昇っていく。
「よしよし。……泣きたいだけ泣きなさい。子供の仕事は泣くことよ」
マシロは、泥だらけの銀髪を優しく撫でた。
その手つきは、とてもぎこちなかった。
彼女自身、母親の記憶もなければ、子供をあやした経験もないからだ。
ただ、5年前に自分がそうして欲しかったように。
あるいは、5年前のジンが自分にしてくれたように、見様見真似で撫でているだけだ。
でも、それがアリスには何よりも心地よかった。
空が変わる。
鉛色の雲が割れ、そこから一筋の光が差し込んでくる。
灰色のビル群が、光の粒子となって溶けていく。
世界が、色を取り戻していく。
「帰りましょう、アリス」
マシロはアリスの手を取って、立ち上がらせた。
その手は、もう茨ではなく、温かな人間の手だった。
「……どこへ?」
アリスは、泣き腫らした目で聞いた。
帰る場所なんてない。
施設にも、隠れ家にも、あたしの居場所なんてどこにもない。
「決まってるでしょ」
マシロは悪戯っぽく笑い、光の射す方角を指差した。
「……あそこで、口の悪いおじさんが待ってるわよ」
その指の先。
光の向こう側に、ぼんやりとしたシルエットが見えた。
鉄パイプを担ぎ、ボロボロの作業着を着て、不機嫌そうに仁王立ちしている男の姿。
世界で一番口が悪くて、世界で一番優しい掃除屋。
「……うん」
アリスは頷いた。
その手はもう、冷たくなかった。
***
感覚が戻ってくる。
深い海の底から、水面へと急浮上するようなめまい。
遠くで聞こえる心電図の音。ピッ、ピッ、ピッ……。
鼻をつく消毒液と、鉄錆の混じった匂い。
「……ん、ぅ……」
まぶたの裏が明るい。
重い体を無理やり引き剥がすように、アリスは目を開けた。
最初に飛び込んできたのは、無機質な鉄の天井と、まぶしい無影灯の光。
そして、覗き込んでくる白衣の男。
「……気がついたかい? お姫様」
横から、ねっとりとした声が降ってきた。
視線を動かすと、白衣を着た男――ヤクモが、聴診器を外してニヤリと笑っていた。
その手には、高電圧の電気ショック用パドルが握られている。
「よ、し……。心拍再開。魔力循環も正常値に戻ったよ。電気ショックの出番はなしか、残念だねぇ」
ヤクモは心底残念そうに、パドルを片付けた。
アリスはぼんやりとした頭で、自分の体を確認した。
手足に絡みついていた黒い茨は消え、代わりに点滴の管や包帯が巻かれている。
体は鉛のように重いが、胸の奥にあった「空洞」は、もう感じなかった。
その代わりに、胸の奥に小さな温かい灯火がともっているような感覚があった。
「……おじ、さん?」
アリスは、掠れた声で呼んだ。
あの不器用な掃除屋を。
視線を巡らせる。
部屋の入り口。
蹴破られてひしゃげたドアの前に、その男は立っていた。
黒鉄ジン。
彼は鉄パイプを肩に担ぎ、ボロボロの作業着を着て、背中で語るように外を睨んでいた。
その足元には、数人の敵兵(増援)が、ゴミのように転がっていた。
床は焼け焦げ、壁には無数の弾痕がある。
どうやら、アリスが寝ている間、彼はここで一歩も引かずに、近づく敵を片っ端から「掃除」し続けていたらしい。
その背中は、マントを翻す騎士のように煌びやかではない。
汗と煤にまみれ、猫背で、どこか疲れた中年の背中だ。
けれど、アリスには、どんな英雄よりも頼もしく、大きく見えた。
「……チッ。目覚めたか」
ジンは、アリスの視線に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。
その顔は傷だらけで、煤で汚れていたが、目は今まで見たどの宝石よりも力強く輝いていた。
「おはよう、クソガキ。……随分と長い昼寝だったな」
ジンはぶっきらぼうに言った。
安堵の色を隠すように、わざとらしく眉間に皺を寄せて。
その手には、もうハサミはない。
でも、鉄パイプを握るその手は、アリスを守るために戦った証で、赤く腫れ上がっていた。
アリスの目から、また涙が滲んだ。
夢じゃなかった。
マシロの温もりも、このおじさんの不器用な優しさも。
本当に、助けに来てくれたんだ。
こんな、泥棒のあたしを。
「……ただいま、おじさん」
アリスは泣き笑いのような顔で、小さく呟いた。
その言葉は、初めて「帰る場所」を見つけた迷子の、心からの安堵の響きを持っていた。
「……おう。おかえり」
ジンは短く答えた。
そして、照れくさそうに鼻の下を擦った。
その横で、空中に浮かんだマシロ(スマホ)の画面が、優しいピンク色に点滅していた。




